本当に好きなの?

56 本当に好きなの?

 階段を上がり2階個室の引き戸を開けた。

「あら清子さん。早かったわね、まだ途中?」
「さぁや。俺が心配か? いいんだぞ、気にせずゆっくりして」
「ううん、いいの。おわった」

 忠弘の隣に座った。夫の呼吸が変わる。

「しおり、ずいぶん感謝していたでしょう?」
「うん」

 やっぱりきてよかった。

「なにか飲む?」

 忠弘と椎名が同時に。
 営業畑の皆さまの心強いことよ。できたら総務魂を見せてやりたい。負けないぞ。

「モスコミュールを」

 忠弘が個室備えつけの端末で2つ注文する。同じのが飲みたいのだろう、わかりやすい。
 ほどなくして店主が入ってきた。
 忠弘がすぐ席を立ち、頭を下げてグラスを受け取る。
 乾杯したくなった。

「いいわよ、新婚さんふたりでどうぞ」

 ふたり分しか頼んでいない。
 忠弘がグラスをかかげる。

「私の隣に男性がいる理由をお聞かせしようかしら」

 別にいいや。

「しおりのフィアンセよ」

 慣れた味だった。本物の店主に作りかたを聞いたのかな。

「しおりだけを迎えにいったのよ。ついてきちゃったのよ、しかたがないじゃない。
 清子さんをずっと待つつもりでいたの、明日の朝でも昼でも。
 暇でね、説教していたの」

 雲の上の上司のほうが断然いい男じゃないか。華麗な恋愛を繰り広げてくれないかな。

「なぜすぐに結婚しないのよ。
 しおりは気が移りやすいの。すぐに興味がなくなる、後釜はいくらでもいる。なにをしているのよーーーっ!」

 鞭をふるう椎名。打つさまが似合っていれば、受けるはすむかいの男性のさまも似合っている。酒場だぞ、場所が違わないか。

「……とか、しながらあなたを待っていたの。もうちょっと打ちたいのよ」
「じゃ帰ろっか忠弘」

 やけに静かな夫に声をかけた。

「……一言だけ」

 暗い声。

「なに?」
「情けない……」

 忠弘が戸を閉めたあとも鞭の音は鳴り響いた。

 出入り口にすっと現れる、ぜいたくの象徴のような大きい車。

「さぁや。さっき、少し前まで渡辺君とやらがいた」
「あれっ?」
「俺と深く議論した末、思うところがあると帰った。さぁやによろしく伝えてくれと」

 ちょっとは会って話したかったな。
 忠弘が車のドアを開ける。なかに誰かがいた。

「どうしても会ってほしい……兄さんだ」

 視界に飛びこむ真っ赤なバラ。

「えっ……」
「乗って、さぁや。車のなかで話そう」

 乗らされても眉間にしわをよせるしか反応できない。
 かの人物が、

「新婚のところをおじゃまします」

 頭を下げた。
 むげにするのは心苦しい。ぺこりと会釈した。

「よければ受け取ってください」

 心地よい重みだった。いいにおい。

「ご結婚おめでとうございます」

 迷っていると、

「このあいだは本当に、いきなり申し訳ありませんでした」

 ゆっくり頭を下げてきた。

 否定してしまえばすべてがなかったことにされてしまう。つぶやきをぐっとこらえた。

「もしなにか困ったことがあったらお伝えください。あたう限りのことをします」

 あのときのことは怒っている、簡単には許せない。
 もう、そんなに意地を張りたくない。

「……きれいな花束に免じて簡単に許してしまうと、また私や誰かにあんなことをしそうにみえます」

 声はなかった。

「ちゃんと謝ってくれましたから、そんなに気を悪くしていません。でも、それだけです。忠弘と話したいなら私だけでも降ります」

 隣の5歳児が悲しんでいる。

「道中、お気をつけて」

 ドアはわりとすぐに開いた。

「兄さん、じゃあ」

 無風の車外に出た。
 
 

「いきなりなんだもん。びっくりするじゃない」
「すまない」

 手を握りなおす。

「私、感じ悪かった?」

 相手を気持ちよくして帰すのが労働者。

「兄さんはもっと感じ悪かったんだろう?」
「悪かった!!」

 酒を飲んだあと帰路で大声。労働者の醍醐味だ。

「むりやり会わせてすまなかった。妻と兄のあいだでゆれ動いたんだ」
「もう。妻をとってよ、い・つ・も」
「わかった」

 両手に花の忠弘が、もう近いから歩いていこうと提案する。頰を冷やせて気持ちよかった。

「今日はそんなに悪くなかったよ」

 酔っ払ったから軽口。

「でもねえ、第一印象が悪いのはよくないな」

 握られた手をぶんぶんふる。

「ねえ、敬語だった。絶対ふだん使わないよね!
 ……気を使っちゃって」

 手をつなぐのは大好きだ。好きな人にリードされて歩くのはとても自信が持てる。うれしくなる。

「ああいう言葉づかいはおそらく30年ぶりだ」
「さんじゅうねん~? 具体的だね」
「父さん以外に敬語を使ったことがないらしい。兄さんの会社では有名だそうだ」

 典型的な二代目らしい。

「俺も兄さんがどうしゃべるかは気になっていた」
「もう、いいからね!」

 会うのはもうけっこう。
 酔っ払い、話題を変えた。

「フィアンセ君って印象に残らなかったね」
「うん。秘書とはなにもかも逆のタイプにみえる」

 結婚は真っ赤な他人の長いながい同居生活だ、続くかな。忠弘の感想。

「意外に続いたりして」
「本当に秘書に惚れたのかな。聞きそびれた。違うのなら今日にでも別れるんじゃないか」
「しおりはすっごい好きだって」
「相手の気持ちも大切だろう」

 人の恋路は蜜の味。

「しおりはねえ、自分だけを好きな人がいいって」
「現状を把握しているか疑問だ。ただ周囲に流されているだけのような気がする」
「だってせっかくしおりが」
「恋心は人にいわれては芽生えないぞ」

 恋という、さても青い話題。
 押し倒す練習をどこでしますか?
 
 

 さきほどの酒場、1階。

 さてどうするか。考えていた。目の前には深酒の美女が眠っている。
 フィアンセ君に引き渡すのが妥当だ。いや、ここに呼んで連れ帰るよういうのが正当だ。

 それまで見ていたかった。息をのむほどの美女だから。

 むくりと起きあがった。歩けるのならフィアンセ君は2階にいますよというのが正解か。

「……ぅぃーっく」

 お目覚めだ。会うのも最後。

「……帰る」

 どうぞ、一緒に彼と。

「……なにをしているのよ」

 しまった、見とれてしまった。

「帰るったら帰るっ!」

 深酒の美女のどこにこんな力があったのか、肩のあたりのシャツをひっつかまれ、酒場を大股で飛びだした。
 
 

 きてしまった。さあどうしよう。

 途方に暮れた。

 家は空に浮かんでいない。地上の延長にある。
 浮かんでいたのは足のほう。

 美女は自宅の寝室へ直行、寝た。すぐに。さあどうしよう。

 誘っている?

 第一の答え、No. 熟睡しているじゃないか。飲みすぎて寝たんだよ。
 第二の答え、Yes. 決まっているじゃないか。無防備になったんだよ、襲えという意味だ。

 どちらも選んだ記憶がある。後悔したのは?