最上級の牙を持つ、枯れた老人。

38 最上級の牙を持つ、枯れた老人。

 フロアに入って着席する前、

「おはよう、渡辺君」

 誰からもあいさつが返らない。
 考えたが、やめ。さっさとぱっぱと退職届を作成、総務課長に提出した。

「申し訳ありません、お世話になりました」

 周囲を見わたす。
 ぽかんとしていた。だらしない。
 なんと渡辺まで。そんなふうに育てた覚えはないよ?

「……加納君。か?」

 気の抜けた声は課長。

「? はい……あ、いいえ」
「やはり、別人か」
「いいえ、先週までは加納でした。週末、営業の山本さんと結婚しました。現在は山本清子です」
「えーーー?!」

 遅い。

「……きたまえ。ここでは話せない」

 なぜだろう。
 課長が席を立ち、応接室へむかう。追ってついていくしかなかった。

 下座に座る。

「……なにを、いおうか……先にいうべきか……」

 つきあっていられない。

「今日いますぐ退職します」
「君も社会人、無能じゃない。わかるだろう、今日きていま? どこの会社で通る」
「はい、通りません。ですが退職します、お給料はいりません」
「そういう問題じゃ」
「っっっぎょえぇえええ!!!」

 ……誰? 応接室の外からだ。

「っっや、山本ぉーーーーーーー!! いや山本さま!! こい、いや、おいでくださーーーーーーーい!!!」

 私のことかな?

「……じょ、常務?」

 総務課長も驚いていた。

「あ、あ、あの大会社の、いいいっっっっっちばんの、お偉い、あああーーーーーの、か、会長から、なんと直接のご連絡だーーーーーーー!! ぅぉおおおまえの説得によっては、とととと取引を、なななななんんんともとのとおり、10割に戻してやってもよくってよ、とととっとという、お知らせだぁああああ!!!」

 先が短いな。

「いますぐいけ、説得しろ、できるまで帰ってくるな!!! 会長はフランス郊外にいらっしゃるそうだ、経費で出すからファーストクラスに乗っていけ!! いや、いってらっっっしゃーーーーーい!!!」

 珍しい。経理は大丈夫か。

 って……忠弘、フランスへいっちゃうの?
 いやいや。これがおそらく一課長と秘書のコンタクトだろう。

「どっっっひえぇえええ!!!」

 別な大声が。辞めたけどこの会社、先が短いな。

「かっっっっっかか加納!! いや加納さま!! 総務の加納清子さまおいでくださーーーーーーーいいいいいい!!」

 お呼びだ。

「そちらがどう受け取ろうが私の意思は変わりません。いま退職しました。お世話になりました、さようなら」

 一礼後、さっさと応接室を出た。
 
 

 忠弘はもうフロア内にいなかった。

「先週まで加納で現在は山本清子、まいりました」

 誰と話せばいいのかな。

「ぅおおおお君が加納君か!!」

 ああ、この人と。

「違いますよ」
「いいいいいま、あああああの大会社に匹敵する、ここここれまた大会社の、あああーーーの創業者さまと会長が、お2人そろって汚い弊社においでくださり、君に用があるとのおおせだぁあああ!!!」
「日本語をお願いします」
「きききききみの対応によっては、あああああの大会社並の規模の取引をしてもよろしくってよ、とのことだ!! いいいいいいったい君は何者だぁあああ!!!」
「つい先刻までここの社員だった現在は専業主婦の山本清子です」

 フロアのドアが音をたてて開かれた。

「ほ。ほ。ほ。あなたが山本清子さん、ですかな?」

 しわがれた声。フロアによく響いた。

「はい」

 そうとうな高齢、ご敬老だ。
 背後にはものものしい雰囲気の大勢が。間違いなく初対面ですけど?

「お父さん、お願いです、帰りましょう」
「黙っとれ。山本さん。このじじいと、ちょいとおいでくださらんかのう」
「理由をお聞かせください」

 大勢はなにやらいいたげ。

「そう時間はとらせませんて。なに、このじじいのところに、たま~に入ってくる属目しょくもくの人がおりましての。彼女からちょいと聞いたんじゃ。興味がわきましての。
 つい、ほいほい家を出てきてもうた。30年ぶりじゃ。
 おいでくだされ。老い先短いじじいを助けてくださらんかのう」

 大勢はさらにいいたげ。

「夫が待っています。よくわかりませんがご敬老をむげにはできません。1時間だけなら」
「ほ。ほ。ほ。厳しいのぉ……せめて2時間!」
「1時間半で。これ以上は譲りません」
「ほ。ほ。ほ。このじじいと会話が成立する人と会うのはいつ以来か……負け申した。お時間きっかりに、お望みの場所にお帰ししましょう」
「二言はありませんか?」

 誰もどうでもいい。

「ありませんのお。といいたいところだが……。帰さなかったら?」
「帰宅するまでです」
「ほ。ほ。ほ。……あなたたちの後ろ盾はあの孺子こぞう、もとより手は出せん……が。しかたがないのお。
 お帰し申す。この言葉、信じてもらう以外はありません」

 さっぱりわけがわからないものの。
 帰す、二言はない。

「わかりました、まいりましょう。いま午前9時半ですね。午前11時きっかりにお願いします」
「厳しいのお……さて、時間がない。おいでくだされ」
「はい。その前に、私の席と更衣室によらせてください。退職のため私物を片づけます」

 きびすを返した。背後に感じるはっきりとした殺気。元自席へ。

 元同僚たちに頭を下げた。

「ごめんなさい、いま辞めました。お世話になりました」

 机を片づける。手鏡以外ほとんど私物はない、簡単な作業を終える。
 渡辺に、

 ありがと。楽しかったよ?

「……先輩!!」

 渡辺が起立した。

「おれは必ず、総務部長の椅子を奪います! 絶対に、先輩を追い越し総務の道をきわめてみせます!」

 むくわれた。

「渡辺君ならできるよ。結婚式にはきてくれる?」
「もちろん!!」

 任せたよ。全部、教えたからね?

「加納さん!」「加納!」「加納君!」
「山本君と結婚したの?」「おめでとう!」「あたしも!」「俺も!」「結婚式には呼んでね!!」

 元同僚が。総務畑の苦楽を、ともに闘った仲間が。

「……ありがと。じゃ、ね!」

 もう、ふりむかなかった。
 
 

 老人がいなかった。今度は筋骨隆々の、身長180cmをゆうに超える女性たちにとりかこまれる。
 気にせずフロアを出て更衣室へむかった。
 うち1人がじき横で、

「おいでください、先導します。
 ビルを出ましたら友禅に着替えていただきます。時間がありません、その衣服のままロッカーの荷物をお持ちになってください」

 あらら。せっかく秘書にもらったスーツが。出番ないなあ。

 更衣室に到着。さっさと荷物を整理、バッグに入れて鍵をつけたままにし、すぐに更衣室を出る。

 ビル出入り口で一度だけふりかえり、

「ありがとうございました!」
 
 

 移動のため乗せられた車は白く輝くリムジンではなかった。
 車内は畳敷き。十二畳ほどか、まるで日本家屋内の和室のよう。
 車内へはさっきまでの女性たちは誰も入らず。別の、品のいい、背がぴんと伸びた老婦人が正座していた。

「お世話いたします。衣服をお脱ぎになってくださいませ」

 また脱げだ。

「私はもう、裸を夫にしか見せません」

 バッグだけは畳のうえにおく。老婦人が美しい、完璧な所作で頭を上げ、

「私めには、あなたさまの意思を曲げる権限はありません。ただ和服に着替えさせよとのみ……襦袢をいまから申し上げるとおりに着ていただけますか? 私めは後ろをむいておりますので」

 なるほど。

 着替える必要がどうしてあるかはわからないが、約束はした。
 老婦人に背をむけず脱ぐ。着慣れた、もう着ることはない制服。きちんと畳んでバッグの横においた。
 番いのタグが首もとでゆれる。忠弘はいまどうしているだろう。

「着ましたよ」

 あとは任せて着つけてもらった。

「留袖はないですか?」
「申し訳ありません、振り袖しかありません」
「はあ……」

 赤い蝶が映える派手はでしさ。こんなのを着てあの老人に会えと? なにかの間違いじゃないのか。いったい私はどうなることやら。

 重厚なざぶとんをすすめられ、

「お休みください」

 立ったままもなんだ、座る。煎茶が出た。
 コーヒーと同様、日本茶の類いにも執着がある。口をつけた。

 うまい! なごむなあ……。

 このあとはどうなるか。
 待てよ、一課長と秘書からコンタクトがあるはず。そうだ、携帯電話は?

 バッグをおいた場所に目をやる。なにもない。畳だけ。
 老婦人のほかに誰かがいる?

「えっと、私の荷物はどこへいったのでしょう。ちょっと連絡をとりたいのです」
「申し訳ありません。あなたさまはさきほどの契約により、本日午前11時までさまのものですので……」
「私は誰とも契約していません、敬老精神をちょっと出したまでです。私は夫のものです、ほかではありません。そのようなおおせなら帰ります」

 よっこいしょ、立ちあがった。

「そ! そのような……申し訳ありません、私めにそのような権限は……」
「だったら権限がある人に連絡してください。でないとこの服いますぐ脱ぎますよ」
「お、お待ちください!!」

 帯に手をやると、老婦人が即座に退室した。
 乗っている車に、運転席と畳部屋以外にも別な空間があるらしい。たいして時間もかからず老婦人がバッグを持ってきて差し出す。

「どうか……これ以上は、なにもおっしゃらず……」
「できませんね」