やさしい手。

89 やさしい手。

 君のやさしい手を、つなぐのは大好きだ。

 か細い君。真正面からかきよせた。ああ、もどかしい。

「ん、ぁ、あ、あ!!」

 こんな淫乱、よそに出せるか。

 鼻血が出そうなショーツをずらすと君の手料理が糸となって伝う。いただきます。

「あぁ……! あっ、ん、……んん! い……ぃ!!」

 待っていた。いてくれた。
 知らないだろう君は、

「きて、……もう!!」
 
 

 太陽が昇ると現実がやってくる。空腹だ。
 山本家の調理要員はひとりだけ。

 届いた料理のレシピはどれもある程度料理のできる人むけだった。
 塩こしょうを少々? どれくらい。食材ごとに下ごしらえがまったく違う。さぼるなという。

 目線で会話。

Q. 悩み事がありますね?
A. あります。

 忠弘が愛の巣から妻をひょいとお姫さま抱っこ、メインリビングルームへ。

「さぁや。なにか悩んでいるな」
「うん。実はずっと」
「ぜひ聞きたい。なんだろうか」

 ずばりきりだした。

「料理のレパートリーが尽きたの」
「……すまない。料理のことはまるでわからない」
「レパートリーはわかる?」
「技量を発揮できる領域や種目、という意味だろうか」
「そう」

 辞書でもひいたか、フライパンにガソリンをひかれるよりましだ。

「俺はさぁやの手料理が好きだ。これが答えではだめなのか」
「うん……っとね」

 言葉を覚えたての5歳児に、かんで含めるようにさとす母親の気分。

「ずっと同じ料理だと栄養がかたよるの。あきるし」
「俺はさぁやの手料理が好きだ」
「ありがとう。あのね、あきているのは私なの」

 いま、なにを作ればいいのか。

「検索したのでは?」
「怒るだろうけど……」

 下をむいた。髪に忠弘の頰が。

「悩んでいるのだろう」
「うん。切実に」
「わかった。聞く」

 意を決して顔をあげむきあった。

「どうして私が母から料理を習うことに反対なの? 実家で、なにか不快だった?」

 なんだろう……無表情?

「……俺の居場所がない」
「え?」
「家族4人、仲よく信頼で固まり、他人の入る隙間はなく……一刻も早くあの家を出たかった。
 俺は真っ赤な他人だ」

 瞳が、表情が。

「さぁやを奪われる。他人の俺にとめるすべはない」
「そんなこと!」

 抱きついて目をあわせた。
 忠弘が静かに泣く。ただ涙を落とし責めもなじりもしない。

「わかった、ほかの方法にする。もう実家のことはいわない」

 涙にキスした。
 
 

 抱きしめてなでると、忠弘の表情がゆっくりと戻った。一番大切な、なにともとりかえてはならない、すべてを喪った5歳児から、もうすぐ24歳となる男性へ。

「……料理の提案がある」
「えぇ?!」
 
 

 ひとまず手抜きその2、簡単できあい粉シチューを大量に作る。
 ふたりで食べたあと、でかけようという忠弘。

 着いた場所は、もう忘れようがない場所だった。
 巨大邸宅。なぜ、またここに。

 むかった部屋前に警護がいなかった。
 忠弘にそっと下ろされ、並んで下座に。なにがどう出てくるか。
 室外から、

「失礼します」

 それなりの歳の男性の、初めて聞く声。

「どうぞ」

 忠弘が答える。靜かに、そっと戸が開いた。
 待っても、声の主が入室してこない。どうしたのだろう。
 みると、調理帽を手に持つ男性が礼の姿勢で戸の前、廊下にいた。ついてある膝は黒光りの木、板敷の上。
 忠弘が、

「料理長、入ってください」
「えっ……」

30年間、家を出たことが……

「……世界一の調理師さんってこと?!」
「そうだ」

 男性は礼を崩さない。

「……そんな人に、料理を習えってこと?!」
「そうだ」

 プロフェッショナルと素人。住む世界が違う。

「とっても偉いんだよ。どうして部屋に入ってこようともしないの」
「俺たちに対し、最大限の敬意を払っているからだ」
「お握りとお茶が偶然口にあったから? 忠弘が、親子になるっていったから?」
「両方だ」

 即、座を外す。畳に膝を、手をついて男性に頭を下げた。

「お入りください」

 男性、料理長がさらに頭を下げる。
 室外、廊下に出て座り相対した。忠弘が隣で同じことをする。

 三者膠着状態のまま、しばし。
 料理長が口を開いた。

「頭を上げてください」
「できません」
「奥さまは私に頭を下げていい人ではありません」
「いいえ。料理もなにも知らない素人に、上げていい頭はありません」

 むかいで姿勢を正す気配がする。

 忠弘が抱きあげ膝にのせても、首に腕を回さなかった。支えるように抱きしめてくれる。
 語りだす口調は靜かだった。

「世界一。
 それがどうしたというのです。一生の思い出に勝てますか。
 奥さまは御屋形さまと御夫君を泣かせた。誰もできなかった、私でも。
 料理を作り、うまいといわれ、心から笑わせても。
 誰の思い出にもならない。人が死に際に思い浮かべるのはなんでしょうか。
 いくらでも教えましょう。膝を折り、こうべを垂れ、70年間血反吐をはいて積みあげたすべてを、心から」

 違う、偶然が重なっただけ。

「奥さまは私の、私どものすべてを受け継ぐ資格がある唯一のかたです。握り飯、茶だけではなく、すべてを」
「……忠弘が好きなのは、調理実習で出てくるような料理もどきです。玉ねぎを刻むところから作る、本当のカレーではだめなんです」

 ここには決してないだろう、

「市販のルーでいい加減に作る、私の手抜き料理でないとだめなんです。習ったらきっと……食べてはくれません」

 忠弘が髪を頰でなでる。

「……なるほど。
 だから笑わせるしかできないのか……わかりました、奥さまのご判断にすべてお任せします」
「私、任せられるの重すぎていやなんです。忠弘にお願いします」
「でしたら、だしのとりかたを知りたくはありませんか」

 基本かつ究極。
 恐れ多いは百も承知、好奇心が勝った。

「昆布と鰹節だけではなく、ほかのやりかたも覚えれば、みそ汁がうまいですよ」
「……ほかが、あるんですか? ……とか……あきれます?」
「まさか。奥さまは私どもすべてが膝を折るかたですよ。無礼など決して働きません。どんなことでもおおせください。この身すべてで応じます」
「……お願いします。いち生徒です、よろしければ……」
「大丈夫です。
 最初は右も左もわかりません。いますぐやれなど、この道を知っている者であれば誰もいいません。
 串打ち三年、裂き八年、焼き一生。たったひとつのことを一生かけても体得できない、それがこの道です。皆、中途半端なまま人生を終えるのです。完璧にできる人間は誰もいないのですよ。
 安心して、ゆっくりとひとつずつ」

 茨の道を歩みつづけた人に後光がさしていた。