星空を見つづけた男。

30 星空を見つづけた男。

「……なんですって」

 静かな怒声、忿怒形相
 涙のまま、

「ふたりで住んでいるので。……休みの前、金曜日の夜に言います」

 だって。いま言っちゃったら、あの男。いますぐここで致そう、とか言うんだもの。仕事中だよ? いま。
 だから。ふたりきりのときに、ね。

 しおりが笑った。声をあげて。奇声に近かった。

「きゃはははは! 椎名課長が一本取られた、初めて見たわ!!」

 椎名が苦笑いで、

「……負けたわ。ふ……」

 一瞬、目を閉じて。すっと顔をあげた。

「加納さん。御社と取引を再開、継続します。ただしもとの量の6割で、単価も下げてもらうわ」
「……え?」

 急に仕事の話になって驚いた。

「少年がどれだけの過去を抱えていようと、仕事とは関係ない。取引を再開する気はみじんもなかった。同じ補佐もいまごろ少年の説得をのらりくらりとかわしているはずよ。
 あなたの返答次第だった。最高の即答よ」

 しおりが繊細なレースのハンカチをとりだす。

「あげる」

 椎名が、

「もとどおりの10割とはいかないわ。いかな私とてむり、会長に言い訳できないから。
 ご不満な点は?」

 いただいた品を存分に使い、質問した。

「全社員が侮辱を受けるという、大会社の体面は」
「いったん殺して値を下げた。上層部は辞任。
 なによりあなたがすばらしかった。十分よ、全社員が納得するわ。ほかには?」

 プライバシーは決して他言しない。にっこり笑う椎名。

「私は不滅の平社員です。御社のような大会社と取引再開できたのは私の情けない返答が原因だと知られたくありません。
 あの人が説得したからということにしてください」

 美女がにっこり、

「内助の功?」
「違います。こんな重大事項を決定した責任を私は負いかねるからです。あの人に押しつけただけです」

 椎名が、

「最高の即答ね。ぜひ弊社においでいただけないかしら」
「お断りします。あの人と同じ会社にいたいです」
「まあ。何度最高の即答をいただけるのかしら」

 椎名としおりはゆっくりと、豪奢な部屋を見わたした。

「とても興味があるわ。仕事ではおつきあいいただけないようだから、個人的にお友だちになりましょう」

 椎名が携帯電話の画面をみせる。さっき名刺交換した仕事用のものではない、プライベート用、個人情報満載。みせた回数はごくわずかだそう。

「あたしも、当然よね」

 しおりも同様にみせてくれた。

「いますぐ登録して、あなたのも教えて。でないとここから出さないわよ」
「あの人も同じように脅していました。少々お待ちください」

 せっせと登録した。

「ちょっとぉ清子。いつのまにか堅苦しい言葉づかいになっているじゃない。あたしたち友だちよ?」
「いまでもあの人と、こういう言葉づかいで会話しておりますので。月曜日以降に」
「本当に最高の即答ばかりね。椎名課長、あたしたちの友だちの人生、変えてあげましょう?」
「あの人に逢って変わりました」

 あのとき、きっと。

「仕事でもなんでも、困ったこと、いいたいことがあったらぜひ連絡をちょうだい。あなたとしゃべっている女性2人はそう無能じゃない。わりと人脈広くてよ」

 3人、それぞれ登録作業をおえた。

「ありがとうございます。あの人に逢いたいです」

 立ちあがり、深々と頭を下げた。

「そのとおりに。ちょっと待ってね」

 椎名も立ちあがってデスクへむかい誰かに連絡した。

「私よ。6割で」

 一言だけですぐに戻ってくる。

「さあ、少年のもとへ帰って。私があのフロアへいくと毎度あんなあいさつを受けるのよ。何度やめてといっても聞いてくれなくて。
 しおり。お願いするわね?」

 椎名の視線を受けて、脚を組み深々と座っていたしおりが悩ましく立ちあがった。

「椎名課長がいうなら、なんでも。あーあたし、下階に降りたことないわ」

 出退社時はどこから出入りしているのだろう。まさか屋上からヘリコプターを使っているとか。
 美女とともに豪奢な執務室を出た。守衛たちが愚直で完璧な敬礼をささげる。

 2人で下階へ降りると、覚えがあった。さきほどの営業一課のフロア。
 ここの守衛も敬礼で迎える。ぺこりと目礼した。美しいガラスの自動扉が開く。

 入室してきた人物を見て、歴戦の男たちは色めいた。

「これはこれは藤崎係長……こんなむさくるしいところに降りてくるとは」

 美女、大注目。

「当然でしょう、あたしの大切な友だちのためだもの。後ろにいる女性よ、加納清子。
 死んでも忘れないことね」

 戦士が一斉に立ちあがった。

 見据えた先、奥に深々と。
 声はない。聞こえないはずの気迫、心。確かに届く。

「山本某はどこ?」

 しおりの一声で戦士が一斉に頭を上げた。

「あちらに。補佐のもとにおります、連れてきましょう」
「誰にいっているのよ、控えてちょうだい」

 戦士が一斉に着席した。
 つくりものの映像でさえ見たことがない。そろう行動一つひとつがずしりと重い、骨まで響く。

 しおりについていき、ふたたび最大の被害者である課長補佐とむかいあった。深く頭を下げる。

「話はおわった?」

 忠弘に視線を投げられない。

「ようこそ藤崎係長、声をかけていただけるとは光栄ですな。
 ええ、いましがた。山本君の熱意に折れて、ついもとの6割でなどと申してしまいました。椎名課長に叱られますな」
「せいぜい泣いてちょうだい、リムジンを用意して」
「おおせのままに」

 しおりが、

「山本某、清子と一緒に帰って。ていねいに送り届けるのよ、ついていらっしゃい」

 どこかに連絡する補佐へ、もう一度ふたりで頭を下げてフロアをあとにした。
 
 

 1階に着く。
 美女が降り立ち、周囲からの注目度は抜群。驚愕、仰天、称賛。魂の抜けたような嘆息の嵐。

 誰も、無礼を働いた会社の者かと見下す視線をむけなかった。

 エントランスホールを歩く。総ガラス張りのエントランスにも守衛がずらり、愚直で完璧な敬礼をささげる。
 ビルの外へ出るとすぐのところに、横長に大きく輝く真っ白な車が停まっていた。どこから現れたか、白手袋をはめた制服の人がすっと後部座席を開ける。

 しおりが大きいドア前で歩みをとめた。悩ましく腰をきゅっとひねってふりむく。
 芳容所作行動、美女すぎてまさに。感嘆の連続だ。

「じゃね清子。あとで結果報告をちょうだい」
「えーっと。はい」

 言葉に押され、先に。車内は重厚な本革シート。なにここ、広すぎる。
 後ろに忠弘がいた、奥にひとまず座る。ふたりで乗った。

 白手袋をはめた制服の人が重いドアを閉める。広い室内は完全な密室になり、ゆっくりと動きはじめた。

 車窓の外ではしおりが悩ましい笑顔を浮かべて手をふって見送っていた。つられて手をふった。忠弘がしおりに対し目礼する。
 見える限りずっと、しおりに手をふった。車が角を曲がり、見えなくなると、名残惜しくも姿勢を戻して座った。

 深いふかい息をつく。
 前をむいたままの忠弘が静かに口を開いた。

「さや。なにかいいたいことは」
「……えー、っと」

 いっぱいありすぎる。説明、なぜ、誰がどうして。

 ぴったり隣同士。ほのかに香るにおい。密室だ。……いけない、いまは仕事中。
 考えを切り替えた。もうあの場所へいくことはない。現実に戻れ。戻れもどれ。いつものとおり、普通に仕事。

「……えー。さすがに気になります、そちらさんの成果はいかがでしたでしょう」

 声、大丈夫かな。ちゃんと戻っている?

「あの大会社へ出向くまで即日倒産以外の道はなかった、成果は重畳だ。もとの売上量の6割を確保してもらった」

 覚悟を決めた声。
 のらりくらりとかわされつづけた忠弘の心理的疲労、負担はどれほどだったか。

「だがそれだけだ。
 取引先にまったく事実説明ができなかった。失った信頼を回復する道のりは容易ではない。売り上げが激減した事実に変わりはない。確実に、手を引く取引先が出るだろう。
 リストラはまぬがれない」

 逃れられない現実。毎日聞く倒産話、リストラ、悲哀。
 明日、いや、今日はわが身。

「帰社後ただちに社員一同を集め事実のすべてを説明する。
 全社員が取引先へ対応、謝罪。しばらくは誰も通常業務ができない、混乱がいつおさまるかもわからない。
 経営者は総退陣だ。順からいって次期社長は常務かもしれないが、采配をふったことはない。
 奈落の底に突き堕とされたらもうこれ以下はない、開き直るしか打開の道はない。人間、誰からも手のひらを返され見捨てられたとき真価を問われる。
 さや。一緒に生きよう。俺と」

 前をむいた。

「俺とてさやの仕事に口を出したくないが、さすがに気になる。一課長と一緒にいったようだが、なにがあったのだろうか」
「……えっ、と」

 すべての応えは金曜日の夜。

「なんというか……とにかく、仕事の話はしませんでした。さっきの美女にいたりましては、あちらさんから唐突に恋愛話などをされまして。かなり理解できない内容でした。口外してはいけないひとさまのプライバシーです、ご勘弁ください」
「わかった。疲れただろう。せめてこの、よくわからんが大きい車内で休んでくれ。会社に戻れば休みはない」
「はい」

 目を閉じた。これからだ、休みはない。
 
 

 ほどなくしてリムジンが停まる。後部座席が開き、ふたりで降りる。ふりむく暇もなく帰社。
 忠弘は現在当社の代表、常務取締役のもとへむかった。

 総務に戻る。社員は不安と疲労でにじんだ顔をしていた。

「どうだった?!」

 重なりあう一言目は当然の質問。まず上司、総務課長にむかって報告した。

「営業の山本さんが社員一同を集めてこれから事実を説明するそうです。私はやはり添え物で、内容はまったくわかりません。なんの役にも立ちませんでした」
「そうか」

 聞いていたまわりも、やはりか。なんのために加納さんが? まあいい、事実を知る者の言葉を聞こう。そういう雰囲気。
 自席に座る。隣の渡辺が、

「お疲れさまです先輩。全開で信じています、あとで飲みましょう」
「うん」

 ほどなく常務が全社員を集め、忠弘が事実を説明する。
 すべてを話しおえる前に、ほぼすべての社員から動揺、困惑の声が広がった。
 忠弘が、

「たかが一杯の茶というならいますぐ退職届を書いてもらおう。どうしてこの事態になったか理解できない者に退職金は出ない、ちょうどいい」

 鳴らなくなった電話を待つのではなく、こちらから連絡を。取引先に説明、謝罪。忠弘の指示で、全員が汗だくの最優先業務をこなした。

 定時となっても帰宅できなかった。どれだけ手当の出ない残業をしつづけなければいけないか。
 総務課長に呼ばれた。

「加納君、あの大会社からご指名だ。私服に着替えて荷物を持ち、ただちにこちらにこいとの厳命だ。すぐにいきたまえ」

「? はい」

 立ちあがって返事したものの意味不明。総務の社員も疑問符を浮かべる。

「私だろうと誰だろうと口外無用の極秘任務だ、完璧に遂行するまで帰社は許さないとのおおせだ。
 あの大会社の機嫌をそこねるわけにはいかない、すべてむこうのいうとおりにしたまえ。
 前回も今回もなぜ君なのかまったくわからないが、こうなれば君の双肩に当社の命運をす。決して失礼のないように」
「はい」

 従うほかない。
 疲労が蓄積する同僚に目礼しフロアを出る。誰もいない更衣室でひとり着替え、バッグを持って出た。