いわないといけないですか?

39 いわないといけないですか?

 先に連絡する。

「ごめんなさい……清子さん、とお呼びしたほうがいいのよね」

 すぐに出た椎名。いまだけは戦士を統率する女性の声ではなかった。

「はい。私はどうなっているんでしょう」

 率直に聞いた。

「友だちになりたての私の顔を立てて、あの老人と午前11時までつきあってくださらないかしら……」
「事前にいうべきでは?」
「……お怒り、ごもっともよ。一言いちごんもないわ」

 事後の説明を受ける。

 あの老人は一代で一部上場の大会社を興した齢90歳、伝説の超大物。
 つき従っていたのは老人の長男、二代目代表取締役会長。
 創業者の老人は30年も前に現役を引退、現在は都心にある巨大邸宅に住んで一歩も外に出ていない。一般人を前に言葉を発してもいない。
 会長も、超高層自社ビルの最上階から1つ下の階にすら降りない人物。
 ものものしい大勢は要人警護。

「私は夫以外と、もう指一本ふれたくありません。最低でも保証してください、いいですね」

 囲まれ拘束されている。椎名が、忠弘がすぐ近くにいないことは明白。抵抗もできない。

「私と会長の名にかけて保証するわ。ほかはどうすればいいのかしら」
「あのご老人と会うのは、これっきりということで」

 事前にはっきりと伝えた。

「いま私と連絡がとれるということ自体、……いいわ、保証します。私と会長の名にかけて」
「どうして私がご老人に呼ばれたのでしょう」

 本題を聞いた。

「老人が説明するわ。すべての原因は一杯のお茶よ」
「はあ……」

 通話終了。一息ついて忠弘に連絡した。
 呼びだし音が鳴りつづける。
 むこうは引っ越し、肉体労働作業中。音が聞こえないか?

さや
さや

忠弘へ、妻です。すき。早く逢いたいな。いま、なにをしていますか。
私はちょっと、退職まぎわのお仕事で敬老会の用事ってことで外回りに出されている。昼前にはおわるよ。
一課長と秘書が一緒に朝までお酒を飲もうって。返事して?

 おとなしくざぶとんをあて、動かずいると、老婦人は安心したのか静かに退出していった。
 
 

 車が停まる。老婦人が再び現れ、先導されて車外に出た。
 まあ、大きい。いうなれば巨大邸宅。都内よね?

「こちらへ……どうかなにもおっしゃらず……」

 金持ちの道楽につきあえってこと?
 日本一だの人生を変えるだの。
 なにもいらない。忠弘さえいれば、あのマンションで十分だ。どうしてそっとしておいてくれないのかな。

 黒光りする広く長い廊下は、まるで由緒正しきお城のよう。
 えんえん歩かされたあと、老婦人に通された部屋は広い和室。人がくつろぐ空間ではなく給湯室だそう。なにもかもが違いすぎる。

「御屋形さまにお茶を淹れていただけませんか……? これが、あなたさまをお呼びした理由のすべて。どうかあとは、御屋形さまと……」

 済めば解放されるらしい。しかたがなく作業を開始した。水場に立つ。

 なるほどこれが最上級の玉露か。知ることができてよかった。ためになるな。
 つとめて冷静をよそおったものの、世界一ということ。茶を淹れる器具の数々も。もういいですよ、はいはい。
 世界一の茶人に淹れてもらえばいいじゃないか。

 私、いらないよね?

 もういいや。開き直って先導する老婦人のあとをついていった。

 老婦人が足をとめる。給湯室より広いが威圧感はなく、ゆったりしていた。静かな年輪を感じる。
 老人が背をむけ、南向きの縁側でざぶとんをあてる。

 そばにより、茶をそっと差し出した。

「ほ。ほ。ほ。お待ちしておりました」
「どうぞ」
「いただきましょう」

 正座したままとどまった。
 鶴のように痩身な老人が、ゆっくりと茶碗をかたむける。

 一口飲むと茶碗を持つ手を下ろし、

「枯れたじじいに……」
 
 

 鳥がさえずり、太陽が中天に近づくころ。

「ありがとう、清子さん」

 ただ聞いた。

「このじじいはの。
 13で、町の工場の住みこみを始めた。馬車馬のように働いた。休みはなかった。めったに寝なかった。ただ働いた。
 わしら汗臭い男たちを見守ってくださるかたがいた。師匠の奥方じゃ。年若いその人はわしら男たちの憧れだった。その人の握ってくれる飯、淹れてくれる一杯の茶。それだけで働けた。
 その人はやがて子どもを産み、職場には出てこなくなった。以来がむしゃらに働いて……気がつけばご老体と呼ばれる身になっておった。
 わしには連れ合いがいた。働いていたら世間でたいそうないわれようになって、釣りあう者ということで紹介された。大の名門の、華族の高貴な血をひく聡明な、きれいな女性じゃった。
 箸より重い物を持ったことがなく、家事ができようはずもなく。ただわしの子を産み、40年前に先立った。もう、顔も思い出せん。
 30年間、家を出たことがない。30年間、世界一に囲まれてただ生きた。世界一の邸宅、畳、材木、障子、玄関、庭、樹木、石、食事、服、草履、……。
 思い出すのは初恋のあの人の、一杯の茶、握り飯だけ。
 誰に命じても、あの味を再現してはくれなんだ。
 ぽろっと、昔わしの会社に気まぐれで入った女性にいったことがある。彼女から20年ぶりに連絡が入った。それだけなら誰もわしにとりつがん。
 あの味を、もう一度……かもしれない。
 気づけばあなたの会社にいた。茶を飲んだ。
 もう……いい」

 茶碗をかたむけ、

「お帰し申そう。わしのできる唯一の感謝じゃ。
 お帰りなされ。ありがとう……」
 
 

 部屋の外で老婦人が正座して待っていて、一礼して立ちあがり先導する。長い、長い道のりだった。
 巨大な玄関にようやっとたどりつく。腰を折る老婦人に見送られて車に乗った。後部座席には荷物がそっとおかれていた。
 巨大な門の外に、白く輝く横長のリムジンが停まっていた。白手袋の制服の人が後部座席を開ける。

 車を乗り換えた。なかには2人の女性が。一課長、椎名玲。秘書、藤崎しおり。
 椎名がそっと、

「……どう、謝罪すればいいかしら」

 らしくないなあ。
 ほほ笑んだ。あんなふうにはむりでも。

「いらないですよ。
 私はただ、退職の際の最後の仕事として、敬老会へ外回りに出されたってだけですから。いつものとおりお茶出しして帰ってきました」
「質問に答えてちょうだい。どう、謝罪すれば……」

 らしくない、本当に。

「いらないです。友だちでしょう?」

 ね、笑って?

「ありがとう。ほかに言葉がないわ……」

 応じてくれた。らしい笑みが浮かぶ。

「ちょっと質問してもいいですか?」
「どんなことでも」

 余裕、貫禄。やはりこうでなくては。

「その前に。堅苦しい言葉づかいはなし、じゃなかったかしら」
「ああ、えっと……こっちの言い方のほうが慣れていて……週末、忠弘といちおう、普通に会話……して、けっこう気を使った」
「あぁら、そうなの?」

 しおりって、気を使うことがあるんだろうか。
 ……かなり失礼か。

「えーっと……いまからはずっとだし。慣れようかな」
「ええ、あたしたちで慣れて。質問って?」

 いっぱいある。

「退職したいの。忠弘が今朝で会社を辞めてこいっていうから。
 途中で敬老会行きになって、うやむやになっちゃったの。椎名さん、頼みます……お願い!」

 拝んでみたら、椎名は余裕たっぷりに応じてくれた。

「はい了解よ。私のことは玲と呼んで。しおりはえんえん名字肩書で呼ぶのよね」

 しおりはまるで得意気。

「えっと、はい玲さん。忠弘はいまなにを?」
「引っ越し作業に従事してもらっているわ」

 やはりフランスはないか。

「少年に対し案内役が必要なのは、清子さんもおわかりのとおりよ」

 いままでたっぷり案内説明不足の認識はあるらしい。

「大丈夫よ。事情を知っているおにお願いしてあるわ、どれだけすばらしい男性かは私が保証します。さっきの敬老会……という言い方もないわねえ、のように」

 すばらしいのはけっこう、見知らぬ美女でなければいい。

「うん、信じている」
「ありがとう」

 社会に出て最初に知った心。

ありがとうといわれる仕事をしよう。

「さっき忠弘に連絡したら出なかったの。どうしたのかな?」

 いくら作業中でも、そろそろ着信に気づいていいころだ。

「少年は新居にいるわ。
 外装、内装、家具、備品、調度品に至るまで。少年の人脈でそろえられるものとのあまりの違いに、妻から連絡があっても出られないのではないかしら」
「えっと……」

 体面だ沽券だいう大人の男性に言い方としてどうか。

 連れこまれてから2週間近くたつ。あの家で困ったことはなかった。
 調理器具類はなかったものの、必要な物はそろえた。一間のアパートから引っ越した、十分広かった。ついさっきむかわされた巨大邸宅はもう縁がない、較べる意味もない。

「いろいろしてもらってありがたいけど、できれば普通の生活がしたいなあって……忠弘といられれば……」
「その気持ち、わからないでもないわ。私の大切な女性も同じだった。でもね。
 あなたは私から一本取ったあの瞬間。私たちの会社にきても、一課の男たちを見てもなんらひるまず普通に去ったあの日。
 もう人生が変わったのよ」
「……私は、忠弘にだけ変えられたい」
「あなたの夫の職場は、あなたの夫の才能を最大限に引き出せる環境かしら?」

 はいと即答すべきだった、社員なら。
 一番の得意先に、弊社は不安定な環境です。誰がいえる。
 実態は忠弘に愚痴をいったとおり、抑えていた。まだまだある。

さやも似たようなものだっただろう。

 忠弘も数々の不満があるはず。新入社員に必ず訪れる通過儀礼、以外のことが。

「違うわよねえ。
 先日私の部下、本社営業一課長補佐に少年と仕事の話をさせた。補佐から報告を受けた結果。
 あなたの夫には、私たちの会社にきてもらうわ」

 どう答えたらいいかわからなかった。

「私がこと仕事に関しては、少年の壮絶な過去すら無視するほどシビアであるとは、わかってもらえたわよねえ」
「はい」
「うん、よ」
「……えっと、仕事の話をされると」

 まるで一課長室内での緊迫した会話のよう。

「あら、そうね。とにかく聞いてちょうだい。
 私のシビアな目で。すなわち補佐のシビアな目で。少年を面接した。結果、採用することにしたの」

 そろそろ説明をお願いしますよ。

「案内役のからほぼ同じことを少年に伝えてもらっているわ。先日の面接結果が良好だった、わが社にこないか。
 少年は即答しているはずよ、イエスと。そう思うわね?」
「どうしてか、聞いていい?」
「ふ……半分以上はわかっているくせに」

 あやふやな憶測はしたくなかった。

「さっきのこともある。洗いざらい、まずは私のほうからしゃべるわ」

 逃げられないな。

「単純に、サラリーが上がる。ボーナスは業績によっては天井知らずよ、どう?」
「……まだ、あるんでしょう?」

 限られた桁数の金額に椎名が関心を持つだろうか。

「少年には一課にきてもらうわ。あなたが見た男たちと一緒に仕事するのよ。中途入社即本社営業一課配属。弊社史上、最初で最後よ。どう?」
「まだ、あるんでしょう?」

 しおりは美脚を組んで座っていた。

「弊社の営業課は三課体制なの。
 通常業務、営業としての業務ほぼすべてを三課で行うわ。一般的に、うちの営業といったら三課なの。
 入社に際してはわずか数%のせまき門をくぐって配属される。業績を挙げなくては本社にいられない。
 新入社員という新しい血を通年入れる。できない無能者はすぐに出される。主任補佐・主任・係長補佐・係長・課長補佐・課長。三課の役付の所属は二課よ。
 二課は、三課のなかでも優れた業績を残した者たちで構成される。平均年齢は高いわね。
 業績を残しつづけられなければ三課に逆戻り=馘なの。大会社所属というステイタスを得られて二課に昇格できたほどの、プライドの高い人間に降格は耐えられないから。ここの役付の所属はそのまま二課よ。
 一課は、本社支社のなかから入社2年以内に、とくに顕著な業績を残した者だけが特進できる。
 仕事を何年かやればある程度実績を残すのはあたりまえ。
 まったく知らない環境にいきなり入っていきなり特大な業績を残し、残しつづけなければだめ。一課に配属されて降格した者はいない。歴代そういう猛者が集う。
 激務の一課に、あなたの夫は突如配属になる。
 馬車馬のように働いてもらうわ。いつ帰宅できるかは少年の才覚次第。世界中をくまなく回ってもらうわ。もちろんその際は、あなたも同行する。
 三課を経ず一課配属。周囲の視線は厳しいわ。
 それでもやりとげる。そういう男だと信じているわね?」
「うん」

 しおりもほほ笑む。自信でできた表情。

「同じ即答を少年もしているわ。どれだけ逢えなくとも妻は、自分の才能を極限まで開花できる場に送りだしてくれると信じて」
「うん」
「そんな男と女は、守ってあげなくてはならないわ。
 あなたたちに引っ越しを強いたのは高慢なところにこい、じゃない。警護がしっかりしているからよ。マンション半径100mは私有地。なかに生鮮食料品店、クリーニング店があるわ。若干の消耗品もおいてある。家賃もすべてただよ。
 私有地内は自由に散歩できる。出ても、いらないといわれても警護の者たちが2桁つく。全員実戦経験者、プライベート・アーミーよ」
「そこまで……」

 殺意だらけだった大勢。

「そこまでしてもらわなくとも? あなたはずいぶん自分を過小評価しているのね。
 あなたの普通の仕事とはいつも極限、極上ね? それより少しでも下はない、でしょう。ノーとはいわせないわよ、見ればわかるわ。見抜けないと猛者の前に立てないのよ、返事はしなくてけっこう」

 あのとき、あきらかに話題をそらされていた。

「さっきの、見知らぬ老人のもとへ事前説明なくむかわせ、不穏当な者たちにいわれなき行為をさせた謝罪は、どうしてもしたい。
 少年には現在の職場を本日限りで退職してもらうわ。入社は4か月後。その間、ふたりきりで一緒に」
「えっ……」

 4か月って?

「結婚したとは聞いたわ。必然的に、結婚式・披露宴をしたいでしょう。招待状は一般的には3か月前にといわれているし、余裕はとったつもりよ。
 ふたりでのんびり新婚旅行したらいかがかしら。費用そのほかはすべて持つわ。どう?」

 2人から引っ越しまでは聞いていた。
 当時、辞めるつもりはなかった。誰より遅くまで居残って謝りつづけるものとばかり。
 一緒に疲れて帰る夫にごはんを作ろう、ほかは考えていなかった。
 全部、なにもかも変わったんだ。もう。

「忠弘が退職して、会社は……」
「弊社と老人の会社、単純に売り上げは倍増よ。ここまでしてあげて、それでもだめなら。
 とうにだめだったわ」

 厳しい、でもわかっている。だめなら淘汰されるだけ。

「現実は、いままで持っていた。あの会社にはましな人間が少なからずいる。そうでない主だった者たちはもういない。
 私と会長。あの老人の名にかけて。
 つぶしはしないわ」

 入社2年目の人間の領域ではなかった。

「式と披露宴の話に戻すわ。招待してくれるわよねえ?」
「……うん。でも」

 頼んだよ、渡辺君。

「でも?」

 椎名としおりの声が重なった。

「忠弘は、両親も血縁者もいないから、披露宴はしたくない。そこらの町の教会で式だけ挙げたい、友だちだけで、って」

 しおりが、

「結婚式の衣装、山本某が用意するの?」
「ううん、なにも……」

会社の危機的状況をなんとかしよう。あとのことはそれから。

 暗黙の了解があっただけ。

「世界最高のマリエを贈るわ。3か月後なら余裕よ。
 あたしと椎名課長の心意気、受け取ってくれるわね」
「うん」
「いい即答だわ」

 友だちの大切な心、受けた。

「新郎側の衣装には口を出さない。山本某に伝えて、あたしは世界最高の衣装をまとうからよろしくと。
 山本某のプライド、見せてもらう」
「うん」

 車が停まった。白手袋の男性がドアを開ける。

「さあ、仕事の話はここまでよ。約束の、結果報告を洗いざらいしゃべってもらうわ!」

 困ったなあ、

「ちょっとは手加減とか……」
「知ったことじゃないわ!」