風俗店へいくのなら私を倒してからにして。

55 風俗店へいくのなら私を倒してからにして。

 ひさびさに夜景を見た。

「きれいだね、いっぱい見よう」
「うん致そう」
「……タキシードでカクテルを手に格好よく決める夫とお酒を飲みたい」
「演技としてはできるかもしれない。そのあと襲う」

 酒場の入り口で忠弘がとまった。

「さぁやの友だち、本日の主役が待っている。夜が明けるまで飲んで、語りつくしてきて」
「……もう、会っちゃいけないってこと?」
「まさか」

 忠弘が、短くなった髪の毛、えりあしのあたりをゆるくなでる。くすぐったい。

「主役はさぁやに感謝するだけでなく、語りつくしたいことがあるはずだ。
 たくさん話して、これからも。遠慮はいらない」

 イルミネーションを背に、夜景に浮かぶ忠弘のスーツ姿。さとすような笑顔。
 ひとり、1階のカウンターへむかった。
 
 

 細い通路をとおってカウンターに座ろうとする前に、しおりがいた。
 黒に近い色の超高級スーツで立ちふさがってあから顔。目がすわっている。ひぃーっくという擬声語が聞こえそう。両手を腰に仁王立ち。

 酔っぱらいだ。

 いつから待っていたのか、ゆっくり近づいてきた。

「あ、あの……」

 しおりが首にがっしりと両腕を回し、抱きついた。
 耳もとで、

「……がと……」

 すぐ、眠ってしまった。
 
 

 受けとめる熱い体。

「……う、う、う! あ……っとっと、ちょっと、しおり?!」

 このままでは床に共倒れ。

「ど、どうしよ、っきゃー、誰か~!」

 なんとか悲鳴以外が出た。かなり情けなかった。

「ちょっと失礼」

 助け手がきた、らしい。忠弘ではない、聞き覚えのある男性の声。しおりをはがしてくれる。

「見なかったことにしてください」

 大会社の営業一課長補佐だった。
 しおりを横抱き、カウンターに連れていき横長のテーブルにつっぷすようにして眠らせ、上着をさりげなくかける。酒場でよく見かける酔っ払いの一丁上がり。見事な手際だった。

 補佐がカウンターむこうに陣どる。手招きされた。
 しおりの隣に座る。

「いろいろ、話すことがありますね」

 深い笑みだった。

「まずは改めて自己紹介を。渋沢と申します。肩書は、今日はいいでしょう」

 ほっとした。

 ちょっと前まで一間のアパート暮らしには、ぜいたくの波状攻撃はありがたすぎて、外に出て飲むときくらい気楽でいたい。

「なにか、お飲み物は?」
「……ジントニック。ビターズを入れて」

 グラスをかたむける。

「……おいしい」

 返ってきたのは余裕の笑み。なぜ茶をぶっかけたのか、人を見る目がなさすぎる。

「お酒も作れるんですね」
「それはもう。営業畑約20年ですから」

 どんな思いだっただろう。

「なんでもやりました。
 買ってやるからこっちの仕事も手伝えと街頭でティッシュ配り、風俗店の呼びこみ、大音量でたばこの煙もうもうのパチンコ店で掃除、ラブホの受付・掃除、民間調査機関で先輩調査員と上長のあいだで二重スパイ、闇金の取り立てで多重債務の女性宅へ押し入り、ヤクザの末端事務所で肉の盾。いちおう、体は売りませんでした。
 営業マンはしょせん使い捨ての駒です」
「そんな……」
「業績を挙げられなければさようならです、簡単に。
 求人情報で、いかにもうさんくさく、営業は月給が高いでしょう? 売らなければ終わり。先が短いからちょっと高くしてやるよという意味です」

 気づいていた。事務職の月給が低いのにも。

「新婚さんに愚痴はこのへんにして、ちょっと質問を。
 こちらのかたとのお話しあいは、ひょっとしてさっきので全部でしょうか?」
「……はい」

 切れ端の言葉、確かに届いた。
 あったかい体、抱きしめてくれた力、大切な思い。

「一瞬で語りおえるとは。さすが藤崎係長ですね」
「渋沢さんはしおりのこと、その……知っているんですか?」

 あまり接点がないのでは?

「質問に答える前に。少年は話をさっさときりあげろと?」
「いいえ」
「時間があるんですね。私と少々語りませんか」
「え……」
「少年はわれわれの職場に入る。こうみえても一課に所属しています。
 どうです」

 そのとおり、でも。

「遠慮はいりません。今日の主役と語ってきた、で済ませましょうよ。夫婦といえどもひとりになりたいときがあるはず。
 あなたはまったくないですね」

 見抜かれている。さすが。

「勝手にしゃべります。あなたはあくまで主役と語りあったということで。
 なぜ少年に転職をすすめたか。
 少年はあなたを守り、われわれをにらみながら私のもとへ一直線にきた。実によかった」

 モヒートを作っていた。キューバのカクテル、ミントの葉をつぶして。

「少年はあなたに惚れ抜いていた。見るからに愛情多過。実にいい。同類だ、なるほど。
 課長はあなたがたを見せつけにきたのです。話だけなら私を執務室に呼べば済む。課長みずから下階に足を運ばなくともいい」

 さっぱりとしておいしい。

「あなた自身もすばらしかった。われわれの恫喝など目もくれず、ただ少年だけを信じていた。
 あなたの普通の仕事はみて聞いた、いち仕事人として惚れました。ぜひ弊社においでいただきたい。課長がお誘いしたとき、少年と一緒ならいいと。どうです?」
「お断りします。忠弘が、山本家を守れというので」
「それでも勧誘したかった。私の仕事のひとつです、優秀な人材を積極的に採用すること」

 3か月前なら別な即答をした。
 自分用に酒を作っていた。飲みかたも洗練されていた。

「椎名課長は煌めく七百からの人脈、顧客を就任1日目にしてわれわれ部下にすべて譲りました。
 いきなりです。望外? うれしい? いいえ。
 椎名課長だからだ、なぜ部下が出てくる。
 顧客の当然の反応に、われわれは応えなければならなかった。いままでなにをしていたのか。仕事ができる? 特進? さすが一課? 冗談じゃない。
 あのあとしばらく重圧で胃に穴をあけながら仕事しましたよ。酒と惚れた相手だけが友だった。
 就任2日目、椎名課長はふらりと本社を出ました。警護しにくいからと禁止されている満員電車に乗り、区外へ出て、廃止寸前の路線バスに乗り換え、むかった先は築一世紀かというぼろ家。偏屈な、老いた技術者に頭を下げた。

どうかその技術を遺してほしい。

 誇り高き技術者は昔から徹底的に搾取された。愚かな者たちが目をつけた。売ってやる、金をくれてやるから黙って作れ。
 対価ではありえない安い賃金で働かされて数十年。
 唯一の報復をするために黙って耐え、ひたすら作りつづけた。作品を、結晶を。
 搾取する側は他者に投げる。何次中抜きまでいくか聞いていますね?
 最終的な売値、上代を技術者が聞いたら天井知らずというでしょう。
 報復方法、ただ死にます。技術を誰にも教えず黙って抱えて墓の下へ持って逝きます。
 誰も抵抗できない、覆せない。営業マンの武器は売れる商品、サービス。作ってくれる人がいなければわれわれの存在価値はない。
 生かされていた。自覚できたときはもうすでに、その人しか体得していない、小さくとも大いなる高度な技術は永遠に喪われたあとだった。
 島国は後退国だ。これ以上なにもしなければ滅びる。
 誰より危惧していた椎名課長は地べたに頭をこすりつけて頼みこんだ。
 技術者は断った。唯一の報復のためいままで生きてきた。どうせあんたも搾取するだけの人間だろう、出ていけ。技を得るための苦行をいまどきの若者が耐えられるはずがない。
 椎名課長は広い人脈で探しあてた、これはという若者を技術者の目の前に突きだし、教えてくれと懇願した。
 若者はなんでもした。建物を少しはまともにし、偏った食生活を直した。口にあう食事を作った。最初はまずいと一口で捨てられても。
 椎名課長も泥だらけでつきそった。
 本物の誠意は通じる、1年以上たってようやっと。喪われる寸前の世界に誇れる技術を次々と遺していった。
 椎名課長なら自分を救ってくれる、技術を誰かに遺せる。偏屈ぞろいの技術者は同立場の人たちに声をかけ、評判を呼んだ。
 いまでは多くのご敬老が安心して終の住み処に愛弟子とともに、地位と対価を保証され弊社に帰属しています。
 椎名課長が営業一課長となってから、営業マンとしての直接の業績、売り上げは0です。まったくなし。
 われわれは頭を下げ、膝を折る。
 どうです。こんな話、あのかたはしないでしょう」
「はい」

 まったく。一言も。

「会社とは人でなりたっている。
 椎名課長はほかにも人材も探した。扱い売る、サポートする人。
 弊社には通年多くの入社希望者がいます。くるの待つだけでなく探しにいったのです。買ってもらう顧客にむかうべき営業マンが、売っている取引先へ回るという矛盾を糊塗するときのみ、肩書名誉欲に興味のない課長が現場一の華という名目をわざとふりかざしながら。
 有名大学や上場企業へは人事部が動いています。椎名課長は中小企業、零細企業、個人事業主を回っていった。あなたがたの会社へむかおうとしたのも、そういうことです。
 少々茶をぶっかけられた結果。
 憧れの藤崎係長はお相手を見つけ、尊敬する椎名課長は一本取られ、ひさびさに会長のご尊顔を拝し、昭和の超大物は枯れた涙を流し、おもしろそうな少年を拾い。
 愚痴をこぼせる人妻に会えた。まったく、大収穫ですな」

 期末を前にノルマに追われる営業マン。全員目の、顔の色が違った、客のためではなく数字のためだけに。
 営業成績0ゼロ。椎名らしくて泣けてくる。

「営業一課のことも少々話しますか」
「えー……風俗店とは」

 新婚早々そんなところへいったらどうなるか。わかっているでしょうね。

「さあ? 少年もするかもしれませんよ、相手の気持ちをわかって立場になってようやっと……おっと、にらまないでいただきたい。……いいすぎたな。
 一課には新人が入ってこない。4月1日に22歳はこない。
 実態はストレスの固まり。酒と惚れた相手がいなければやっていられない。
 要するに、新人歓迎会をします。
 三日三晩飲み、飲ませつくしますよ。これだけが楽しみでしてねえ。私も配属初日、当時総勢60人から酒を注がれて飲むしかなかった。あっという間につぶされました。情けない姿は全員が知っています。
 この通過儀礼は全員浴びていただく。椎名課長だってつぶされたんです。もとい、つぶしましたわれわれが」

 なんだか楽しそうな話になってきた。

「少年の中途入社時期が来年なのは、いちおう世界中を飛び回っているわれわれがほぼ全員そろって三日三晩休めるのがそのときしかないからです。
 めったにない機会なので全員がんばってスケジュール調整します。本当に、相手があってなんぼでして。これでも必死で予定をあわせた結果なんですよ、信じてくださいよ」

 人と会う予定をたてるが苦手なのに、おもしろく聞こえる。

「酒飲みで最悪なのは一般に、教師・警察官・医者。
 本当は違う、われわれです。
 どこの酒場もこんな迷惑集団を受けつけない。しかたがないから自社で酒場を経営しています。
 歓迎会は2年ぶり。情けない新入りは早々につぶしてざまあみろ、まだまだだと大笑い。同僚と酔っ払っておおいに語る。大の愚痴大会です、壮観ですよ。いや、楽しみだ。どうです、のぞきにきませんか?」

 おおいに笑った。本当に見てみたい。

「少年がきたときのわれわれの本心。
 やった酒が飲める!
 説得も謝罪もさっぱり聞いていなかった。頭のなかではこいつを飲ませつぶす、しか考えていなくて」

 カウンターを手でぶったたいて笑った。

「そろそろ息抜きが必要だった。さすが椎名課長、お目が高い。ますます尊敬しましたよ。
 少年の案内役を買ってでようとしたら会長に役目を奪われ。歓迎会にも顔を出すとおっしゃったんですよ。極上の男前が、お茶目な友だちに影響されて、伴侶も得た。最近は少々丸くなったのではないでしょうか」
「えっと、えっと……」

 笑いを抑えられず、

「その……人って、どういう人ですか?」
「おや、会長にご興味がおありで。およしなさい、やけどじゃ済まない。誰でも興味を持つ、惹かれる」
「ありえません。私、忠弘しか見えない。忠弘でしか濡れない、感じない」
「おおっと、即答のうえきわどい話で返されたか。私も一本取られたな」

 しおりはすやすや眠っていた。

「こんなしようもない、酔っ払いのわれわれでもね。野望があるんですよ。聞いてもらえますか」
「はい」
「椎名課長が頂点、代表取締役社長に就任することです」

 見据えた目、男の本気。

「社長は代々、総合事業部門という社長直属であらゆる部門すべてを統括する、重役にさえ強制調査権限を持つ俗称・査察部出身者です。強権すぎてあえて誰にも肩書がない。
 経営者は全部門を熟知している。歴代の社長は皆この部門出身者でした、会長もです。
 椎名課長は1年未満庶務一課主任の経験はあるものの基本的には営業畑の人間です。
 それでも、われわれの野望は営業マンが頂点を極めること。
 なんでもやりました。泥水を飲み、地をはいつくばり新品同様になるまで靴をなめあげた。現場一の華とは誰より汚い人間の裏を知りつくしているという意味です。
 われわれ一課に驕りはありません。そんなものをふりかざしては泥など飲めない。
 誇りはあります。誰よりも。
 われわれが頭を下げ、膝を折る、誰より愛した女に、弊社のすべてを背負っていただきたい。
 われわれの総意です。応援してくれますね」
「はい」
「本社営業一課長とは本社支社子会社、関連会社にそれぞれ必ずある、営業に関するすべての部門の頂点に立つ、取締役営業本部長ともいうべき存在です。強権すぎるのであえて呼称を抑えている。
 他部門の長は違う、支社と本社の部長は対等です。
 椎名課長が就任するまで3年間空席だった。私が肩書を1つ上げればいい席ではありません。
 弊社がまがりなりにも大会社と呼ばれ一世紀の社史を有せているのも、こういった配慮があるからです。
 さて。話しあわせをしなくてはなりませんな」
「え?」

 望外なほど聞いたのに。内緒にしろということだろうか。

「けっこうな時間をとりました。藤崎係長と話しあったとしますが。
 内容は聞かれる。よその男と談笑したとはいえないでしょう。
 実はその……このかたはさっきまで、……その、愚痴をさんざんこぼしてあなたに会ったのですよ。聞く気はなくても聞いてしまいまして」

 酔っぱらうまで無言で飲んではいなかったらしい。どんな内容か。

「気弱なお相手さんが、フィアンセという呼称に憧れているらしく、婚約してからぼくの名字を変えてください。だそうです。
 ほかも口にするのも恥ずかしい愚痴続きで……」

 いまだ。

「内容は? 鮮明に教えてください」
「くっ……さすが新婚、質問が鋭い……負けました。しかたがない、軽蔑しないでくださいよ」

 やっぱり。

「えー……

あのふにゃちん短小男、奥まで届かない、精液が少ないどころじゃない、いつも先、早漏がすぎる、キスも愛撫も最悪のどへたくそ、性技なし、性欲なし、またいでやっと一度きり。

 ……もういいでしょう。恥ずかしい……」

 がはははは。腹を抱えて笑った。床に転がってやろうか。

「そんな男のどこがいいと、部外者の私が聞きましたよ。
 藤崎係長に横っ面を往復ぶん殴られました。悪口はたとえ椎名課長でも許さない、怒鳴られました。……私は課長じゃありません」

 ひたすら大笑いした。

「話をそらしたいので」

 そう? まだまだいいですよがはは。

「藤崎係長はあなたがたと同い年です。なぜ営業一課長秘書を名のらないか。
 むさくるしい男に囲まれ酒でつぶされたという屈辱的な過去を負いたくないからかもしれません」

 なるほど。

「自称大会社の秘書課は特殊です。
 入社試験は一般社員とはまったく、おおいに違う。顔どころか全身写真スリーサイズ、水着姿が履歴書がわり。超一流大学卒以外入れたことがないそうです。
 体面のかたまりが秘書課。最上階は社長室、1つ下は副社長・専務室、その下に常務室と秘書課。われわれは近づけもしない。
 容姿端麗学歴優秀は最低条件。内々定も出さないうちから徹底的に鍛える。茶、花、料理、語学、上司の身の回りの世話、スケジュール管理、接客、教養を仕込まれる。エステは毎日です、昔の花魁となにも変わらない。
 希望者はやまといても次々落とされる。ひとつでも苦手科目があったら、体重が0.1kgでも増えたらさようなら。しわしみ論外。どこの部門より厳しい審査を経てやっと入社。秘書課の新人女性は多くて年3人です」

 なんとまあ。

「藤崎係長は歴代の美女群の、さらに上をいった。30年にひとりの逸材といわれ、入社と同時に係長就任。ずっとNo.1だった当時の係長はおそれをなして即退職。われわれむさくるしい男とは本来会話も許されない人物です。
 美女を侍らせることが大会社のステイタスだそうです。ひがみで申しますよ腹立たしい。
 入社後の仕事は好色な重役の横でハラスメントまがいのことをされるだけ。誰のスケジュール管理もしない、身の回りの世話もしない。なんの応対もしない。決まった出社、帰宅時間もありません。完全に自由。あくまで華、しおれないよう留意しろ。
 新入社員と美女群は給料がひと桁違います。かわりに定年がある。ぴたり25歳、誕生日がきたらさようなら。
 私がどんなに美女でも秘書課には入りませんね。いかがですか」
「はい」
「秘書課の実態はともかく、お相手のこと、藤崎係長のままだとは当人から聞いた、としてください。
 ほかになにか質問は?」

 とても気になる。

「忠弘は……一課で、やっていけるでしょうか……」
「やれなければ追いだすだけ。われわれは捨て駒です」

 ああ、捨てられる側なんだ。

「必死にがんばるしかない。地獄の底にいつづけた暗闇、孤独に較べれば。われわれでさえそんな壮絶な人生ではなかったし、不完全でも牙などない」
「私は……どうすれば……」
「少年をひたすら愛してください。たとえどこまで堕ちていっても。奈落の底までも一緒にいって、抱きしめてあげてください。
 馘になり、後ろ盾の会長や昭和の超大物の顔に泥を塗り、現在の居にいられなくなり、無一文で追いだされ、せまい国にいられなくなっても。
 自信、ありますね?」
「はい」
「よろしい。さあ、連絡して。私と会話することは、もうほとんどない。これからは雲の上の上司です」
「はい」

 立ちあがり、

「ありがとうございました!!」