ナイトメアは空が白むまで。

67 記憶鮮明編 ナイトメアは空が白むまで。

 八日目、午前4時。気の抜けたビールを手に外を見ていた。

 空が白んでいく。

 いまはにおいがない。草の花粉のにおいも、森林奥底のにおいもない。発見を怖れて座れもしなかった土のあたたかさもない。

 雪は嫌いだ。凍えて死ぬから。ダイヤモンドダストが煌めく真っ白な雪原など思い出したくもない。いくら男でも子どもにラッセルはむりだ。すぐに南下した。
 忘れた涙どころか、吐く息も、体内に流れる血も、まつ毛も髪の毛もなにもかも凍る極寒の大地は嫌いだ。

 青く光る満月も太陽も嫌いだ。発見されるから。
 南下しながらずっと見ていた。くらい天蓋、宇宙。動く方向で西を知った。

ああ、その人同期みたいですけど。

 その人。呼びたくもない。
 みたい。認識もしたくない。

私、

 ほかの誰でもない。俺を、

大っ嫌いですから。

 あのとき、八日目になぜ水を口にしたのかわからない、憶えていない。

 今回、八日目にまぶたは重くなってくれなかった。もとより眠りかたを忘れていた、熟睡したのは約20年前、憶えてもいない。忘れた。
 なぜいま、水分を口にしているのだろう。
 
 

 もう一度勉強してみる。大学に入ってみる。
 決意を告げた際いわれた別れのことばを忘れることができない。

「なぜ生きていた。なぜ死ななかった。なぜ自決しなかった。
 そんなにやりたいことがないのなら」

 あれ以降、かの地へはいっていない。逃げた、雪のないところへ。中間地点へ。
 
 

生理的に受けつけません。

 深夜までおよぶ残業を頼んだのが悪かったのか。
 そんなに家が汚かったか。
 いや、それよりも前に原因があったらしい。わからない。

 新人研修以来、まともに話したことがない。たまに社内ですれちがってもお疲れさま、誰にでもするあいさつだけ。それすら悪かったのか?

「おはよう」

 初めて俺から話しかけた。犯ってやると顔にかいたのが気に入らなかったか。翌週にはすでに無視された。デスクにむかえば姿がなかった。周囲の目は当然、なんでまたここに。

 皆、俺を嫌っていたと知っていた。

 なにをしただろう……。
 死ねばいいのか。

 食料など手に入るはずもなく。いつしか食に興味がなくなった。それなのに食わなくては生きていけない。
 眠りかたがわからなくなったあの日から安眠を放棄した。それなのに眠らなければ生きていけない。
 絶望の空腹。

 死ねばいいのか。このまま。
 
 

 屋根の下にいたくて稼いだ。てっとりばやかったのは肉体労働、必然的に腹が減った。金は手にした、だから食った。必然的に大食らいになった。汗水たらして働き、毎日鍛錬した。必然的に体格がよくなった。

 こんな俺と友だちになってくれた、街のかたすみの食堂のひとり息子。母子で暮らし店を守りたてている。よく食いにいった。
 何杯でも食べる俺に、喜んで出してくれたのも最初だけ。しだいに、俺の食いっぷりに疑念を持つようになったらしい。

 あの日、八日目。行った。1週間で10kg落ちた俺を見て友だちは、

「人相が変わっているぞ」

 友だちの母親は、

「食べて」

 そのとおり食った。
 
 

 店の全メニューを制覇したら、

「……ひょっとして。君、……。
 味、していない?」

 初めて茶を淹れてもらって飲んだ、あのときの感覚だろうか。

「味とはなんだろう」

 食のプロ2人の表情を、忘れることができない。
 
 

 稼いだ金を受け取ってはもらえなかった。

「きっといつか食べられるよ。味のするごはん」

 悔恨の表情で。

「お金、とっていたんだね。ごめんね……」

 以降、あの店にはいっていない。
 
 

 どうあっても作れない。胃を満たすため毎日食事処とやらを歩きまわった。そのこと自体にもあきた。

 もうどこへもいきたくない。
 どこへもいけないから。

 味のしないものも。唯一作れるものも。
 もう食べる気がしないから。

 もう一度逢って。
 頼みこんで、すがりついて……こうなったらもうなんでもいい、どうか。
 控えめに出された一杯のお茶。甘いと初めて思ったあのときのように。

 腹を満たす食事をしたい。
 眠りたい。熟睡してみたい。
 抱きしめたい。抱きたい。

 そうしたらもう、永眠していいから。もう、かまわないから。

 だから、どうか。お願いだ。