感情を制御できない男。

26 感情を制御できない男。

 気づけばキッチンだった。
 遮光カーテンがない、秋でもこの明るさ。

 ブルーマンデー。
 ……会社に行ける。

「おはようさぁや……はい、眼鏡」

 熱い怒張をおしりに……時間、わかっているだろうに。
 マンネリ朝ごはんでなければ作れない。

「さぁやはなぜコンロに火を入れただけで魚を焼ける?」

 なぜ40kg以上ある成人を左手一本で運べる。
 米俵30kg、いやスーパーの5kgだって重い。

「……前から、思っていたのですが」
「うん、俺を想っていたんだよな」
「……どうして皿だけがそろっていたんでしょう」

 ほこりははらっただろうが動いた形跡は見当たらなかった食器棚。

「俺の食生活を知った友だちの、不動産会社の息子がそろえてくれた。冷蔵庫も準備してもらった。ほかは恋人とどうぞ、だそうだ。
 皿を使ったのはさぁやを連れこんだあの日が最初だ」

 ……聞くんじゃなかった。

「一緒に出社しよう、もういいだろう?」

 よくない……。

「これでもがまんして、キスマークをつけなかった。一緒に出社しないならいますぐつける」

 音がした。……着信音?

 ぐいっと体が浮く。抱きしめられたまま。
 携帯電話のあるところまで一緒に移動する気だ。

「魚を焼いている途中……」
「とめて。出ないと」

 焼き直しは難しいのに。

「いますぐむかいます」

 ?

「さや、すまない。仕事だ。いますぐ行かなければならない、ごはんも食べられない。寂しいだろうががまんしてくれ。連絡する、返事して」

 ねっとりとキス、名残惜しげに。
 風呂場へ直行、シャワーだけを浴びて着替え、センスのいいスーツを身にまとい、ビジネスバッグを持っていった。

 助かった……。

 残ったのは大量の中途半端なごはん。
 どうでもよかった。だるい体を総動員、ありあわせで作って食べ汗を流して身支度した。

 体中が愛撫のあとだらけ、キスマークとどこが違う。

 化粧のとき鏡を見ざるを得なくて、強烈に自覚した。このまま出社すれば、いままでなにをしてきたのか皆に知られてしまう。
 いつものとおり。
 もとに戻れ。もどれ。戻れ。
 
 

 会社へむかう。もう濡れていた、とまらない。

「おっはようございまーす、せんぱーい」

 まぶしすぎる。
 同居……ひょっとして、熱い週末をすごしたの? 皆、こういうことをしてきたの?

 なまめかしい舌、激しい指を受け入れつづけた箇所がじくじくする。攻められすぎて反応しつづける体。潤んでしまう、ショーツライナーにたまる。
 電話に出れば、誰かと会話すればくちびるが追っているよう。話せば舌をからめとられ、書類をさばくあいだも乳房をもまれる。敏感にさせられた乳首。
 座っているときも、歩いているときもじゅくじゅく激しく突かれる。いっときも離れてくれない。

「申し訳ありませんっ!!!」

 ……なに?

 いつも偉そうにふんぞり返る当社の社長が、大声。
 平社員とは会話もあいさつもしない。取締役たちがとりまきへつらい、ハラスメント全種が大の得意。関わりあうなどまっぴらごめん。
 立ちあがって受話器にむかい、持ったまま何度も頭を下げ、

「も、申し訳ありません、申し訳ありません、どうか!!」

 むこうから一方的に切られた?
 力なく、会社で一番豪勢なビニール張りの肘かけつき椅子にくずおれる。

「……なんですかね」

 隣の渡辺。どの社員も同じ表情、おそらく内心も。
 社長は頭をかきむしり、おかしな声でしばしうなり、

「営業部長を呼べ!!」
「部長はまだ出社しておりません」

 周囲を取締役で固めている。次に近いのが顔で選んだとやゆされる秘書課。次が営業課。誰が答えたか、普通の声で内容が聞こえない。

「なんだと! 金曜日におこったというじゃないか!! 報告もなしだ、E社の社長がわざわざ教えてくれて初めて知ったんだぞ!」
「な、なにがおこったのですか?」
「ええい! 副社長、専務、人事部長こい!」

 社長の声だけがフロアに響く。

「先輩、いってきます」
「お願い」

 総務むきにはみえなかった渡辺。新人研修後やってきたとき、女が教育係? おれが総務? そんな表情だった。
 教えた。単純作業がいかに大切か。

 半年後には、

先輩とおれの仲じゃないですか。

 頼んだからには渡辺の分の業務もこなさなければいけない。
 もともとやってきた、内容はわかっている。1.8人前の業務をすればいい。午後5時までに納品、でもない。

 総務課の社員も後輩の仕事放棄を黙認した。誰もが情報を欲しがっている。
 いまは集中するだけ。
 
 

 昼となって、休憩が欲しくて社員食堂へ。
 ろくに眠らせてもらえず休みなし、水分補給も不足。体はくたくた、仕事量は倍増。
 いったんほっとすると週末の行為がありありとよみがえる。

 ……そうだ、連絡。急いで返事しなければ。

「?」

 12:13、なにもない。通知なし。
 月曜早朝に呼びだす……?

 どんな経緯であっても仕事の話はしたくなかった。課が違う、仕事内容が違う、偉そうに口を出したくなかった。
 いまは。

 待てよ、金曜日のトイレでの会話。

 情報があまりにも飛びとび。点在しているにすぎず、判断という線にするには中間情報がたりなかった。

 ごはんを流しこみ社員食堂をあとにして、営業課に顔を出してみた。営業事務の社員たちの様子を知りたかった。

 椅子にふんぞり返って座っていた。制服がある会社なのにいやがり、服務規律に背いて私服を着用。ボトムスは社会人にあるまじき短さ。化粧は派手、髪を明るく染め、キーボードも打てなそうな爪の長さ。
 うち1人が電話を受けていた。

「えー。なんでぇー。あたしがぁー。謝らなくちゃいけないんですぅー?
 えー、解雇ぉ? できないはずですよねー、労働契約法第16条って知ってますぅー? やったね勝訴ー」

 ひきかえした。
 判断するにはまず分析。情報がたりない。

 自席に着く前に素早く携帯電話で渡辺に、知っている限りの情報を送って集中した。できることを。
 フロア中の動揺がひしひしと伝わる。
 
 

 定時になっても本日分の仕事はおわらなかった。周囲はざわつきながら、だんだん帰宅していった。
 そのまま続けていると携帯電話がふるえた。

渡辺
渡辺

まずいです。社内じゃ話せません、いつもの酒場、2階奥の個室で大至急。

 なげうってフロアを出る。更衣室では、

「なにがあったんだろう、知っている?」
「ううん、知らない」

 ひそやかに、抑えきれずかわす。誰も事態の全容を把握していない。

 忠弘からの連絡がない。早く帰らなければ、でもいまは。
 酒場に急いだ。

「お待たせ」

 渡辺は酒も頼んでいない、ネクタイを外していた。

「まずいです」

 静かな声。

「先輩の情報で点が線になりました、やっと。いいですか」
 
 

 先週、金曜日午後。

 一番の得意先、都心一等地の超高層ビルをまるまる所有する一部上場の大会社で、現場一の華といわれる肩書を持つ営業一課長がわざわざ弊社にくるという。実態は部長以上だそうだがあちらの会社には営業部長という役職がないらしい。

 お得意さまへは出向くもの、迎え入れるまでただ待ちはしない。

 あちらの課長が訪問したいとみずから連絡してきた。大会社でも一、二を争うほどのスピードで出世し、華とまで呼ばれる役職に就いた経歴を持つ東大出の超エリート。

 当社上層部は歓待しようと色めきたってお出迎え。社長、専務、営業部長が万全を期して待っていた。そのときお茶出ししたのが営業事務の社員だった。

 ところが直前になってこられないという課長。かわりにむかわせたのは肩書としては1つ下の課長補佐、有名大学卒でも15年かからなければなれないエリート。
 社長は、

「下の者をさしむけたな」

 憤慨し営業部長にあとを任せ、3人ともいったん席を立ってしまう。

 やってきた課長補佐、迫力はあったがもうすぐ40歳。営業事務の社員も下にみてしまう、茶をテーブルにどっかりおいてしまった。
 全部こぼれ、品のいい課長補佐のスラックスを水ならぬ熱湯びたしにした。こぼれた茶はテーブルにも及んだ。

「ごめんなさぁ~い」

 営業部長だけが応接室へ。テーブルには空になった茶。

全部飲んだんだな。

 すぐそこの、課長補佐のスラックスは変色していたのに。茶托もなく、テーブルにじかおきされていたのに。

 課長補佐はきびきびと業務を遂行した。急遽でも約束の時間どおりに到着、情報を完全に把握したすばらしい交渉。

「たいへんな失礼を。誠に申し訳ございません」

 冒頭で深く頭を下げて謝罪。
 営業部長は、

当然だ。自分からくるといいながら直前にキャンセルとは。なぜ下の者をよこした。

 誰がこようと一番の得意先、本来は弊社が出向き頭を下げるべきなのに。
 エリートと別れた営業部長はテーブルが濡れていることに気づいた。

「なんだあいつ、茶の飲みかたもへたくそか」

 回収にきた営業事務の社員が、

「やっと帰ったんですかぁ~、あの人ぉ~」
「やっとはないだろう、一番のお得意さまだよ」
「えぇ~、たかが課長補佐なんでしょう。部長のほうが偉いですよぉ~」
「そうだな。見ろ、茶も満足に飲めないらしい」
「ああ、それぇ~。あたしがぁ~」
「……は?」

 すぐに追いかけて謝罪しなくては。
 だが2人とも、

エリートだから気にしていなかった。課長補佐だからなんともない。

 事実を誰にも報告せず、黙って帰宅した。