独りで生きてきた男。

28 独りで生きてきた男。

 翌朝、さらに早めに出社。更衣室には大勢いた。みな暗い表情。
 あんなの、昨日でおわってくれたら。
 現実は、けたたましい音がここからでも聞こえそう。
 意を決して職場へ。

 誰もいない。後ろの社員が叫んだ。

「まさか今日も説明なし?!」
「そんな、いくらなんでも。今日くらいは!」

 全回線が鳴っている。
 先陣を切り電話に出た。謝るあいだ上司にきてもらわなくては。
 1人が出られるのは1回線のみ。渡辺が出てもほかは鳴る。

 大声で叱責されたのち電話をおえ、

「まずは時間稼ぎを。総務でなくともいい、上司がきたら説明を受けましょう」

 ほかの課の者もうなずく。
 電話のむこうで待ちかねた取引先が、

「こんなに待たせるとは。何様だ!」

 9時30分となっても社長副社長専務、平取締役、非常勤の監査役、人事部長、総務部長まで出社せず。営業部長は再三の呼びだしに応じず雲隠れ。
 ほかの部長、次長、課長は出社したものの、わからないの一点張り。
 平社員はたまらず、

「いくらなんでも」
「もうむりです」

 立ちつくした。
 指揮命令系統が複数どころか存在しなければ、兵士はただ殺されるだけ。

 誰の指示もないまま電話に出るしかなかった。
 なにをしているのか、なにをすればいいのかわからないままうろたえて謝りつづけた。
 取引先が容赦のない叱責を浴びせる。内容はもう、やはり取引停止だという断定のほうへむかっていた。
 
 

 通常業務ができないまま休憩なしの午後。
 社員食堂から急いで戻ると、音がけたたましくなかった。
 渡辺が、

「先輩、なにかこう……電話減りましたね」

 やっと解放されたか。周囲からほっとした声が聞こえる。

「たぶん、最悪。
 情報を求められているうちはまだいい。なくなったら、むこうが情報を仕入れ、連絡する価値もないと判断した。
 相手にされているうちはまだいい。なくなったらおわり」
「……すみません。おれ、まだまだです」

 いつでも電話を受けられる態勢でいると、昨日の営業次長と忠弘がやってきた。

「加納君、きたまえ。山本君についていくように。
 服装を正しなさい。名刺は持ったか。髪を整え化粧もきちんと。靴を磨いて」
「はい」

 なんの用か。お茶くみではないらしい。

「山本君、タクシーを。経費で落とす」

 残業代も出さない会社、タクシーを移動手段にはしない。

「加納さん、一緒にいこう」
「はい」

 内勤が主の総務がなぜ、どこに。
 またも説明なし。ともかく従った。課長に報告、渡辺に視線を投げた。
 
 

 忠弘のあとをついていく。大きな背。
 気迫。
 先輩を追えなかった。

あとは自分で。すべて独りで。

 ビル入り口にタクシーが待っていた。忠弘が先に乗る。
 発車後にやっと説明を聞けた。

「いまからむかうのはあの大会社だ。なんとかアポをとれた。
 上層部は全員門前払いの討ち死に。俺のほかは誰もつなぎをとれなかった、事実上の全権委任だ。
 さや。いつもどおりに。俺を信じて」
「はい」

 タクシーが停まる。
 都心一等地。どれだけ頭を上げても最上階は遠い、超高層ビル。
 敷地、入り口が豪華ならビル内も。ふんだんに空間を使っている。なんらひるまず普通に歩く。

 前の忠弘が受付パネルを操作しエレベータールームへむかった。コの字型にずらりと何基も並ぶなか、すっと立ちどまった先は、扉の作りがほかと違っていた。
 直立不動の守衛とおぼしきがっしりとした体格の人がエレベーター上階へのボタンを押した。すぐに開くエレベーターへ、忠弘にうながされて乗った。

 密閉した空間で無言。同じにおいと心音。
 
 

 扉が開く。

 吹き抜けの1階エントランスホールより高さはないものの、やはり豪勢。部屋の入り口、両開きの重そうな扉の前には守衛が2人。直立不動で来客を確認、1人が右、1人が左の扉を開けた。忠弘に続いて部屋に入る。
 豪奢な室内。
 毛の長いカーペット、つり下がる高級照明。壁はアンティーク・ホワイト、繊細な彫刻、多角形のくぼみ、丸い花型飾り。深い緑のつぼに生けたばかりの花。大きなデスク、複数台の大きなモニター。どっしりとした重厚な応接室。

 部屋の主が、

「ようこそ。弊社営業一課長、椎名玲と申します」

 あきらと名のる。歩みより、名刺交換した。

「どうぞ、おかけになって。ご足労いただきありがとうございます」
「いいえ、弊社が」

 深く頭を下げる言葉の先を椎名がさえぎった。

「謝罪の言葉はすべてあと。まずはおかけになって、いまコーヒーを運ばせます」

 頭を上げた。
 忠弘の隣、ソファーに座る。どっしりとした黒い本革。部屋の雰囲気、部屋の主のたたずまい。気分は重役だ。

 再び重そうな扉が開き、妙齢の女性が入室してきた。カーペットに膝をついてコーヒーを出す。
 ついちらりとみてしまうお顔はものすごい美女、木下よりはるかに上。すらりと伸びた長い美脚、高級なスーツをまとう抜群のスタイル。胸もくびれもおしりもまぶしい。うわあすごい、さすが大会社。
 美女が完璧な作法で退室する。椎名は貫禄の笑みで飲むようすすめた。

 一番さいごに口をつけた。
 おいしい! カップも最高、きたかいがあった。
 大会社は弊社にコーヒーを飲ませることが目的ではない。

「本題に入るわ」

 椎名が、

「まず前置き。私、こんな一般的に大会社といわれているところ、本当は辞めたいのよねえ」

 なにをいいだすか。

「何度も辞表を出したのに受けつけてくれないの。しまいにはこんな肩書でしょう、困っちゃう」

 ため息をつきたくなった。マナーがなっていない、謝罪しにきた。できないが。

「肩書とか大会社のプライドとか名誉とか、興味ないの。
 こんな部屋を与えられているでしょう。しかたがなく肩書どおりに仕事すると。
 今回の件は最低です。大切な部下の顔に泥を塗っただけでは済まない。私が唯一膝を折る弊社会長の顔にも泥を塗ったことになるのよ、一杯のお茶がね。
 弊社の営業一課長補佐……長いわね、補佐というわ。
 彼も私と同じスタンスで、なにをされても仕事さえできれば興味なしという人物なの。
 すぐに謝罪があればもみ消そう、なかったことにした。だそうよ、当然ね。
 対応が最低でした。私がいけなかったことが起因だからがまんして三日待った。なにもなかった。彼の権限で取引を停止しました。この程度は私に報告がくる案件じゃない。
 知ったのは、C社の知人が土下座してきたからよ。失礼ながらこの程度はよくあって、無視する気でいたわ。でも、内容に興味を持った。
 御社を救う義理はありません」

 立ちあがる忠弘を椎名がさえぎった。

「補佐の権限で御社の社長・副社長・専務・営業部長・人事部長・総務部長はしました。必要最低限です、なにもおきません。泥を塗った事実にかわりはありません。
 拭うにはただひとつ、御社がいますぐ倒産することだけです」
「しかし」

 食い下がる忠弘。椎名は続きをいわせず、

「弊社の体面が保てません。
 無礼を働かれても商品、サービスを購入するほど誇りがない会社かと、全社員が侮辱を受けます。
 私個人の意思は関係ない。私たちと私が唯一膝を折る人物の顔に泥を塗る者、存在はします」

 とりつく島もない。

「あなたたちを呼んだこと自体、部下全員が反対しました、一度はね。
 いらっしゃい、弊社営業一課へ案内します」

 うながされ、無言で立ちあがる。
 なんとかよろけず、背をぴんと伸ばしてついていった。

 2人の守衛は主、椎名に敬礼し、エレベーターを開け、1人が目的の階のボタンを押す。
 お疲れさまと一言告げる椎名に続きエレベーターに乗る。下に降りているようだった。

 全階に守衛が2人以上いるという専用基で目的地に到着。ビルのなかほどか、内装もおいてあるものもすべてが高級品。
 守衛が椎名に敬礼し先導する。美しいガラスの自動扉前で左右に分かれ直立不動。
 真ん中を、お疲れさまと告げる椎名が貫禄の足どりで歩く。ついていった。

 音もなく開いた扉の先に大勢いた社員は、椎名を視界に入れたとたん一斉に立ちあがった。

「お疲れさまです、椎名課長!」

 何十人という野太い声、頭を下げる深い角度までが完璧にそろう。発する者の迫力、威厳。何十足靴を履きつぶせばいいか。現場という名の戦場を知った、歴戦の男たちだった。

 気負わない、返り血を浴びる戦士を統率する誇り高きコマンダーが、

「はいはい、座ってちょうだい」
「はい!」

 野太い声を完璧にそろえた戦士が一斉に着席し即座に業務に戻る。いさぎよし。

「どうぞこちらへ。補佐がいます、案内するわ」

 広いフロアを見わたせる位置に重厚で大きなデスクがあった。座る人物が課長補佐だろう。みなぎる迫力これまた十分。

 むかうあいだずっと立って待っていた補佐が椎名に深々と一礼。
 名のり、名刺交換を求める。
 椎名が余裕の笑みで、

「山本君、あとの交渉はすべて補佐とお願いします。御社の命運はすべてあなたが握っているわ、どうぞ気合で補佐を説得してね?」
「ありがとうございます」

 さきほどと違い、謝罪の場が設けられた。ふたりで深々と頭を下げる。

 山本君? じゃあ私はいらないな。さて困った。

「加納さん、あなたはこちらへ。さ、一緒にいきましょう」

 他社で忠弘に視線を投げるわけにはいかない。交渉に入っている、じゃましたくない。
 椎名のあとをついていった。