30 минут

78 記憶鮮明編 トリッツァチ минутミヌート

 気づいたら、なにも憶えていなかった。

「ここはどこだ」

 俺は誰だ。

「忠弘っ」

 いきなり見知らぬ女性が。

「どうしたの?」
「……すまない、記憶がない……君は誰だろうか」

 女性が笑った。やさしい笑みだった。

「じゃあ、きて?」

 正体不明の野郎と一緒に?

 家……か、ここは。
 ついていき、すすめられたソファーに座る。

「……なんだろうか」

 部屋のなかをざっと見わたす。控えめだ。

「いいの、引っ越したばかりだから」

 わからないことだらけ。

「ゆっくり、のんびりしてね。急ぐことなにもないから。そうだ、コーヒーを淹れてくるね」

 女性が部屋を出た。ひとりになる。
 ……混乱から目をそらさず冷静になれ?

 俺の身なり。上がシャツ、下がジーンズ。ごくありふれた私服。はりきって外出しようという格好ではない。……部屋着、か。

 いいにおいがした。女性が入ってきて、テーブルにそっとおいてくれる。
 隣に……意識してしまう。
 琥珀こはく色の飲み物。
 ……冷めるな。
 
 

 女性はなにも強要しない。聞かない、問いつめない。

「お昼寝しよう」

 やけにだだっ広い部屋に通された。ぽつんとおかれたテーブル、ソファーは2つ。寝転がった。女性が隣に。
 意識して……眠っていた。

 ゆうるり目が覚める。

「おなか空いた、ごはんごはん」

 起きにくそう。もう少し眠ってもいいのに。

「寝てていいよ」

 俺の考えを読んだのだろうか、部屋を出た。ひとりになる。
 ……俺は誰だ。

 判断するための情報が0。分析できない、なにも思い浮かばない。

 部屋の扉が開く。いいにおいがした。

「いっぱい食べてね」

 カレーだ。
 女性が出たり入ったり、盆を持ち下ろす。目の前に並べてくれた。胃袋が叫ぶ。
 女性と並んで、

「いただきます」

 猛然と食った。

「うまい……」

 腹が満ち体が睡眠を要求する。

「お風呂に入ろうよ」
「ああ……そういえば」

 あとをついていく。脱衣場か? パジャマ、下着、バスタオル数種数枚を手わたしてくれる。歯みがきセットを指定された。
 ……俺はこの家に住んでいた?

 壁の大きな鏡でみえる、体中が傷だらけ。目を背ける気はなかった。あって当然、なければ不自然に感じただろう。

 個人宅用の湯船ではなかった。温泉か? 3段ある階段を下りて湯につかった。いい湯加減だ。うつらうつら。
 勝手して、シャンプー・トリートメント・ボディーソープ等々を無断借用。さっぱりして、あたたまって出た。

 ふかふかのバスタオルで体をふく。首もとをふこうとして鎖に気づいた。
 つい目がいってしまった、見える箇所。
 似ている……?

 髪をかわかし、ボディクリームも借用。パジャマを着て脱衣場を出る。女性がいない。
 家が広くとも風呂場は2つもないだろう。

 捜すため、知らず識らずのうちに家のなかを探検してしまった。
 ここにもいない、ここにも……台所か。荷物置場? 応接間? 客用寝室、大きなモニターだ、視聴室のような……部屋がいくつある?

「上がった?」

 女性が座って、なにかしていた。

「すまない、順番待ちをさせてしまった」
「いいの、ゲームしていたから」

 オンラインゲームという。
 正体不明の野郎に風呂場を貸している、時間つぶしだ。

「すまない」
「謝らなくてもいいよ、熱中していたの」

 寝食を忘れて没頭するものだという。じゃましたか。

「もうちょっと、かなりするから。先に寝てて」

 指定された部屋のベッドは大きかった、かなり。クイーンか?
 客用ではない……?

 俺が寝ていいのか。女性専用の部屋ではないのか。
 まさか……この部屋まで、俺のか。

 ベッドにもぐると女性のにおいがした。ためらいなく正体不明の野郎を通す。
 ……いいのだろうか。

 意味を深読み、もんもんと寝つけないはずがころり寝た。
 
 

 目が覚めると暗かった。まだ夜か。
 いや、朝だ。……時間は?
 時計……。
 枕もとの明かりをつけ、手首の腕時計をみる。7時だ、起きよう。

 部屋を出ると淡い自然光。いい朝だ。
 ……いいにおいだ。

「おはよう」

 ふりむいて、やさしい笑みを浮かべる女性。

「おはよう」

 そばによると、俺に背を見せた。
 なんとなく……。
 
 

 あとはずっとこうした。飯を食って歯をみがき、広い部屋でうつらうつら。コーヒーを飲んでのんびり。

「正体不明の野郎に自宅で居候されて、迷惑だろう。すまない」
「そんなことないよ」
「君は不安だろう。ひとつ屋根の下で、その……」

 やさしい笑みを浮かべてくれる。とろけてしまいそうだ。
 
 

 ゆったりとしたときが流れていく。記憶をとりもどす、あせる感覚すら失われていく。

 やさしい君。

 俺を待っている。こうしないと料理しない。俺の考えはすべてわかっている。俺の好みもすべてわかっている。
 左手の薬指に光る石の色は、俺の時計盤の色と同じ。
 首もとの鎖に下がる楕円形のプレート。打刻された名前、誕生日、血液型。

 意を決して、ずっと想っていたことを真正面から。

「好きだよ」

 知りたい、聞きたい。

「君は?」

 やさしい笑みが、

「やっと言える」