やさしい手。

89 やさしい手。

White Day 2019

 君のやさしい手を、つなぐのは大好きだ。

 か細い君。真正面からかきよせた。ああ、もどかしい。

「ん、ぁ、あ、あ!!」

 こんな淫乱、よそに出せるか。

 鼻血が出そうなショーツをずらすと君の手料理が糸となって伝う。いただきます。

「あぁ……! あっ、ん、……んん! い……ぃ!!」

 待っていた。いてくれた。
 知らないだろう君は、

「きて、……もう!!」
 
 

 太陽が昇り現実がやってくる。
 山本家の調理要員はひとりだけ。

 届いた料理のレシピはどれもある程度料理のできる人むけだった。
 塩こしょうを少々? どれくらい。からはじまって、食材ごとに下ごしらえがまったく違う。さぼるなという。

 目線で会話。

Q. 悩み事がありますね?
A. あります。

 忠弘が愛の巣から妻をひょいとお姫さま抱っこ、メインリビングルームへ。

「さぁや。なにか悩んでいるな」
「うん。実はずっと」
「ぜひ聞きたい。なんだろうか」

 ずばりきりだした。

「料理のレパートリーがつきたの」
「……すまない。料理のことはまるでわからない」
「レパートリーはわかる?」
「技量を発揮できる領域や種目、という意味だろうか」
「そう」

 辞書でもひいたか、フライパンにガソリンをひかれるよりましだ。

「俺はさぁやの手料理が好きだ。これが答えではだめなのか」
「うん……っとね」

 言葉を覚えたての5歳児に、かんで含めるようにさとす母親の気分。

「ずっと同じ料理だと栄養がかたよるの。あきるし」
「俺はさぁやの手料理が好きだ」
「ありがとう。あのね、あきているのは私なの」

 いま、なにを作ればいいのか。

「検索したのでは?」
「怒るだろうけど……」

 下をむいた。髪に忠弘の頰が。

「悩んでいるのだろう」
「うん。切実に」
「わかった。聞く」

 意を決して顔をあげむきあった。

「どうして私が母から料理を習うことに反対なの? 実家で、なにか不快だった?」

 なんだろう……無表情?

「……俺の居場所がない」
「え?」
「家族4人、仲よく信頼で固まり、他人の入る隙間はなく……一刻も早くあの家を出たかった。
 俺は真っ赤な他人だ」

 瞳が、表情が。

「さぁやを奪われる。他人の俺にとめるすべはない」
「そんなこと!」

 抱きついて目をあわせた。
 忠弘が静かに泣く。ただ涙を落とし責めもなじりもしない。

「わかった、ほかの方法にする。もう実家のことはいわない」

 涙にキスした。
 
 

 抱きしめてなでると、忠弘の表情がゆっくりと戻った。一番大切な、なにともとりかえてはならない、すべてを喪った5歳児から、もうすぐ24歳となる男性へ。

「……料理の提案がある」
「えぇ?!」
 
 

 ひとまず手抜きその2、簡単できあい粉シチューを大量に作る。
 ふたりで食べたあと、でかけようという忠弘。

 着いた場所は、もう忘れようがない場所だった。
 巨大邸宅。なぜ、またここに。

 むかった部屋前に警護がいなかった。
 忠弘にそっと下ろされ、並んで下座に。なにがどう出てくるか。
 室外から、

「失礼します」

 それなりの歳の男性の、初めて聞く声。

「どうぞ」

 忠弘が答える。靜かに、そっと戸が開いた。
 待っても、声の主が入室してこない。どうしたのだろう。
 みると、調理帽を手に持つ男性が礼の姿勢で戸の前、廊下にいた。ついてある膝は黒光りの木、板敷の上。
 忠弘が、

「料理長、入ってください」
「えっ……」

30年間、家を出たことが……

「……世界一の調理師さんってこと?!」
「そうだ」

 男性は礼を崩さない。

「……そんな人に、料理を習えってこと?!」
「そうだ」

 プロフェッショナルと素人。住む世界が違う。

「とっても偉いんだよ。どうして部屋に入ってこようともしないの」
「俺たちに対し、最大限の敬意を払っているからだ」
「お握りとお茶が偶然口にあったから? 忠弘が、親子になるっていったから?」
「両方だ」

 即、座を外す。畳に膝を、手をついて男性に頭を下げた。

「お入りください」

 男性、料理長がさらに頭を下げる。
 室外、廊下に出て座り相対した。忠弘が隣で同じことをする。

 三者膠着状態のまま、しばし。
 料理長が口を開いた。

「頭を上げてください」
「できません」
「奥さまは私に頭を下げていい人ではありません」
「いいえ。料理もなにも知らない素人に、上げていい頭はありません」

 むかいで姿勢を正す気配がする。

 忠弘が抱きあげ膝にのせても、首に腕を回さなかった。支えるように抱きしめてくれる。
 語りだす口調は靜かだった。

「世界一。
 それがどうしたというのです。一生の思い出に勝てますか。
 奥さまは御屋形さまと御夫君を泣かせた。誰もできなかった、私でも。
 料理を作り、うまいといわれ、心から笑わせても。
 誰の思い出にもならない。人が死に際に思い浮かべるのはなんでしょうか。
 いくらでも教えましょう。膝を折り、こうべを垂れ、70年間血反吐をはいて積みあげたすべてを、心から」

 違う、偶然が重なっただけ。

「奥さまは私の、私どものすべてを受け継ぐ資格がある唯一のかたです。握り飯、茶だけではなく、すべてを」
「……忠弘が好きなのは、調理実習で出てくるような料理もどきです。玉ねぎを刻むところから作る、本当のカレーではだめなんです」

 ここには決してないだろう、

「市販のルーでいいかげんに作る、私の手抜き料理でないとだめなんです。習ったらきっと……食べてはくれません」

 忠弘が髪を頰でなでる。

「……なるほど。
 だから笑わせるしかできないのか……わかりました、奥さまのご判断にすべてお任せします」
「私、任せられるの重すぎていやなんです。忠弘にお願いします」
「でしたら、だしのとりかたを知りたくはありませんか」

 基本かつ究極。
 恐れ多いは百も承知、好奇心が勝った。

「昆布と鰹節だけではなく、ほかのやりかたも覚えれば、みそ汁がうまいですよ」
「……ほかが、あるんですか? ……とか……あきれます?」
「まさか。奥さまは私どもすべてが膝を折るかたですよ。無礼など決して働きません。どんなことでもおおせください。この身すべてで応じます」
「……お願いします。いち生徒です、よろしければ……」
「だいじょうぶです。
 最初は右も左もわかりません。いますぐやれなど、この道を知っている者であれば誰もいいません。
 串打ち三年、裂き八年、焼き一生。ただひとつを一生かけても体得できない、それがこの道です。皆、中途半端なまま人生を終えるのです。完璧にできる人間は誰もいないのですよ。
 安心して、ゆっくりとひとつずつ」

 茨の道を歩みつづけた人に後光がさしていた。