いわないといけないですか?

39 いわないといけないですか?

Eve 2008

 先に連絡する。

「ごめんなさい……」

 戦士を統率する者ではない声に頼まれた。
 あの老人と11時までどうかつきあってくれないか。

「事前にいうべきでは」
「……お怒り、ごもっともよ。一言いちごんもないわ」

 老人は齢90歳、一代で一部上場の大会社を興した伝説の超大物。
 30年前に辞任、都心にある巨大邸宅に住んで一歩も外に出ていない。
 つき従う長男、現会長も超高層自社ビルの最上階から1つ下の階にすら降りない。
 ものものしい大勢は要人警護。

「夫以外、もう指一本ふれたくありません。最低でも保証してください」

 腕力だけがものをいう状況をせんに作る。
 卑劣といわずしてなんという。

「私と会長の名にかけて保証するわ。ほかは」
「あのご老人と会うのは、これっきりということで」

 事前にはっきりと伝えた。

「いま私と連絡がとれるということ自体、……いいわ、保証します。私と会長の名にかけて」

 どうして、なぜ。

「老人が説明するわ。
 ひとつだけ。すべての原因が、あの一杯のお茶だったのよ」

 ため息ひとつ。
 忠弘に連絡したものの、呼びだし音が鳴りつづけるだけ。
 引っ越し、ファーストクラス……移動中で聞こえない?

さや
さや

妻です。すき。早く逢いたいな。いま、なにをしていますか。
私はちょっと、退職まぎわのお仕事で敬老会の用事ってことで外回りに出されている。昼前にはおわるよ。
一課長と秘書が一緒に朝までお酒を飲もうって。返事して?

 車が停まり、ひさびさに草履を。
 大きな門、これが巨大邸宅……いまどこ? ほんとうに都心?

「こちらへ……どうかなにもおっしゃらず……」

 しかたがない。

 なるほどこれが最上級の玉露か。知ることができてよかった。ためになるな。
 冷静になりたいのに世界一。茶を淹れる器具の数々も。
 こんなもの、最高峰の茶人に淹れてもらえばいいじゃないか。

 通された三十畳ほどの部屋はゆったりしていた。静かな年輪を感じる。
 老人が背をむけ、南向きの縁側でざぶとんをあてる。

 そばに、茶をそっと差し出した。

「ほ。ほ。ほ。お待ちしておりました」
「どうぞ」
「いただきましょう」

 鶴のような痩身の老人がゆっくりと茶碗をかたむける。
 持つ手を下ろし、

「枯れたじじいに……」

 

 鳥がさえずり、太陽が中天に近づくころ。

「ありがとう、清子さん」

 ただ聞いた。

「このじじいはの。
 十三で、町の工場の住みこみを始めた。馬車馬のように働いた。休みはなかった。めったに寝なかった。
 わしら汗臭い男たちを見守ってくださるかたがいた。師匠の奥方じゃ。年若いその人はわしら男たちの憧れだった。その人の握ってくれる飯、淹れてくれる一杯の茶。それだけで働けた。
 その人はやがて子どもを産み、職場には出てこなくなった。以来がむしゃらに働いて……。
 わしには連れ合いがいた。いつのまにか世間ではたいそうないわれようになって、つりあう者として紹介された。大の名門の、華族の高貴な血をひく聡明な、きれいな女性じゃった。
 箸より重い物を持ったことがなく、家事ができようはずもなく。ただわしの子を産み、四十年前に先立った。もう、顔も思い出せん。
 三十年、家を出たことがない。世界一に囲まれただ生きた。家、畳、材木、障子、玄関、庭、樹木、石、食事、服、草履……。
 思い出すのは初恋のあの人の、一杯の茶、握り飯だけ。
 誰に命じても、あの味を再現してはくれなんだ。
 ぽろっと、昔わしの会社に気まぐれで入った女性に伝えたことがある。彼女から二十年ぶりに連絡が入った。それだけなら誰もわしにとりつがん。
 あの味を、もう一度……かもしれない。
 気づけばあなたの会社にいた。茶を飲んだ。
 もう……いい」

 茶碗をかたむけ、

「お帰し申そう。これが、わしのできる唯一の感謝じゃ。
 お帰りなされ。ありがとう……」

 

 長い、長い道のりだった。
 巨大な門の外に、白く輝く横長のリムジンが停まっていた。白手袋の制服の人が後部座席を開ける。
 なかには2人の女性が。

「……どう、謝罪すればいいかしら」

 らしくない。

「普通に仕事しただけだから、いい」
「質問に答えてちょうだい。どう、謝罪すれば……」
「いいの、友だちだから」

 ね?

「ありがとう。ほかに言葉がないわ……」

 こちらこそ。

「質問していい?」
「ええ。どんなことでも」

 なりたかった。ほしかった。
 その瞳、奪い去りたい。

「退職したいの。忠弘がけさで会社を辞めてこいっていうから。
 ……だめなのわかっているよ、よりによってこんなときに。みんな疲れた顔して、生きた心地しないだろうに……。
 忠弘に、渡辺君に任せるって決めた。
 椎名さん、頼みます……お願い!」

 拝んでみる。

「はい了解よ。私のことは玲と呼んで、しおりはえんえん名字肩書なのよね」

 まるで得意げな秘書。

「はい玲さん。忠弘はいまなにを?」
「引っ越し作業中よ」

 さすがにフランスは遠いよね。

「少年に対し案内役が必要なのは、清子さんもおわかりのとおりよ」

 どっちにもたっぷり説明不足の認識はあったらしい。

「事情を知っているお方にお願いしてあるわ、どれだけすばらしい男性かは私が保証します」

 見知らぬ美女でなければいい。

「信じている」
「ありがとう」

 社会に出て最初に知った心。

ありがとうといわれる仕事をしよう。
そのぶんお代をちょうだいしよう。

「さっき忠弘に連絡したら出なかったの。どうしたのかな?」
「少年は新居にいるわ。
 外装、内装、家具、備品、調度品に至るまで。少年の人脈でそろえられるものとのあまりの違いに、妻から連絡があっても出られないのではないかしら」
「えっと……」

 大人に対し、その言い方はどうかなあ……。

「いろいろしてもらってほんとうにありがたい。ほめてもらったし助かった。
 だからいままでどおりがいいな、忠弘と一緒に」
「あなたは私から一本取ったあの瞬間。私たちの会社にきても、一課の男たちをみても、なんらひるまず普通に去ったあの日。
 もう人生が変わったのよ」
「忠弘にだけ変えられたい」
「あなたの夫の職場は、あなたの夫の才能を最大限に引き出せる環境かしら?」

 はいと即答すべきだった。

「違うわよねえ。
 先日私の部下、本社営業一課長補佐に少年と仕事の話をさせた。補佐から報告を受けた結果。
 あなたの夫には、私たちの会社にきてもらうわ」
「……どう、答えれば?」
「私がこと仕事に関しては、少年の壮絶な過去すら無視するほどシビアであるとは、わかってもらえたわよねえ」

 まるで一課長室内のような緊迫。

「私の、すなわち補佐のシビアな目で少年を面接し、採用することにしたの」

 そろそろお願いしようかな?

「案内役の方からほぼ同じことを少年に伝えてもらっているわ。先日の面接結果が良好だった、わが社にこないか。
 少年は即答しているはずよ、イエス。そうでしょう?」
「なぜか聞いていい?」
「ええ。洗いざらい、まずは私のほうからしゃべるわ」

 逃げられないな。

「サラリーが上がる。ボーナスは業績によっては天井知らずよ、どう?」
「……まだ、あるんでしょう?」

 目の前の2人は限られた桁数の金額に関心を持っていない。

「少年には一課にきてもらうわ。あなたがみた男たちと一緒に仕事するのよ。中途入社即本社営業一課配属。弊社史上、最初で最後よ。どう?」
「まだ、あるんでしょう?」

 しおりは美脚を組んで座っていた。

「弊社の営業課は三課体制なのよ」

 教えてもらった、大会社特有の事情。
 営業は結果≒数字がすべて、階級制。
 三課<二課≪越えられない壁≪一課。

「三課を経ず突如配属。周囲の視線は厳しいわ。
 やりとげる男だ。信じているわね?」
「うん」

 しおりもほほ笑んでいた。

「同じく少年も即答している。妻がおのれの才能を極限まで開花できる場に送りだしてくれると信じて」
「うん」
「そんな男と女は、守ってあげなくてはならないわ。
 あなたたちに引っ越しを強いたのは高慢なところにこい、じゃない。警護よ。全員実戦経験者、プライベート・アーミーね」
「そこまで……」

 殺意だらけだったあの大勢。

「そこまでしなくとも? 自己評価が低いようね。
 あなたの普通の仕事とはいつも極限、極上。それより少しでも下はない。
 ノーとはいわせない。見抜けないと猛者の前に立てないのよ、返事はけっこう」

 あきらかに話をそらされたあのとき。

「午前中におこしたできごとの謝罪は、どうしてもしたい。
 少年も本日限りで退職してもらうわ。入社は4か月後。その間、ふたりきりで一緒に」
「えっ……」

 忠弘もきょう?

「結婚おめでとう。
 ふたりでのんびり新婚旅行したらいかがかしら。費用そのほかはすべて持つわ、どう?」

 そんなになにもかも変わったら、

「会社……いまが危急存亡の秋なのに」
「弊社と老人の会社、単純に売り上げは倍増。
 ここまでしてあげて、それでもだめならとうにだめだったわ」

 知らない、わからないといってはならない。

「いままでもっていた、ましな者も少なからずいた。私と会長、あの老人の名にかけて。
 つぶしはしないわ」

 まだ、なんでしょう?

「式と披露宴の話に戻すわ。招待してくれるわよねえ?」

 頼んだよ、渡辺君。
 忠弘の意向を話した。友だちだけ。

「衣装は山本某が用意するの?」
「ううん、なにも……」

 新婚気分も絶頂も。
 はなれはしない、同僚と組織の疲弊。

「世界最高のマリエを贈るわ。あたしと椎名課長の心意気よ。
 山本某のプライド、みせてもらう」

 車が停まった。

「さあ、前置きはここまでよ。
 約束の、結果報告を洗いざらいしゃべってもらう」
「……ちょっとは手加減してね?」
「知ったことじゃないわ!」