出社前。

37 出社前。

 一緒にお風呂。

「風俗店をどう思いますか」
「勉強不足で存じません」

 脱衣場で、

「風邪をひかないように髪をかわかしてね」
「うん。さぁやもだぞ」

 さっぱりしたあと、忠弘のシャツを着たくなった。

「俺を試すな。美乳で乳首が浮くんだ、襲われたいのか?」
「うん。最初から、連れこまれた日から襲われたかったよ」
「同情させる暇があったら襲うんだった」

 シャツのボタンをとめずに料理を開始。

「……料理中襲えといいたいんだな」

 忠弘が真っ裸で後ろから抱きしめる。

「明日が休みなら襲っていいかも」
「いま襲う」
「今日はだめ、もう月曜日だよ」

 余裕で料理。昨日の自分は偉かった。

「……出社の馬鹿野郎」
「コーヒーも淹れるんだからね」
「俺ならいつも挿れる」
「今日はだめなの、座って待っていて」
「……またか」

 風呂場で襲えなかったのが不満らしい。

「仕事中どうやってがまんするの?」
「……まるで自信がない」

 今日は一緒に出社という一大イベントがある。もう時間だ、話を変えよう。

「お魚に好き嫌いある?」
「まるでない。さぁやとさぁやの手料理はなんでも食う」
「うん、好き嫌いがないのはいいよね」

 この男、サンマとサバの違いを知っているだろうか。
 ……知らなさそ。

「あ、そうだ」
「なんだ。脅しはなしだぞ。怒るなよ」

 過敏になっている。

「お料理の本が欲しいな。書店で買ってきて」
「……すまない。料理はまるでわからない」

 確かに、車の本を買えといわれればわからない。
 思い直して提案した。

「一緒に書店へいこう。一緒ならいいでしょう。私、忠弘しか見ないよ」
「ネットで注文してくれ。さぁやは見なくても、ほかがさぁやを見るんだ」

 後半はないですよ。

「アダルトグッズを注文したらまず俺に見せろ。俺が挿れてやる」

 あやしげな。絶対あとで聞いてやる。

「しません。忠弘じゃないと感じないの」
「……うれしくて反論できない」

 困った夫だ。

「へんな道具の話はやめて。忠弘じゃないといやなの。あんな格好、忠弘にだけ見せるんだから」

 なんたら体位とはいったい誰が考えたのだろう。変えればいいってものじゃないのに。苦しいほうが多過ぎるのに。

「縄とか拘束具で縛るというのは……」
「一緒に出社やめようかな」
「脅すな!」

 楽しく会話しているうち、わびしい大量な朝食のできあがり。テーブルに運んで、いただきますをふたりで一緒に。
 喜色満面でがつがつ食べる忠弘がにこやかに、

「いつ女体盛りしてくれる?」

 ゆっくり食べた。

「月曜日の朝から元気だね。毎日電話で平謝りか、外回りで平謝りだよ。忠弘が全権を委任されたっていうんなら、一番さいごにしか帰れないよ」

 心はすでに労働者。

「……気づかないふりをしたい」
「私は家事して待っています」

 私ずいぶん、主婦している?

「目隠しして致すと、より感じるのでは……」

 反撃してやろう。

「どうしてそういう単語はぽろぽろ出て、すけべな下着だと鼻血なの?」
「……やめてくれ。沽券に関わる」

 空けられた丼にご飯とおみそ汁を盛った。

「あ! そうだ」

 レースのカーテン越し、外の樹木の囲いに小鳥がとまっているのが見えた。
 眼鏡を変えたときでも見えなかったのに。裸眼はいい。ちょっとゲームは控えようか。

「……なんだ。あれもこれもだめだぞ」
「ほら、日本一の店リスト。見て?」

 忠弘の仕事に関係があるかもしれない。役立ってくれるなら。

「ああ……俺によこせ」
「うん。私の携帯電話をあげる、忠弘がやって」

 食っていろと一言残し、リビングを出た。
 すぐに戻ってきたとき、忠弘はもう携帯電話を操作していた。

「……やはりな」
「なに?」

 2つの携帯電話をおいて食事を再開。

「住所はあるが連絡先がない店がある。メッセージのさいごの注意書きに、ここに連絡をとりたい場合はあたし……あの秘書か、にまず連絡しろとある。どういう意味かわかるか」
「? わからない」

 リストはざっとしか見なかった。車を筆頭に興味のない分野の店がほとんどだった。

「日本一というがな。
 その分野に日本一こだわる、日本一変人ということだ。気に入った、ごくわずかな者の言葉しか耳に入れない。ほかは会おうとも、話そうともしない者が多いんだ。いかな秘書、一課長といえども、さらに上の人脈に頼らなければ会話もできない」
「ふうん……難しいね」

 わりと人脈広くてよ。職権濫用って言葉が大好き。
 豪語する2人をしてさらに上の人脈とは。想像できない。

「……1つだけか」
「なにが?」
「俺の人脈で探しあてた店がのっている。あの喫茶店だ」
「……じゃ、あの豆……!?」

 リストに喫茶店名もあった。豆は忠弘の買ってくれたのが一番、わざと読み飛ばした。忠弘から店名を聞いていない。

「そうらしい」
「じゃ、じゃあ……」
「どうした?」

 子どものころから躾けられ、コーヒーについては並々ならぬ執着がある。
 喫茶店へいって、実際にコーヒーを淹れるところを見たい。沸騰した湯をコンロからあげるタイミング。挽いた豆に湯を注ぐ量、経過時間、タイミング。蒸らす時間。
 プロの技を研究したい。

 忠弘と一緒でもでかけられない。
 待て、言い方を考えよう。仕事の基本だ。

「その喫茶店へ、忠弘と一緒にコーヒーを飲みにいきたいな」

 恋人同士が喫茶店で一緒にお茶、定番だ。

「やめてくれ。俺はもうさぁやのコーヒーしか飲まん。店のどの客を勃たせる気だ」

 今日は3人で飲む日。一課長と秘書に頼もうか。

「ごちそうさま。洗い物は帰ってから私がするね」
「ありがとう」

 一緒に歯みがき。忠弘がひげをそる隣でお化粧。

「……素顔もきれいだが……なんとなく、化粧の質すら違うような。気のせいか?」

 いい着眼点だ。
 気分がよくなる。アクセサリー、服、化粧品についてはあのリストをきちんと見た。

「お化粧品は丸ごと空輸の世界一高いので、あとで私専用のがくるんだって。メイクは日本一のかたに直接教わった」

 恋するとひとはきれいになるという。
 いわれるとうれしいんだなあ。上機嫌でぱたぱた。
 われながらお肌つるつる、のりもいい。

「やめろ。洗い落とせ」
「どうして」

 クレンジング多用はお肌に負担、やらないぞ。

「どうしてじゃない。俺は嫉妬深い、俺だけ勃たせろ」
「うん、忠弘に勃ってほしくてお化粧している」

 さらにはあのミニなスーツを着て。惚れた男にうっとりみてもらいたい。

「……さぁやは俺を試したい。あおって誘って挑発したいんだな」
「うん」
「いますぐ致すぞ」
「ほかに考えることがないの?」
「ほかに考えることがあるのか」
「今日しか一緒に出社できないってわかっているのに?」
「……出社の馬鹿野郎」

 真っ裸の忠弘と別々の部屋でスーツに着替えた。忠弘は泣いていた。

 シャツを脱いでそっとおく。はじめての高級スーツ、の前に下着。
 ガーターベルトとは慣れるまで着けるのに手間どる。ガーターとストッキングのあとにショーツを穿けばよかった。さいごにぱんつだと恥ずかしいところがすうすう。つい、ショーツを先に穿いて逆にやってしまった。
 一から着直していると寝室の扉が開いた。顔をあげる。

 忠弘が豪快に鼻血をふいた。

「?!」

 鼻を抑えても、大きな手からとめどなく鼻血がふきもれしたたる。
 忠弘が、無言で立ち去り風呂場方向へ消えた。

 なに。
 なにがおこった。

 待て、考えろ。
 興奮した? まさか。ちょっとすけべではしたない下着が中途半端、ショーツがふとももどまりで下が丸見えというだけではないか。おっぱいと乳首もみえたかな。
 実家では黒で、刺激がたりないかと真っ赤なガーターにしてあげただけなのに。
 いま、今日しかチャンスはない。初夜はロマンティックに、という夢は行いが悪すぎてついえた。ふたりの夢、一緒にキスマークつきで出社ぐらいは気分を盛りあげロマンティックにかなえたかっただけなのに。

 いまできることをしよう。急いで着替えて血をふく。
 かわいた雑巾数枚とお湯を入れたバケツを持って寝室に戻った。
 畳の部屋でなくてよかった。なんとかフローリングと扉、壁にだけ飛び散ってくれた。
 ふきにくい、量も多い。まさかこんな土壇場になってよごれがとれない失血死がどうのになるなんて。

 なんとか掃除をおえた。時間は08:20。

「た、タクシー!」

 会社まで車で10分。タクシーがくるまでの時間、会社へいっても制服に着替えなければいけない、ほぼアウト。急いで連絡した。

「忠弘! タクシーがきたから乗って! 時間がないから急いで!」

 風呂場の引き戸越しに伝えるしかなかった。
 
 

 一足先に家を出た。いつもよりさらに重い足どりで忠弘が続く。後ろをふりかえって顔をじろじろみられない。

 タクシーにふたりで乗る。

 隣の忠弘。顔面に血はないようだが、目を閉じて、うつむき姿勢で鼻翼を押さえている。
 ティッシュを鼻につめていない。
 やったらしおりがどこからか突然わいて出てきて嬉々として記念写真を撮って世界中にシェアだ、絶対。
 忠弘もうすうす気づいている。必死でなんとかしようとしている、思いが切々と伝わってくる。

 一緒にらぶらぶキスマークつき出社の夢が……。

 忠弘が死ぬほどつけた肝心のキスマーク。
 化粧のとき鏡でみた。首に皮疹でもできたかという状態。かゆそう痛そうかわいそう。自分があわれだった。

 キスマークはひとつだけ、ほんのり色が変わる程度がいいのに。まわりも大人、うわあやったな。内心で思わせればいいだけなのに。
 誰にも同情されておわり。

 休日の二日とちょっとは予想以上に激しすぎた。
 忠弘は総務の上司を説得できない。いや、帰したほうがいいのでは?

 タクシーが会社に着く。
 忠弘は、らぶらぶ手をつないで出社という余裕もないもよう。支払いだけして先に降りる。ビジネスバッグと弁当箱をひっつかみ、ひとりビル内へ消えた。
 人の目がある、なんとか鼻を抑えず前を見て歩いていた。
 背中で、

さぁや、すまない。いまはなにもいわないで。

 しかたがない。
 退職届を提出して今日辞めますすみません、認めてもらえなくとももう出社しません、お給料はいりません、に予定変更。
 あとは一課長と秘書からなにかしらコンタクトがあるだろう、従えばいい。