スワンダブル。

94 スワンダブル。

White Day 2019

 助走開始。

 ロンダード・側方倒立回転跳び¼ひねり後向き。バク転・後方倒立回転跳び。高く、たかく跳んだ。
 空中でほぼ反った姿勢で後方へ2回転、あの三日月のように弓なりに。腕はほぼ直立、両脇にだらりとたらす。はっきりと床を視認、着地。
 
 

 走って戻る。

「……すごい」
「ありがとう」

 君の隣。意識して……新居で一番広い部屋を見わたす。
 番いの認識票、鎖を着けなおした。腕時計も。

 大学時代なら。少々語った。
 俺は……。
 
 

 ずっと稼いでいた。
 バイト先で気があうやつと会った。友だちという存在だと気づいたのはずいぶんあとだ。
 なにやらな映像をどうしても見せたいという。
 いまどきテープだった。保管がたいへんだそうだ。

 1995年、福井県鯖江市で開催された世界体操選手権、女子床運動の演技だった。
 いまみせたのが後方伸身2回宙返り。世に、スワンダブルという。

 忘れられない。古いふるいテープの、すり切れるまで見たのだろう、粗い映像の、解説者の言葉を。

加点だけなら11点を上回る!

 当時、体操の採点方法はまだ10点満点だった。技の一つひとつが加点・減点され、演技の得点は実際には世界選手権でもほとんどが9点台だ。
 悪友のアパートをどう飛びだしたのかも覚えていない。大学へ走って体操部の扉をたたいた。入部させてくれ、ではなく、あの選手がやった技を演じたい、教えてくれと懇願した。
 むりだと即答された。意地になっていいかえした。

 あの選手は史上最後の10点満点演技者。オリンピアン、ゴールドメダリスト。自力で会場内に国歌を鳴り響かせた類いまれなる名選手だ。世界人口に対し何%の人間がこの称号を得られるか。彼女の父親はナショナルチームの選手だ。才能にあぐらをかかず、たゆまず努力しつづけ、引退試合のオリンピックでメダリストとなり、表彰台に上がり有終の美を飾った。

 おまえは何歳だ。

 18歳だった。さらにむりだという。
 体がかたい、身長が高すぎる、開始年齢が遅すぎる。ほか多数、理論的にむりだと断言された。
 それでも食い下がった。
 基礎練習を2年間、1日もかかさずしろという。

 努力とはなにか。

良い方向に続ける。
誰にも、自分でも評価できなくとも諦めない。

 できたならもう一度ここにこい、それまでは近寄るな。

 バイトを1つ減らし、ずっと続けた、われながら黙々と。ランニング、柔軟運動、腕立て腹筋背筋スクワット、体幹訓練等々、鍛錬。ただの意地だった。

 やりきった2年後、体操部の扉をたたいた。出てきた人物は俺をさとした人ではなかった。とうに卒業していた。
 話は聞いていたらしく、すんなり体育館に入れてもらえた。体つきを見てすぐにわかったらしい。努力したようだな、いいことだ。健康にもいい、将来必ず芽吹き役にたつ。認める。
 悪いが側転さえもできないだろう、諦めろ。

 ……できなかったさ。きちんと教えてもらったのに、何日もできなかった。空中動作の感覚がまったくわからなかった。
 丈夫な体に産んではもらえたが、俺に輝かしい身体能力の才能はないとよくわかった。

 意地はある。いや、どうでもよかった。ただあの演技、悠々と豪快に2回転し完璧に着地した姿と解説者の叫びを頼りに通いつづけた。

 卒業式もとうに済んだあと、あの会社にさあ入ろうかというぎりぎりの日に、ようやっとできた。ただ一度だけ。
 拍手された。……うれしいよりも放心した。

 半人前どころではない、社会人の心がまえ以前の状態で入社式を迎えた。
 さぁやがいた。
 完璧な社会人だった。目が覚めた。

 さぁやに見てほしかった。ありがとう。
 
 

 コーヒーはもう、冷めていた。

 お昼ごはんを作った。資料どおりにコンビニへ。余計なものは一切買わず。
 忠弘がダイニングで待ち、嬉々として家事を開始。食事を運ぶ。

 携帯電話がふるえた。山本家は食事中ノーメディア。

「着信か?」
「メッセージみたい」
「式の返事かもな、食後に見てくれ」

 うれしそうに食べている。
 でも私……。
 
 

 食後、忠弘がきりりと家事する。

「場所が大事だ、皿を食器棚にどういう順番で並べればいいのだろう」
「別に、いいよ。気にしないから」
「いやだめだ」

 ふたりで歯をみがき、メインリビングルームへ。抱っこをさらりとかわす。

椎名玲
椎名玲

そろそろエステにどうかしら?

 渡りに船だ。

「さぁやがより美しくなる、いいことだ。俺も髪をしばらく切っていないな、ドライブしよう」

 一歩も出さないがうそのよう。
 
 

 ビル内には椎名とエステサロンの店員さんだけがいた。

「ひさしぶりね、清子さん」

 ゆったりくつろいだ。

「いえるぶんだけでいいわ。どうだった?」
「……いまごろ妊婦さんだったかも」
「少しでも家庭経験があれば、最初から避妊していたでしょうね」

 頼んでいた腕時計を渡される。

「この場にいないしおりのこと。気にならない?」
「なるよもちろん」

 相手は無事か。

「私の部下、営業一課長補佐を覚えていて?」
「もちろん」
「先日、仕事の予定が反応なし」

 ん?

「係長の1人が念のため補佐に連絡した」

 平社員とはノルマがまるで違うって……お疲れさまです。

「翌日も補佐は仕事の予定が反応なし。
 心配して、私も補佐に連絡した。
 それでも反応なし」

 どうしたのだろう、いったい。

「係長が補佐の自宅へ急行した」

 アパート暮らしに戻っても、夫を独りには決してしない。

「どうやって施錠された家に入れたかは省くわ。
 部屋を全部みまわってもいない。見慣れた靴、複数のビジネスバッグ。すべてきちんとそろえておいてあった」
「まさか、誘拐?」

 こんなご時世、なにがあるかわからない。

「補佐からやっと連絡が入った。内容は」
「身代金をくれ?」

申し訳ありません、ただいま華麗な恋愛を繰り広げている最中です。しばらく欠勤しま

「……しま?」
「す、というや否や通話が切れた。いいえ切られた。
 直前、別の声が聞こえた。

なによそんなの、あたしが最優先って言ったじゃない!

 聞き慣れた女性の声だった」

 女性?

「しおりよ」
「えぇ?!」