スワンダブル。

94 スワンダブル。

 スポーツウエアに着替えて待つ。
 惚れた女がお気に入りをテーブルにおいたのを見届けて、助走を開始した。

 ロンダード・側方倒立回転跳び¼ひねり後向き。バク転・後方倒立回転跳び。高く、高く跳んだ。
 空中でほぼ反った姿勢で後方へ2回転、あの三日月のように弓なりの姿勢で。腕はほぼ直立に、両脇にだらりとたらす。はっきりと床を視認、着地。
 
 

 走って戻る。

「……すごい」
「ありがとう」

 君の隣。意識して……新居で一番広い部屋を見わたす。
 番いの認識票、鎖を着けなおした。腕時計も。

 大学時代なら。少々語った。
 俺は……。
 
 

 ずっと稼いでいた。
 バイト先で気があうやつと会った。友だちという存在だと気づいたのはずいぶんあとだ。
 どうしても映像を見せたいという。
 いまどきテープだった。保管がたいへんだそうだ。

 1995年、福井県鯖江市で開催された世界体操選手権、女子床運動の演技だった。
 さきほど演技したのが後方伸身2回宙返り。世に、スワンダブルという。

 忘れられない。古いふるいテープの、すり切れるまで見たのだろう、粗い映像の、解説者の言葉を。

加点だけなら11点を上回る!

 当時、体操の採点方法はまだ10点満点だった。技の一つひとつが加点・減点され、演技の得点は実際には世界選手権でもほとんどが9点台だ。
 悪友のアパートをどう飛びだしたのかも覚えていない。大学へ走って体操部の扉をたたいた。入部させてくれ、ではなく、あの選手がやった技を演じたい、教えてくれと懇願した。
 むりだと即答された。意地になっていいかえした。

 教えてもらった。あの選手は史上最後の10点満点演技者でオリンピアン、ゴールドメダリスト。自力で会場内に国歌を鳴り響かせた類いまれなる名選手だ。世界人口に対し何%の人間がこの称号を得られるか。彼女の父親はナショナルチームの選手だ。才能にあぐらをかかず、たゆまず努力しつづけ、引退試合のオリンピックでメダリストとなり、表彰台に上がり有終の美を飾った。

 おまえは何歳だ。

 18歳だと答えた。さらにむりだという。
 体がかたい、身長が高すぎる、開始年齢が遅すぎる。ほか多数、理論的にむりだと断言された。
 それでも食い下がった。
 基礎練習を2年間、1日もかかさずしろという。

 努力とはなにか。

良い方向に続ける。
誰にも、自分でも評価できなくとも諦めない。

 できたならもう一度ここにこい、それまでは近寄るな。

 俺はバイトを1つ減らし基礎練習した。
 ずっと続けた、われながら黙々と。ランニング、柔軟運動、腕立て腹筋背筋スクワット、体幹訓練等々、鍛錬。ただの意地だった。

 やりきった2年後、体操部の扉をたたいた。出てきた人物は俺をさとした人ではなかった。とうに卒業していた。
 話は聞いていたらしく、すんなり体育館に入れてもらえた。体つきを見てすぐにわかったらしい。努力したようだな、いいことだ。健康にもいい、将来必ず芽吹き役に立つ。認める。
 悪いが側転さえもできないだろう、諦めろ。

 ……できなかったさ。きちんと教えてもらったのに何日もできなかった。空中動作の感覚がまったくわからなかった。
 丈夫な体に産んではもらえたが、俺に輝かしい身体能力の才能はないとよくわかった。

 だが意地はある。いや、どうでもよかった。ただあの演技、悠々と豪快に2回転し完璧に着地した姿と解説者の叫びを頼りに、ずっと体育館に通いつづけた。

 卒業式もとうに済んだあと、あの会社にさあ入ろうかというぎりぎりの日に、ようやっとできた。ただ一度だけ。
 拍手された。……うれしいよりも放心した。

 半人前どころではない、社会人の心がまえ以前の状態で入社式を迎えた。
 さぁやがいた。
 完璧な社会人だった。目が覚めた。

 さぁやに見てほしかった。ありがとう。
 
 

 コーヒーはもう、冷めていた。

 お昼ごはんを作った。資料どおりにコンビニへ。余計なものは一切買わず。
 忠弘がダイニングで待ち、嬉々として家事を開始。食事を運ぶ。

 携帯電話がふるえた。山本家は食事中ノーメディア。

「着信か?」
「メッセージみたい」
「式の返事かもな、食後に見てくれ」
「うん」

 うれしそうにごはんを食べている。
 でも私……。
 
 

 食後、忠弘がきりりと家事する。

「場所が大事だ、皿を食器棚にどういう順番で並べればいいのだろう」
「別に、いいよ。気にしないから」
「いやだめだ」

 ふたりで歯をみがき、メインリビングルームへ。抱っこをさらりとかわす。
 通知はメッセージだった。

椎名玲
椎名玲

そろそろエステにどうかしら?

 渡りに船だ。

「どう?」
「さぁやがより美しくなる、いいことだ。俺も髪をしばらく切っていないな、さぁやと俺の車でドライブしたい、さっそくいこう」

 一歩も出さないがうそのよう。
 
 

 ビル内には椎名とエステサロンの店員さんだけがいた。

「ひさしぶりね、清子さん」

 ゆったりくつろいだ。

「いえるぶんだけでいいわ。どうだった?」
「……いまごろ妊婦さんだったかも」
「少しでも家庭経験があれば、最初から避妊していたでしょうね」

 頼んでいた腕時計を渡される。

「この場にいないしおりのこと。気にならない?」
「気になるよもちろん」

 相手は無事か。

「私の部下、営業一課長補佐を覚えていて?」
「もちろん」
「先日、仕事の予定が反応なし」

 ん?

「係長の1人が念のため補佐に連絡した」

 平社員とはノルマがまるで違うって……お疲れさまです。

「翌日も補佐は仕事の予定が反応なし。
 心配して、係長が私に連絡を入れた。私も補佐に連絡した。
 私に応答しない人ではないのよ」

 どうしたのだろう、いったい。

「係長が補佐の自宅へ急行した」

 アパート暮らしに戻っても、夫を独りには決してしない。

「自宅内にもいなかった」
「まさか、誘拐?」

 こんなご時世、なにがあるかわからない。

「やっと連絡が入った。内容は」
「身代金をくれ?」

申し訳ありません、ただいま華麗な恋愛を繰り広げている最中です。しばらく欠勤しま

「……しま?」
「す、というや否や通話が切れた。いいえ切られた。
 直前、別の声が聞こえた。

なによそんなの、切って! あたしが最優先って言ったじゃない!

 聞き慣れた女性の声だった」

 女性?

「しおりよ」
「えぇ?!」