動く男。

27 動く男。

「先輩は教えてくれましたよね。
 人間だ、ミスはする。仕事でもつきもの。やってしまったことは取り消せない。肝心なのは同じミスを二度しない、すぐに謝る、対処する。
 よくある謝罪のニュースや会見。たいてい事がおきてから時間がたちすぎて、謝罪も対応もなにもせず追及される情けないやつ。
 うちの会社がまさにそうだったんです」

 週末だったのも悪かった。
 当日中に行動すべき2人、とくに上司の営業部長は土日の二日間なにもせず自宅で休んでしまった。
 計三日も行動がなかったとみた大会社の体面とプライドは完全にずたずた。週明け月曜日午前9時をもって弊社との取引をすべて停止した。

「あの大会社とうちの取引内容は売り上げでいけば4割。
 ただの割合じゃない。あの大会社が主な取引先だから、ほかの会社の信用も勝ちえて成長したんです。
 もし、あの大会社が。
 自分は手を引く、あなたたちも手を引け。
 ほかにいってまわったら?
 大会社と関係がある、うちのほかの得意先は全体の8割。
 売上8割減。倒産です」

 最悪だった。

「今日になってやっと情報が入った。
 社長と昵懇じっこんの取引先がどうにかして知って、あわてて教えてくれた。社長はすぐに連絡してわびましたがもちろん遅すぎ。とりまきを従えすぐに大会社へいったが門前払い。
 昔、豊臣秀吉の攻勢に覚悟を決めた伊達政宗が死装束で赴いた、ってありましたよね。
 格好だけでもまねすべきだったのに、頭も丸めずただいった、アポもなく。
 しまいには往来の一番多い大会社の本社ビル1階で、受付パネルを操作できずぶったたき警備員に退去させられた」

 目に浮かぶようだ。

「先輩は教えてくれましたよね。
 うちの総務は内勤が主。外へ出るときは自分が会社を代表している。受付係はむこうの社長だ、ねらって人の見ている前で頭を下げろ。
 基本すら忘れたんですよ、とうの昔に。
 一番の悪者2人にいたってはいまも事の重大さを認識せず、ぐずって雲隠れ。大会社は全部知っています、言葉もありません。
 営業事務3人は顔がいいってだけで人事部長と寝たから試験なしで入社、たいした仕事もないのに給与が高いって話ですからね。ここまでいいたくありませんが、服務規律を平然と破っていつづけています、いまとなっては疑えません」

 渡辺が差し出したのは求人情報誌。

「こんなご時世です、いますぐ転職を考えたほうがいい。
 事態を甘くみるな、の一穴が肝心なんだ。先輩は教えてくれましたよね。
 大事は、ほんのささいなことからおこる。ちょっとしたことが原因で、たいへんなことになる。
 リストラ、企業再構築。いや倒産にむけて、一刻も早く行動すべきです。本気で読んで、あるだけアクセスしてください」

 すぐに個室を出る渡辺。
 
 

 大食漢のために食材を買って帰宅した。いない。
 着替えて料理を開始。
 忠弘からやっと通知が入る。

山本忠弘
山本忠弘

さや、遅くなってすまない。都内にはいるが帰れない。いつ帰れるかもわからない。寂しいだろう、俺を想って眠って。俺も気合で眠る。好きだよ。
食べているかどうか心配するだろうからしかたがなくルームサービスをとる。

 通話にした。

「さぁや!!」

 つやのある声。なにも知らない。
 よく渡辺はあれほど情報を収集できたものだ。

「あの!」
「わかっている。俺を好きって言いたいんだろう? 直接でもいいのに、恥ずかしがりだな」
「そうじゃなくて!」

 急いで話した。

「わかった、至急動く。事態を収拾するまでこちらから連絡は一切できない。
 さや。明日は早朝から会社に電話攻撃がある。どういうことだ、説明しろ、こちらも取引停止する等々」
「そんな!」

 あの大会社だけでなく?
 リストラ……解雇……倒産……
 あまりの、いきなりの現実。

「とくに内勤の総務が受ける。営業は全員出払って謝罪・説明行脚しなければいけない」

 そのとおりだ。

「俺より渡辺君のほうが情報が早い、社員のほとんどが内情を知らない。だが上層部は違う。
 会社対会社のできごとだ。俺たち個人の思わくではなく組織の意向にそって動かなければいけない。
 指揮命令系統が一本でなければ兵士は混乱する。上層部の指示と違うなら、同立場である俺たちの話のほうを浮き足立って聞いてしまう。
 周囲の見ている前で上司が説明しない限り、なにも知らない、としなければいけない。
 渡辺君にも伝えてくれ」
「はい」
「気を確かに持って。ていねいに、正確に。さやのいつものとおりにやっていれば大丈夫だ」
「はい」

 通話をおえ、渡辺に連絡する。

「さすが先輩、気づかなかった。気合を入れます」
 
 

 翌朝、早めに出社。更衣室にはすでに社員が相当数いた。

「どうなっているの」
「知っている?」
「どうもね、まずいらしいよ」

 誰も声を抑えていない、情報をつかんでいない。

「加納さん、渡辺君はなにか?」

 総務の先輩がよくない顔色で聞いてくる。

「いいえ」

 フロアを開けたとたん聞こえる、けたたましい重なりあった音。全回線が鳴っている。
 ひるむ同僚先輩をおき、覚悟して先陣を切り電話に出た。

「どうなっているのかね!」

 申し訳ありません、こちらもまだわかりません。正直にいうしかなかった。
 クレームがあったとき、事実を糊塗するは最低。
 次に出たのは渡辺。先例を得て、恐怖にひきつりながら電話に出るほかの社員たち。

 午前9時直前になって総務部長が出社。顔色が悪い。部長の1つ下、総務次長が、

「どうなっているんですか、電話が鳴りっぱなしです、先方がうちと取引停止してやるって息巻いています、どういうことですか?!」

 部長の返答は、

「いいから仕事しろ!」

 フロアに重い空気がただよう。

「最低ですね。先輩、情報誌を全部読みました?」

 総務どころかほかの課長にさえ問い質される渡辺。すみません、把握できませんでしたと答えていた。

 大切な取引先が回線のむこうで上司を出せと散々いう。平社員はたまらず、

「部長が出てください!」

 返答は、

「いないといえ」

 しまいには、

「私も知らされていないのだ、うるさい!」

 フロアに重い空気がただよう。

「この会社も先が短いですね。見限りましたよ」

 渡辺の小声。

 昼、のんびり食べられない。休憩なし、すぐ電話応対に戻った。通常業務ができない。
 なかには何度も電話してくる取引先がいた。

「まだわからないのか、いつわかるのか、君では話にならない、社長を出せ!」

 いくつもの電話に出て、頭を下げつづけても次々かかってきた。もう出たくなくて知らんぷり、モニターをにらむだけの者までいた。
 
 

 脂汗で何十件目かの電話をおえる。

「ちょっと君」
「はい?」

 かろうじて顔を覚えていた、営業次長だった。
 ひとりふたりは営業でも留守番をおいたらしい。営業部長はいまだ出社せず。

「ついてくるように」

 渡辺に、いってくるねという視線を送る。渡辺はよくわからないですけど先輩、がんばってという視線を返していた。
 
 

 がらんとした営業でも鳴りつづける音はやまない。
 次長はすべて無視し、

「もうすぐC社からお客さまがやってくる。お茶を淹れてくれたまえ。君はきちんとできる者だと聞いた」

 給湯室へむかった。

 お茶は、もらいものの煎茶もどきにポットから熱湯をじかに注いで出していた。
 料理もお茶も手抜き、ほかを知らなかった。コーヒーでなければ興味はなかった。

 玉露の淹れかたを教わったのは60歳に近いパートの女性から。積極的に頼んだわけではなく話のついで。

「じゃあちょっと飲んでみて」

 茶碗を持った時点で、ぬるかった。うまいわけがない。
 先達の手前、いちおうかたむけて飲む。

 あまい。おいしい!

 即座にとりこになった。すぐ淹れかたを教えてくださいと乞い願った。
 女性は新人に、ていねいに教えてくれた。
 仕事ができて総務部長よりも年上。横柄な態度をみかねたのか一度だけ、2人だけのときにやんわりといさめた。
 反感を買っただけだった。ことあるごとに人前でいびられつづけ、なにもいいかえさず、結局辞めていった。玉露の仕入れ先を新人にさずけて。
 
 

 営業次長が給湯室に顔を出す。

「きたので頼む、2人分だ」

 盆に、茶と茶托を別々にのせて両手で。胸の高さにして、左に少しずらして運ぶ。
 フロアへいき、応接室をノックして失礼しますと告げる。

 上座には客、むかいの下座には忠弘が。

 サイドテーブルにお盆をおき、茶碗と茶托をセット。絵柄があるほうを客の正面に。会話中ではなかったので、どうぞといって両手で静かに、客の右側から出した。次に下座へ。
 すぐにきびすを返し、ドアの前で静かに一礼して退出した。

 さりげなく行って、さりげなく帰れ。
 
 

 給湯室で盆を下げる。営業次長から、

「戻って電話応対を続けるように」

 うなずいて従った。
 
 

 戻ったばかりでも誰より先に電話に出る。謝りつづけた。

 立てつづけに出て、おわって受話器をおく。
 総務部長から呼ばれた。

「君ぃ、私に報告もないとはどういうことかね!」

 営業次長とのやりとりを説明しろという。

「申し訳ありません、お茶出しを頼まれたのでいってきました」
「こんな状況でもきてくれるお客さまに、まさか失礼などしなかっただろうね。とくにていねいに出しただろうね」
「普通に仕事しました」

 可能な限り最高の仕事をする。常に最高、少しでも下はない。
 これが普通、あたりまえ。

「これだから女は! なぜ次長が君のような者に命じたのか、今回の一件はな!」

 背後で通話中の渡辺が席を立つ。

「おや。やはり最低のようですな」

 総務部長の後方に、さっきのお客さまがいつのまにかきていた。

「ほかにいいようがないねえ、山本君」
「申し訳ありません」

 少し後ろで頭を下げる忠弘。

「も、申し訳ありません、この者が失礼を! すぐに謝らせます! おい、土下座しろ!!」
「おぉや。これまた最低だ。そうだね、山本君」
「はい」

 背後で渡辺がむりやり通話をおえようとしていた。

「なにをしている!!」
「まだわかりませんか、総務部長」

 お客さまは冷静だった。

「そちらのかたはきちんとお仕事なさっていましたよ。お茶、とてもおいしかった。玉露のすばらしさをそのとおりひきたてた。
 一言あいさつしたくてうかがったのですが、上司が最低ではね」

 無言の総務部長。

「お茶出しの一件でここまで事態が悪化した御社に私がきたのは山本君の熱意にほだされてでした。
 現場の人間はまともなようですが社長以下、上司は皆最低らしい。私が言っているあいだにも、謝罪の言葉がないのだから」

 総務部長はお客さまにむかって慌てて、

「も、申し訳ありません!!」
「さらに最低だ。謝る相手を間違えている」
「上司はさきほど私が、書類を何箇所も間違えて提出したので指摘しただけです。私、間違いが多くて」

 横柄な態度。誰でも気分が悪くなる。
 勤務時間中でも簡単にひどく言い放つくせを聞いた直接の指導係、あの先輩から、

あなたいま、どういう顔しているか。自覚ある?

 ぼうぜんとした。
 横柄な態度にでられたら笑顔になればいい。話せばいい、普通に。誰に対しても横柄な態度にでなければいい。
 男尊女卑以外の、女性を下にみる理由。気分で行動するから。機嫌がいいときはいいが悪ければそのまま態度にだす。
 たとえば請求書を間違えて送られれば迷惑、めんどうだ。

あんたねえ!

 怒ってどうする。どうということはないと笑顔で普通に、こうしていただけるとうれしいです。お願いすればいい、間違われたほうが。

 のち、机の一番上の引き出しに手鏡をしのばせた。横柄な、感情的な連絡がきたときに見る。鏡で自分の顔を直接確認し、笑顔になる。作るのではなく。
 感情で連絡してくる女性。頭にくる横柄な男性。みな教えていた。

 こんなふうにはなるな。

 やんわりと連絡してくれる取引先もいた。内容は辛辣、優しい言葉が痛かった。
 教えとは、直接表現がすべてではない。

 先輩は年末に退職する際、

「私の連絡先を全部消して」
「なぜですか?」
「私に頼ってしまうもの。わからないことがあれば簡単に質問しちゃうでしょう? 携帯電話の欠点よね。
 あなたには教えたわ、すべて。
 意味、わかるわね?」

 きびすを返す気迫に満ちた後ろ姿を見て以降、一切のやりとりもない。

 聞いて一瞬楽をするのではなく、時間をかけてでも自力で探せ。

 許可を得て、重い段ボールを奥底から出し開けつづけ、昔の資料を一枚いちまいめくって情報のかけらを探した。途中、ほかの昔の、いまにも通じる情報を頭に入れていった。

 ひとりでなんでもできるわけがない。単純作業を最初から完璧にできたわけがない。間違って提出して怒られても自覚せず、間違いを自分のせいにされて初めて自覚した。

 間違ってはならない。

 あたりまえの、最高の、崇高な基本。
 育ててもらった、周囲すべてに。教わった、すべてを。いままでも、これからも。

 冷静に、いつもどおりに。
 これが加納清子の、普通の仕事。

「お名前をお聞かせ願えますか」

 お客さまに名のる。

「さやこさん。いいお名前だ。名刺をちょうだいできますでしょうか」
「はい」

 教わったとおり、普通に名刺交換した。

「山本君。さきほどの件、了承した。私の力の及ぶ限りのことをするよ」
「ありがとうございます」

 忠弘がぴたり45度の最敬礼で頭を下げる。お客さまを送るため、一歩下がってついていった。

 後ろの渡辺をはじめ総務は全員がきつい視線を部長にむけた。いたたまれなくなったか、もともと今日はなんの仕事もしていない、苦い顔でフロアを去った。

 自席に戻る。

「さすがです、惚れ直しました。おれが尊敬し頭を下げるのは先輩ただひとりです」
「はいはい、仕事」
 
 

 鳴りつづけた電話応対をおえるのに午後8時までかかった。

 誰もが疲れはてていた。しゃべる気力もない。今日一日でどれだけ謝ったか、頭を下げたか。
 更衣室で着替え、お疲れさまとだけいいのこす。
 ビル出入り口で声をかけられた。

「加納さん」

 ふりむくと木下だった。ぺこりと目礼する。

「お疲れ。聞いたわ、さすがね」
「なんでしょう」
「私が知らないとでも?」

 ますますわからない。

「あなたこそ美人聡明、仕事ができるわ。うちの人事は本当に最低ね」
「なんだかさっぱりわかりません」
「今回の元凶、営業事務の採用に際して、顔と恥ずかしいことで人事部長が入社させた話は本当よ。
 たったひとつのファイルを扱うのもいやがって、営業は誰もが彼女たちをさけていた。外面がいい人には迫っていたけど山本君は完全無視。
 ちょっと前の十日間は彼女たちすら怒鳴り飛ばしていたようだけど。
 やんだのが、さーや。だったのよね」
「なにか関係が」
「あなたがお茶出ししたお客さまは、個人的にあの大会社の営業三課長と面識があるそうよ。誰も知らない細い線でもなんとか糸口を見つけた山本君が頭を下げにいったようね。
 明日で当社の命運が決まるわ。握っているのはあなたよ」
「全然さっぱりわかりません」
「指輪、とてもすてきね。眼鏡も髪形も。さーや、以降ね」
「全部安物ですが」
「同期でしょう。よしみで、少し内情を教えてくれないかしら」
「目上のかたです」
「教えられる時期がきたら、ぜひお願い」

 木下はずっとほほ笑んでいた。
 迫るように直近で、

「いい香りだわ。覚えがある。社員食堂でお話ししたときも、だったわね」

 満足したかのようにすっと離れ、

「ご活躍を期待しているわ」
「なんだかさっぱりわかりません。失礼します」

 バスに乗る。ごはんをどうしよう。大食漢がいないから、コンビニで弁当を2つ買うか。もうばんざいなんていわないぞ。