釣り。

53 釣り。

 後ろの忠弘にぎゅっと抱きしめられながら、

「コーヒーどう? 淹れてあげる」

 ずっとね。

「挿れたい……」
 
 

 大量のチャーハンはかなりのアクションが必要だ。

「小さな中華店とかでカウンターに座って見たことない?」
「ああ……そういえば」

 テーブルをふいてもらい食事を持っていかせた。

「いただきます」

 忠弘ががつがつ食べる。

「さぁや。倍を食え」
「ちょっと……」
「ちょっとじゃない。俺のをやる、食え」
「でも……」

 忠弘が皿からたっぷり移す。うわ、こんなに食べられないよう。

「さぁや」

 ああ、うまくなりたい。

「えっと。忠弘って就職活動のとき、どれくらい受けたの?」
「一社」

 あっさり。

「……ひとつだけってこと?」
「そうだ。あの会社で手応えがあったので、一社だけにしてあとはバイトに明け暮れた」

 20歳すぎのむこうみずは、世間に一切通用しなかった。
 不採用通知。誰にも認められない、命が削りとられてゆく恐怖。

「どうした? さぁや……」
「あっ……と、えっとえっと、その、私は何社も受けたの。手応えとかなにもなかった。よく受かったなって」
「俺もほかの会社なら同感だった。偶然だ、本当だぞ。なあさぁや、怒るな……」
「ううん、怒ってはいないの、あの。
 ……うらやましいなって……私はいっぱい落ちたから」
「うらやましいと声に出していうのはいいことだ」

 チャーハンの山を食べる忠弘。

「俺の友だちは親がいてうらやましい。友だちは俺がさぁやに恋できてうらやましいという。
 うらやましいはいいことだ。言ってくれてうれしかった、ありがとう」

 とりつくろってどうする、真っ裸主義の男に。
 きっと嫌われないだろう。嫌われようとして言いまくっても迫られまくった。

 甘えたって、いいんじゃない?
 対抗しましょうか。
 
 

 今夜も独り寝。
 夢で、乳房を激しくもまれた。乳首を舌で、くちびるで。

 さぁや……愛している……愛している……
 
 

 忠弘が毎日走りだして1週間後の朝、マンネリ朝食中に聞かれた。

「どうだ? さぁや」
「うん、えっと……」

 しょうじき、もうおわっている。1か月で一番解放感のある時期だ。

「だめか?」
「ううん」

 いま致されてもいい。仕事は続けてほしい。

「ドライブしないか」

 致したい瞳でもなく、気づかう心配顔でもない。優しい大人の男性の笑み。

「うん。どこへ?」
「飯のあと視聴室でなにか見よう。そのあとにでかけるぞ」

 朝食後、ふたりで視聴。

「さぁやはどんなのがいい?」
「コレクションとかのショーかな。チアリーダーものも好き。あと、恋愛もののドラマ、映画」
「そうか。俺の趣味は釣りもある」

 知らなかった。

「あまり釣れない、へただ。釣り友だちに週末どうかと誘われても年に2・3回しかいかない。さっぱり上達しないがたまに、頭を空っぽにして帰る。
 さぁやもやってみるか?」

 釣りは車と同じ、ぴんとこない。

「ええっと……ううん、いい」
「俺のを見ていてくれ。行くぞ」

 手をつないでふたりのマイカーに乗る。

 ひさびさの外。
 ドライブのたびに寝てしまう、今度はちゃんと見よう。
 
 

 ……あれ? ここ?

「忠弘、どこへいくの?」
「釣りに」

 車が停まる。玄関でふたり、靴を脱ぐ。
 忠弘が妻をひょいとお姫さま抱っこした。黒光りの木の廊下に重い足音が響く。

 一番小さな和室という、二十畳程度の真ん中に衝立があった。仕切られた奥に老婦人が正座し、手をついて頭を下げて待っていた。蒔絵が施された衣架に見事な留袖がかけてある。襦袢も。

 住まいにふさわしい服に着替え、行った先は調理場。

 曲げ割っぱのおひつ3つに、つやつやご飯が山と盛られていた。隣にはほどよく切った焼きのり、磯の香りがぷんぷん。紀州の優しそうな色・食感だろう梅。おかか、鮭、たらこ、いくら、昆布等々。肝心のお塩。
 後ろの忠弘にぎゅっと抱きしめられながら料理開始。

 その前に手を水で濡らさないといけない。ひさびさだったので、あやうくそのままで握るところだった。
 大きな丸皿がどんと3つおかれていた。いったい何号なのやら。あれに盛れっていうんでしょう、はいはい。

 和服にたすきがけで次々握っていく。具ごとに順に並べなかった。とにかくきれいに盛っているとわかればいいだろう。

 奮闘後、おひつのご飯をようやっと空にする。具はやっぱり余った。
 お握りを山と盛った皿3つ。複数の、おそらく使用人が現れ、1つずつ丸皿を持つ。
 
 

 場所は遠くなかった。引き戸を守る使用人のいずまい、威圧感。
 三十畳程度の、南向きの部屋に入る。

 空きのざぶとんは下座に2つ。
 上座の老人が驚いていた。
 一世紀近くこの国を見つめてきた瞳をかっと見開く。幾人をも叱咤してきただろう口がぽかんと開いている。
 お茶を淹れた。

 私が愛する、ほんのわずかな人たちのために。

「いただきます」

 忠弘がすさまじいスピードで食べていく。
 老人は手をのばすものの、腕ごとふるえていた。目の前の現実を理解しきれないかのように。
 真向かいに座る食欲旺盛な忠弘が山を次々削りとっていく。そろそろなくなるかというころ、ついに手をつけた。

 一番近いものをぐいと握りつかんで口もとによせる。

 ありえないものを見るかのように凝視したあと、まがいものの歯で搔っ切るように食べた。

「あー……ああー……」

 口からもれる、

「ぅあーーーああーーーー……あぁーーーー……」
 
 

 食べおえ、2人のためにお茶を淹れた。

 忠弘が縁側へむかい、降りて庭にある池のへりに腰を下ろした。釣り竿らしきものを持って。
 老人が、

「忠弘君、や」

 大きくも小さくもない、よく響く、しわがれた声。

「はい」
「わしの。な。
 息子になってくれんかのう」

 飾らない、素朴な声。まるで思春期の少年のよう。

「いいよ」

 夫の背をみていた。

「公式に、とかはいやだ。それでもいいのなら」

 忠弘が室内に戻り、妻をひょいとお姫さま抱っこした。

「たまに帰るよ。父さん」
「……そう、か」
「さぁやの飯、うまいだろ。驚かせにきたんだ」
「うまいがの、ちと驚かせすぎじゃ。握り飯までとは聞いとらん」
「次のリクエストは?」
「なんじゃそれは」
「次に、なにを食いたい?」
「……なんじゃ、それは」
「ない?」
「……里芋の、煮っころがし」

 困った、作ったことがない。

「わかった」

 部屋の外に、すべての使用人が集結していたという。
 あのとき視線で殺した者も廊下の両端にずらり並んだ。全員正座し両手をつき、頭を黒光りする床にこすりつけ、見事な日本庭園に立ち並ぶ者は90度腰を折った。

「俺たちは生涯新婚だ。ついでにいうなら現在無職。いつとはいわない、そのうちくるよ。じゃ」

 妻のくちびるにふれ、

「さぁや。目を閉じて」