挑む男。

29 挑む男。

 ガラス扉のむこうで待っていた守衛が先導する。さっきのエレベーターに乗った。
 椎名が、

「緊張している?」
「はい」

 正直に答えた。
 もう二度とこないだろう、こんなところ。慣れない、ひさびさの外回りがいきなりだ。

「私もこのエレベーターに初めて乗って初めてあの部屋に入ったときは緊張したわ。私の大切な人たちがいたから」

 よくわからない。

 きた以上は弊社を代表している、余計な一言が命とり。意味は聞かなかった。
 重厚な部屋に戻り、着席をすすめる椎名。テーブルにカップはもうなかった。
 椎名がどこかへ連絡していた。

「しおり、紅茶を3つ運んで」

 意味不明。

 なぜ椎名と2人でいるのかくらいはさすがに知りたい。だが聞いていいものやら。
 ほどなく扉が開く。さっきの美女が漆器の高級な盆にティーカップをのせて再登場。

 3つ? あとの1人分は誰のだろう。忠弘? まさか、すぐにはこられないはず。

 テーブルに2つ並ぶ。所作完璧、なんといい会社だろう。
 美女が盆をデスクにおき、のこり1人分のティーカップを手にやってくる。上座の、椎名の隣のソファーの背もたれ、頭が位置するところに腰をかけた。悩ましい美脚を組み、紅茶を飲む。そのさま、まさに魔性。
 すすめられて紅茶をいただいた。おいしい。
 ソファーに座った椎名が、

「さっそく、本題よ」

 きたか。土下座では満足しないらしい、なにをどうすれば謝罪になるか。
 待てよ、さっきは前置き。本題とはいわなかった。

「ここは社内、いまは仕事中だけれども。そんなの、忘れてちょうだい。
 いまは女性しかいないわ。ずばり、プライベートを話しましょう」

 なんのことだ、唐突な。
 謝れ、が本題じゃないのか? 本当によくわからない。

「そろそろ、質問があってもいいんじゃなくて?」
「なぜ私を呼んだのでしょう」

 率直に聞いた。
 謝らせてくれるのなら気の済むまでしよう。できれば椎名とさきほどの、被害者である課長補佐の前で。
 あの場から離し、わざわざここに連れてきた意味は?

「C社の知人は山本君の熱意に、ではなく、あなたの仕事ぶりに感動してこちらに土下座しにきたからよ」
「感動されることはなにもしていません。普通の仕事しかできません」
「そう? まあ、仕事の話になっているわ。やめやめ。仕事はなしよ、忘れてちょうだい」

 仕事が本題、謝罪以外にあるのか。

「どうして仕事抜きで私を呼んだのでしょう」
「もちろん、C社の知人がいうには、山本君はあなたが好きだからよ」

 なにを唐突な。
 まさかプライベートが本題?

「なぜもちろんかわかりません」
「あなたたちを拒絶せず呼んだ理由、この目でみて確かめたかった。
 会った結論。あなたは山本君が好きね?」

 当人にさえ言っていない、今日会ったばかりの人にどう答えろと。

「答えなければ取引停止ですか」
「いいえ、今回の本題に仕事は一切関係ないわ。その答えだと告白していないわね」
「なぜそう思いますか」
「していれば堂々と言ったわよ。違って?」
「お答えしかねます」
「山本君はあなたが好き。両想いでしょう、どうして告白しないの?」
「お答えしかねます」

 美女が口をはさんだ。腰をきゅっとひねってむくさままで魔性。

「ちょっとお。女性ばかりの空間で、つれなさすぎるんじゃないの?」

 なんたる美声、アナウンサーかウグイス嬢経験者か。

「はあ」

 ぽかんとして、仕事にも取引停止にも関係ないなら。つい相づちを打った。

「あ、そうそう。自己紹介。あたし、藤崎しおり」

 ゲーマーはわかる、どこかで聞いたような。

「しおりでけっこう。あなたは?」
「加納清子です」
「じゃ清子、まずはあたしの恋愛話を聞いてよ」
「はあ?」

 また唐突な。

「なにせあたしは美女だから、政財スポーツ芸能界にセフレ多数。当然よねえ、人はあたしに貢ぐために存在するわ」

 唐突にすごすぎて話のすべてが飛び抜けている。驚きの連続とはよくいったものだ、これが大会社か。

「セフレの1人とリムジンで遊んでいたとき、ふと外を見たの。
 あの人がいた」

 しおりは胸もとから大切そうになにかをとりだした。写真だ、すり切れている。フィルムで撮ったらしい、見せられた。

「どう? やぼなさえないぽっちゃり中年でしょ?」

 失礼ながらうなずいた。

「笑顔がよかったの。打算がない、駆け引きもない。素の笑み」

 写真をていねいに胸もとに戻すしおり。

「あたし、こんなでしょう。人とはいいよる存在だった。誰もが卑しい下心で近づいてきた。一発やらせろって全員顔にかいてあったわ、ほかを知らなかった。でもあのとき。
 恋に落ちたの。ひとめで」

 連れこまれてから毎日迫られていても、想像できなかった。

「すぐにリムジンを降りて、あの人もとへむかった。保育所に勤めていたのね、保育士さんなの。子どもを抱いているあの人に好きだって。結婚してちょうだいってお願いした」

 初恋したての少女のように淡く頰を染めて語る美女。

「あの人は驚いていたわ。
 問答無用でアパートに連れていって押し倒した。裸になって、どう、こんな美女と結婚できるのよ、うんといいなさいとまたがったわ」

 すごすぎる。

「あの人は、考えられません、って。
 かまわなかった。きっとあたしの魅力に落ちてくれる。自信満々だったの」

 相手は大丈夫か。

「しつづければきっと落ちてくれる。
 でもあの人は萎縮しつづけた。迷惑そうな顔で。素の笑みを一度も浮かべてくれず。泣き顔で、ただなえていくだけだった。
 解放してあげればあの笑顔が見られる。そう思わざるを得なかった。しかたがなく出ていかせた。こそこそあとをついていった。
 あの保育所にむかっていた。歓迎されていたわ。
 すぐに素の笑みが戻って。……あの笑顔を見ると、想うといまでも濡れるわ」

 恋とは深い、いろいろあるんだなあ。

「あとはもう、ただ外から見守るしかなかった。あの人に、誰かが近づいても。その人にだけ、もっと輝く笑顔を見せても。
 現在は3つ子の、3児の親よ。
 あの人にしか恋できない。感じない。
 セフレとは全部別れた。あの人以外なんとも思わなくなった。やけになって会社を辞めようとしたとき、椎名課長がこの部屋の主になった。
 当時、秘書課の係長だった。副社長以上じゃないと相手にしない肩書なの。
 でも一番上の会長に命じられて、しかたがなく下に降りた」

 しおりは表情も口調もがらりと変えた。まるで椎名をにらみつけるかのように、

「椎名課長に逢った。惚れたわ」

 椎名はくすっと笑っていた。

「あたしが唯一膝を折る人物だ。すぐにわかった。
 いまのあたしにはなんの肩書もないの、どこの課にも属していない。営業一課長秘書でもないわ、椎名課長はもっともっと上の肩書をるから」

 自信。誇り。
 しおりだけではない。すれちがった社員、守衛、一課の戦士たち、椎名。

「やめてよ、もう」

 椎名は照れていたようだった。

「どう? これがあたしの恋愛話。清子のも聞きたいわ」

 しおりは紅茶をすべて飲むと、立ちあがって重厚なテーブルにおき、椎名の隣のソファーに座った。本革が多少は沈むが重さを感じない。
 悩まい美脚を組む。見ための美しさだけではない、中身も美女。ねらって落ちない人はいないだろう。

 確かに聞いてしまったが、聞かされただけのような。
 椎名が、

「こんなことをいうしおりはね。
 本命のお相手のこと、私にも話したことがないのよ。写真があったとはね、いま知ったわ」

 しおりはまるで得意気。椎名も残念そうにはしていない。
 実質は秘書だろうから、部下と上司に違いない。2人のあいだには、単なる上下関係とは違うなにかがあった。

「どうして惚れているのに告白しないの? 惚れた相手を見つける。両想いになる。
 どれだけ奇跡かわからないの?」

 わからないとはいわない。

「美醜は関係ないわ。年齢も、体の相性も。
 見つけ受け入れてもらえる以上の幸せはないわ。どうして想いを遂げないの? さっきの山本某、清子にべた惚れだったじゃない」
「やまもとぼう、って……」

 忠弘のことらしいがなんという言い方。美女がいうと失礼には聞こえないから不思議だ。

「べた惚れって、あの人はさっきなにも」

 肝心の、社運を賭けた謝罪さえこの場ではできなかったのに。

「やまほどまたいできたわよ、見ればわかるのよ」

 すごい表現ですごいことを自信満々に。

「両想いでうらやましいのにお答えいたしかねますとはね、好きと言っていない証拠じゃない。山本某を失いたいの?」
「そのうち山本某は私にあきて捨てるので」
「そうは見えないわ、うらやましいほど清子に惚れている。見るからに愛情多過よ」
「……なぜ、わかるんですか」

 問いはしたものの、わかるのだろう、飛び抜けたすごすぎる美女は。会話を始めて10分そこそこでも、もうわかった。

「ですかじゃなくてなんでわかるの? よ。山本某は清子に好きすきって言いまくっているわね? どれだけうらやましいか。あーもう!」
「そのうち熱が冷めますよ」
「どこまでいっているの? 公園まで、じゃないわよ」

 ふたりでする営みのことらしい。

「えー。……一歩手前まで」

 なぜ、プライバシーの最たることを口にしたのか。あとあとまで気づかなかった。

「ええ?! 挿れていないわけ?!」
「あまり露骨な表現は……まあ、そうです」
「ですじゃないわよ。場所はどこ? 会社? ラブホ?」
「はあ。山本某の自宅で」
「連れこまれて?」
「はあ。連れこまれて、結局同居して」
「惚れた女と同棲して一歩手前? 山本某って不能なの?」
「あれは違うのではないかと……」
「じゃ咥えまくっているのにやらせてあげないの? どうなっているのいったい」
「はあ」
「はあじゃないわよ。男の純情をもてあそぶとはひどいじゃない」
「いや……それじゃまるで、好きでもない男に迫られているだけの私が悪者じゃ」
「好きなくせに。山本某の隣で濡れていたでしょ? 違うとはいわせないわよ、身体検査してやる」
「いやあの……」

 本当にされそう。

「まさか。好きって言ったら、やらせたらもう用なしでさようなら。とか思っていないでしょうね」
「はあ、まさにそのとおりで」
「山本某はそんな男じゃないわよ」
「よくご存じで」

 美人が好きという忠弘。お似合いじゃないかな。

「あたしはあの人でしか濡れないの! いいから好きって言いなさいよ!」
「山本某にも死ぬほど言われています」
「頑固ね。なぜよ」
「いいましたよ」
「ずいぶんみじめな性体験してきたのね。ひとのこといえないけど」
「よくおわかりで。はい、男は女を短期であきて捨てるだけの存在です」
「山本某は違う。わかっているくせに」

 椎名が口を開いた。

「加納さんは、自信がないのね?」

 椎名は右ななめ前、むきなおした。

「はい」
「自分に?」
「そうです」
「言えば山本君を幸せにできる自信はあるわね?」

 答えられなかった。

「幸せにして。多少山本君の略歴を調べたわ、壮絶な過去ね。知っているんでしょう。
 山本君を失いたくないかどうかというより、山本君にあなたを失わせることができるの?」
「でき……ません」
「山本君はあなたに、どう言って迫ったの?」
「知っているんですね」

 この2人の前では、隠してもむだだ。

「おそらくね。言ってごらんなさい」
「どうか同情してほしい」

 哀しそうに、寂しそうに。決してなじりはしなかった。

 対する椎名の表情は、まるで鬼軍曹のよう。

「ちょっと略歴を調べただけでも、一つひとつが同情すべきものよ。山本君のご両親はひき逃げされて亡くなっているわ」
「え……」
「通りがかりにただ一度あてられて逃走されたんじゃない。ねらいすまして何度も執拗にひかれて殺された。
 ご両親は貸金業だった。
 金を貸せ、貸さない。返せない、返せ。原因はこういった金銭トラブルによる怨恨だと警察は断定した。周囲は遺された山本少年をみて、

死んで当然の人間の息子がなぜ生きている。

 親戚はいた。誰も引き取らなかった、たらい回しすらされなかった。幼稚園の友だちは純粋で残酷、全員手のひらを返した」
「……」
「警察は証拠である犯人の車の破片を紛失した。
 ほとぼりの冷めた1か月後にわざとらしく、なくしたようだ、二度とないようにしたい。口答で済ませた。犯人は債務者のうちの誰かとあたりをつけていただろうに。
 証拠の品を紛失したそちらが悪いだろうと親戚一同は堂々と警察に少年を押しつけた。
 当時の捜査員が少年を引き取った。捜査員は仕事人間でめったに家に帰らなかった。その間少年は幼稚園にも小学校にもいくのを拒否した。
 何年も独りで、食事はほとんどカップラーメンしか与えられなかったそうよ。彼がそれしか食べていないと知っているわね?」
「……」
「捜査員はずっと前に配偶者に逃げられていた。少年に料理を教えるどころではなかった、カップラーメンくらいしか食べていなかったのは捜査員のほう。
 定年になったときの退職金はすべて借金返済に消えた。年金以外の収入がなくなり、それすら買えなくなって、少年を放棄した」
「……」
「ひき逃げで加害者が不明の場合、政府保障事業に塡補請求する。事故発生、死亡日から待ったなし、3年以内に申し出なければ問答無用で時効となる。
 知っていたはずの捜査員は仕事にかまけて申請しなかった。ここまで周囲に見捨てられた、たった5歳の少年にまさか煩雑な手続きをしろとでも?
 ご両親は私財をなげうって契約者にお金を貸していた、遺産はほとんどなかった。金銭面でも誰にも頼れなかった」
「……」
「何度か警察が保護した記録はある。どれも長くは続かなかった。施設にも入れられたけれど、すぐに逃走した。
 お寺に身をよせたこともあった。住職に直接聞いたわ、少年はカップラーメン以外食べることを拒否したそうよ」
「……」
「少年が自分の名前と生年月日を証するものを持っていることは知っているわね? それを見て住職は少年の名前と現年齢を知った。
 少年はいまが何年の何月何日かも知らなかった。自分からは名のりもしなかった。自分の歳すら答えなかった、答えられなかった。
 13歳だったそのころ一度だけ、中学校の試験を受けさせた。少年は読み書きできない可能性があった。
 満点だったそうよ」
「……」
「学校に入学させ、楽しい運動会に出したはずなのに、帰ったきたら目が死んでいた。
 少年は直後逃走した」
「……」
「16歳までの記録は完全にないわ。少年を拾った人物はヤクザだった。少年の実家は稚内、拾われた地点は神戸よ! たった独りで海を越え、直線距離でも1000kmをゆうにさまよったのよ、何年も!!」
「……」
「なにかしたいことはあるか、ヤクザは聞いた。なにもない、少年は答えた。
 これがどれだけ、どれだけ地獄だったかわかって? わかっていたでしょう?!」
「……」
「好きと言いなさい。想っているくせに。とうに気づいていたくせに。惚れた男を助けられなくてなにが女よ!」
「……」
「いますぐ言いなさい。山本君を呼ぶわ」
「言いません」