返礼。

90 返礼。

 深いしわどおりの笑顔で語りかけてくれる。

「よろしければ御屋形さまになにか、ふるまってはもらえませんか?」

 よくうなずき、リクエストを伝えた。
 おくさま、ごふくん。またたいそうな呼ばれかた。あとで訂正をお願いしよう。

「お昼として、ご飯、みそ汁もつけたほうがいいでしょう」

 現実的で普通の提案。うなずいた。

「御夫君の食事量からすると、ジャーいっぱいにご飯を炊いていませんか?」
「はい……」

 いままでのやりかたは絶対に否定される、切り替えよう。

「米というものはいっぱいに炊くと、どんな炊飯器でも、私であろうと誰であろうと、どう研いでもおいしくはならないのですよ」
「えっ……」

 初耳だ。

「難しい技術うんぬんの前に、まずはここからですね。
 ああ、ご存じでなくともいいのですよ。仕出し店、弁当店などで働いていないとまずわからないでしょうから」

 深いため息を、とうてい隠せなかった。

「とてもいい指輪をなさっていますね。外したくないでしょうから、使い捨て手袋を」

 米の研ぎかた種類以前、調理場に入る以前の問題だった。
 道とはかくも激しく、遠く果てしないものか。
 
 

 ただの生徒、1年生となって。何度も何度もゆっくりと、真剣に。ただ見つめ、ただひたすら教わった。

 こんなことをしていたんだ……いままでは手抜き以前。もうめちゃくちゃ。
 忠弘をはじめまわりがなだめすかしてくれる。気をとり直し、どうにかして作りおえる。たいへんな大仕事だった。まったく別の大汗をかく。

 最高峰。ねらってはいない、登れもしない。険しい……。
 
 

 下をむいているあいだ最終目的地に到着。

 忠弘の父は南向きの縁側で庭を見ていた。
 入室がわかったのか、ふりむく。無数のしわ、無数のしみの顔に、にじむような笑みが浮かんだ。

「父さん、約束どおり里芋の煮っころがしだよ」

 よろよろと立ちあがり、上座へよたよたと歩き座る老人。大丈夫かな。
 いただきますの前に、

「あまり老い先短いじじいを驚かせんでくれ。心臓が停まるわい」
「困る。わかった、これからは事前にいう」

 そろっていただきます。忠弘が猛然と食べていく。老人は意を決したように食べはじめた。

 たいして味がしなかった手抜き料理から、どう変わったか。食べてみる。
 本当に米の味が違った。みそ汁も。まさに異次元。

 願いは、思いもよらない最高の方法でかなった。
 
 

 巨大邸宅のすべての人に感謝をいただく。こちらも感謝。家路についた。
 道中、

「さぁや。料理長、は機械類の操作が苦手なのでお弟子さん経由で、料理のことについて資料が毎週届くそうだ。すまないが、俺は内容がまったくわからない。
 ふたり分のレシピです、だそうだ」

 大食漢と20代女性用、1日三食1週間分の献立表。

 工程ごとの写真つき。下ごしらえも細かく書かれ、調味料は何杯増しか考えなくともいい。素人にはとうてい作れない凝った料理でもない。
 副菜つき、栄養配分完璧。カロリー計算しなくていい。書かれた食材と調味料どおりに作ればいい。種類と量をカレンダーどおりの日に買えばいい。次のおかずはなににしようか一切考えなくていい。
 なんという楽。

「ありがとう、忠弘」

 即、襲われた。