ゆびで。

47 ゆびで。

「現在当社は未曽有の混乱中だ。全権を受任した俺が今日で辞めますなどいえるか」
「……うん」

 忠弘が左手の薬指をなめてくれる、音をたてて。

「10割復帰の件はなし、代表者に直接伝えたぞ。
 ……いいかえせなかった」

 すねている。
 こども同士のかわいらしいけんかに負けちゃって、認めたくなくて意地を張っているかのよう。

「……そっか」
「しかたがなく内容を聞いた」

 4か月間ふたりきりだ、体力が。

「断った」
「え?!」

 わからない、考えが及ばない。

「なにが才覚次第でしか家に帰れん、私用携帯電話もろくに使えんだ。俺と一日逢えず声も聞けずでどうなった」
「すーーーっごく、寂しかった!」

 たいへんな一日だった、もうごめんだ。

「だろう? 俺もだ。論外だと答えたら合格だと」
「え?」

 なんの?

「仕事以外しない者は不要だと。
 俺は一課長、補佐だけではなく、案内役にも面接されていた」

 引っ越しの実態は就職試験の最終段階、役員面接だったらしい。車内とはずいぶんな圧迫面接だ。

「言ってやった。6割復帰は俺の手柄ではなかろうと」

 反応のしかたがわからない。

「大会社の体面が保てるのは当社が即日倒産することだけ。
 ほそぼそと営業続行など、体面をみずから捨てたも同然だ。直接の加害者が謝っていないのに? ありえん。
 理由は別にあるなと言ったら合格だと」

 案内役は椎名の上司。

「自分のおかげと思い上がって見抜けん者はいらん予定だったがけっこうだ、わが社にこないか。こっそりレベル10をやろう、だと。
 さぁやと相談してからと伝えた」
「……そっか」

 いいよ行っても。

「すかさずいわれた。新居の売りは警護だ、さぁやは逃げも隠れもできん。
 俺は転職の件を二つ返事で引き受けた」
「あの、……ね」

 なにを自信満々に……。

「忠弘。ちょっといい?」
「いくらでも俺をさぁやに挿れる」

 ひとの話を聞けというに。

「私と逢えない、じゃなかった?」
「気合で帰るに決まっている。望むところだ、どんとこいだ」
「……そ。う……」

 こころのどこかでちらりと悪魔が4か月後は解放されるとささやいたのを、夫は見逃してくれなかった。負けた。負けたのだ、潔く毎晩致されよう……。

「話はおわった。転職を決めたので、さぁやには引き継ぎするなといって俺はする気満々だった」

 どういう男だ。

「取引先にもあいさつしなくてはな。帰社するといったらなんだつまらん、ふだんのつながりが薄いのか、すっぱり辞めてみせろ、だと。いいかえせなかった」

 案内役とはどういう人だろう。

「式だ披露宴だはやりたいだろう。新婦側の衣装は一課長と秘書が世界一のものを贈るはずだが新郎側はどうする気だ。
 いいかえせなかったら即断しろ、だと。
 目の前にいる人物が誰かまさかわからんわけがあるまい。活かせる機会と判断できたら決して逃すな。それすら知らんか、なにが営業だ。さんざんいわれた」

 ひとの夫に。どういうやつだ。

「俺の衣装も結婚指輪も世界一のものを用意してやるから頼れという意味だ。
 新居も転職も、なぜここまで世話を買ってでるのか聞いた。
 未来の部下のめんどうをみれば一課長に貸しを作れる、大手をふって引退できる、ぜひ頼れ。だと」

 もういい加減にして。

「一課長は案内役の夫人のめんどうを長くみたそうだ。
 引退しようとしたとき一課長が、

あんなに世話してやったじゃないか、名誉職にすら残らんとはどういうことだ、夫人にいって引退できなくしてやる。

 案内役はいいかえせなかったそうだ。
 さぁやが一本取ったと聞いてこれだと即断即決、フランスから即行で単身帰国した、さぁやにぜひ礼をいっておいてくれ。だと」

 んなもん知るか。

「さぁやに感謝していたので、指輪と俺の衣装は頼むことにした」

 いいのか。

「新婚旅行をどうするか聞かれた。多少俺の趣味を知っているらしく、アウトバーンを走りたかろうとずばりいわれた」

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「ついそのとおりといいそうになったら、足をのばしてフランスの教会で式をしてはどうか、夫人息子と一緒に参列できると勝手なことをいわれた。
 フランスで式を挙げるなら客は全員プライベートジェットで優雅にご招待だと。
 友だちにただで海外を旅行させたい。アウトバーンも走りたい。さぁや、どうしよう」
「いきなり話をふられても……」

 そのへんの小さな教会でというつましい話がどうしてフランス。

「考えておいてくれ」
「……うん」

 なんとなく、忠弘の目が車の形になっているような気がする。

「新居についてだが。
 さぁやを家から一歩も出さないとはどういう了見だ、不健康だ。警護があるからさぁやを外に出せ、敷地内をちゃんと散歩させるように説教され反論できなかった」

 よかった散歩はできる。

「当初は案内役と夫人しか入居者がおらず、敷地内にコンビニは作らなかった。
 のちに2組知人を入れた。わけありな世帯らしく、私有地をほとんど出られないらしい」

 かわいそうに。ひとごとじゃないぞ。

「あとづけで作ったそうだ。
 散歩場所は共用だ、会うかもしれんがわけあり世帯だ。こんにちはという程度にとどめてくれ、だと」
「うん、わかった」

 せめてそっとしてあげたい。

「あとで家の外、敷地内も歩いて、コンビニにもいこう」
「うん」
「話はおわった、新居に帰せといったらまだ説教があると」

 今度はなんだ。

「体と心の健康状態を聞かれた。
 俺は食生活、睡眠状況ともに最低。いいかえせなかった」
「……そっか」

 大の苦手、カロリー計算と対決してみるか。

「致しまくりでさぁやの体力を奪って飯まで作らせるとはどういうことだ。三食きちんととらせているだろうな。さぁやの健康もきちんとみろ。さぁやの体重がいまの段階で前より減っていたら、警護がさぁやを誘拐するぞと脅された。
 体重何kg?」
「えーっと……」

 毎日毎晩ああだと……コンビニへいったらまず水分だ。

「空調も完璧だが甘えるな。まさか致したあとろくに風呂にも入れず、真っ裸でうろついているんじゃあるまいな。だと。
 この野郎は俺たちの家を盗撮しているのかと疑った」

 極端だなあ……。

「都内有数の総合病院を紹介された。医療費は気にするな。だと。
 風邪薬をはじめ薬をどっさりもらった。生理用品、生理痛に効く薬もある。さぁや、使って」
「……うん」

 たったいま重い生理がはじまりました、という言い訳はまったく通じないもよう。ねえお願い休ませて。

「旧宅を紹介してくれた友だちには、俺の妻は豪勢なマンションを持っている。こちらにこなければ結婚しないと脅されたのでしかたがなく引っ越した、勘弁してくれと言い訳した。
 さぁや、許して」
「うん、いいよ……」

 今日は痛いから許してってお願いしても勘弁する気ないだろうな、この男。

「やっと説教がおわった、いい加減帰せと言ったら敬老会とやらの実態を聞いたぞさぁや」
「うっ」

 ちょっとにらまれたので、朝のキスを。

「あの老人がどれだけ超大物かは多少知っている、おさわりなどありえん。
 さぁやは優しい、敬老精神のひとつも出して当然だ。俺とて頼まれたら同じことをする。俺の茶は気に入らんだろうが」
「お茶を淹れたことがあるの?」
「社外の新人研修でやっただろう」

 ひょっとしたら、あのとき少しは会話していたかもしれない。
 忠弘が左手首をなめる。脈のところにはうくちびる、熱い舌に感じてしまう。

「ん……ね、だいたいお話、おわり?」

 なんだかもう、致されそう。

「まだある。ちょっと不思議な話だ、聞いてほしい」
「なに?」

 舌をゆっくりほどいて、今度は指をからめる忠弘。やさしい手だとささやきながら、妻の指を武骨な傷だらけの指で愛撫する。

「帰り際、コンビニ弁当を渡された。食うだけ食ったら大笑いした」
「なにそれ」

 味がしないじゃなくて?

「おそらく、笑いだけだ」
「……なにそれ」
「夕飯にも朝飯にも入っていた。ろくなコンビニじゃない」

 妖怪が経営でもしているのか。

「……へんなの。量はまにあった?」
「まにあった。段ボールに12個入っていてな。聞くと、権力にものをいわせて弁当製造店を脅して規格外のサイズをその場で作らせたそうだ。間違いなく笑い茸も入れている」
「……おかしいよ」

 感覚がまひしてきた。

「俺の話はいったん終了だ。さぁやからの質問があまりなかったな」
「……そう?」

 声に出したら致されますよ。

「俺は聞くぞ、順に話してくれ」
「うん」