不完全。

109 不完全。

 椎名玲は同日朝9時に始業する。

 取締役営業本部長ともされる職位、いち社員の動向を常には把握しない。一課の平社員の状況は係長が知っていればいい。
 それでも調べた、あの男の出退勤の記録を。
 午前9時前早々だった。一課のほかの者たちは形跡がない。

 同日昼、長年のライバル会社の第一秘書から直接連絡を受けた。

「愉しかったですよ、御社の中途入社のかたは……ずいぶん、ねえ!?」

 頭が痛かった。
 自分で作った弁当、ふたを開ける気にならない。砂をかむようでも、深夜のようにいつ非常事態があっても対応しなくてはいけない立場。むりやり食べた。

 ふだんであれば恫喝あいさつがまかりとおる精鋭たちのために造られた豪華なフロア。
 いるのはおそらく、ひとりだけ。
 
 

 同日夕刻。
 長年の宿敵、女狐とまで綽名される重役から直接連絡を受けた。

「えこひいきコネ入社の若造なんか、エースたちがとっくにつぶしたんじゃなかったの?!
 答えたくないのね、そうよねぇえ! 徹底的に調べてやったわ!」

 頭が痛かった。

「業務提携、けっこう。
 弊社もとうに、そう……どれくらいシミュレーションしたかしら。御社もでしょう、答えなくていいわ」

 少子化、先細り。牌が限られている。
 残るはひとつ。

「本業真っ向勝負」

 まがいものはいらない。

「どこも最先端で競争している、突き抜けている存在はいない。
 ……はず、だったのに。
 超えてきた。足もとがみえないくらいの数字、質、絶対の指標。
 すべて示された。……気づいたら握手していた。開始7分、話が短い男は大好きよ」

 本業一本のトップセールス。

「敵同士が突如華々しく取引開始。なぜいまなのか、誰がどうして。理由は必ず知れわたる。
 影響力、経済波及効果、組織強化。
 弊社側からするよりはるかに上。
 こころから欲していた。鮮やかに衝いてくれた。
 ……ねえ?
 あんたみたいな女がいつまでもそんな肩書じゃ困るのよ、いい加減上を奪ってちょうだい、玲!!」

 仮にも大会社と呼ばれる、いままでまったく取引のなかった3社が同時期に。どれだけさわがれるか、にぎやかせるか。株価、注目度……。
 
 

 翌日も椎名はめまいがするほどの連絡を何度も直接受けた。世界中の煌めく多言語著名人から多種多様な問い合わせも数え切れないほど入った。
 おおいなる話題、みな敏感だった。昭和の超大物さえ、

「ぜひわしの家にきてくれ」

 一番の声量は、

「どうかね椎名君! 私の土下座はここまで高値がついたぞ!」
 
 

 山本忠弘、中途入社四日目の朝。
 本社営業一課に所属するすべての者が着席し、始業時刻。
 見届けた、フロアでもっとも上の肩書を持つ営業一課長補佐が名前を呼び、起立させ、告げた。

「一課の総意だ。完敗だ。椎名課長がお呼びだ、行きたまえ」
 
 

 部屋の主の執務机前に平社員が立ち、最敬礼であいさつした。

「おはよう少年。望みはなに?」
「自家用車通勤許可を。以上です」
「許可するわ。
 さっそく予定がたてこんでいるわね、自家用車ではなく社用車を使って。2件の契約書は私が見てあちらへ連絡しました、あれでいいわ。
 これより運転手、輔佐を常時複数つけます。報告、連絡、相談はすべて私に直接。勤務地、時間はこれからもあなたの裁量で。旅費等社内規程はすべて上席待遇。報告書だけはこれまでどおり当日中。指示ある際は私が出すわ。
 会長からお言葉があります」

 重要文化財のような部屋の壁に掲げられたビジョン。両名、直立不動でむかう。
 投影される人物は社トップ、筆頭株主・代表取締役会長。
 遠く海外から、

「話は聞いた。けっこうだ。一刻も早く、目の前の女性の住居を最上階とするように」
「はい」
「空いたその部屋の主は君だ」
「定年までには」

 光が消えた。
 上司は着席し部下は立ったまま、両名むきなおす。

「私が心配する必要は、まったくなかったわね」

 この会社の決算期は3月。
 山本忠弘の最終結果、営業全部門を通じ社史上最速達成。営業部門平社員として社史上最高額。

「とんでもないことでございます。私ひとりではできません、皆さまのお力があってこそです。
 ただしあの本社へ行くのは最後の最後です」
「出国はいつかしら?」
「そのようなこと、まだまだ先です。いくらでも靴を履きつぶし汗水をたらして働く所存です。失礼します」
「待ちなさい。あなたの器にはとうてい入り切らないようだけど、一課はあれでも……」

 声がとぎれた。

「どんな最高の業績を魅せてくれるのかしら?」

 守衛つき専用エレベーターに甘い香りがふわり残った。
 
 

 再びビジョンに光がともる。

「営業一課の再教育を」
「はい」
「終了後、あなたはようやっと最上階の住人だ」
「それだけはご容赦を。少年になにを?」
「手土産を少々。とうに知っていて、活用も十分できたようだ。おかげで対外的にも大手をふって引退できる」
「ひとめで見抜いたのですか」
「あなたが一番知っている」
「承知いたしました、いずれは。ですが」
「まだ私を担ぎあげると?」
「力が必要です、私には」
「いいだろう。ただしこの職も、いずれはあなたのものだ」
「……一代限りと」
「創ったのはあなただ。責任を負ってもらう」

 光が消えた。

「こんなことなら……」
 
 

 永く、つらく、冷たい冬をのりこえた季節の宵。

 出張先のキッチンつきホテルで、ふたりは致した。ひさびさだった。声も聞いていなかった。
 充満する、好き、愛している、名前、声。もどかしい熱さ、激しい猛々しさ。

「外を見てみないか? シャワーを浴びたあと保湿して、きちんとガウンを羽織ってな。風邪をひくなよ」

 そびえたつビルとネオンで星も見えない宙を見あげる。
 こめかみの傷を見あげる。

「帰りたいか」
「……ん」
「君が帰るところは、俺のそばだ」

 泣いている君のために、一秒だけ長く生きてあげた。

 おじいさんになっても、おばあさんになっても、好きだから。
 好きだから。

 溺れるように愛した。