気が早い男。

22 気が早い男。

 食器を片づけ明日の朝食の支度を。
 寝室の、荒らされたなかからパジャマと下着、洗面道具一式をかき集めて風呂場へ。

 熱いシャワーを強く、長く浴びて全部流す。湯船につかった。のんびりと湯とたわむれた。のぼせるまで。
 湯気のなか、ぼんやりとした裸眼で、飾られたネックレスのタグをつまみあげた。

 血液型まで知っていたか。加納になる気なし、気が早すぎ。

 新品の銀色。型や鎖は完全に一緒、誰かに見られたら一発アウトだ。

 タグの正反対方向に着脱可能な留め具はなく、鎖両端の小さなリング2つを力技でつなぎとめていた。

 洗面所で指輪と鎖を、しかたがないからよくふいてあげた。
 パジャマを着て荷物を持って出る。

 忠弘がいた。
 困った顔して、声をかけていいのかどうかわからずにいる。

「……食べて」

 食欲も食事もない。

「すまない、……勝手して、寝室を、……片づけた。すまない、……もうあんなことしない……」
「明日の夕ごはんのご希望はなにかありますか」

 忠弘が、ぱっと表情をほころばせた。

「出張先で屋台を見た。さぁやに作ってほしいと……」
「わかりました、おでんですね。大きい土鍋が必要です、荷物持ちをお願いします」
「喜んで……」

 ささやかに嬉々としていた。

「お風呂に入って眠ってください。朝起こします」
「うれしい……おやすみ、さぁや」

 身をかがめ、くちびるがふれそうなほど迫って直近で、

「好きだよ……」

 少し。ほんの少し動けば、ふれる距離。

「好きだよ、さぁや、好きだ……」
「おやすみなさい」

 横をとおりぬけて寝室へ入った。
 
 

 室内がきれいになっていた。

 洗濯物のしわをすべて伸ばして干してあった。すけすけのクローゼットケースに服をきちんと畳んで収納。掃除機をかけたか、雑巾がけまでも。ふとんもきちんとベッドメイク、枕カバーも替わっていた。

 明日の服を用意。ふとんにもぐる。
 シーツも替わっていた。においが甘くて心地よい。
 多少空腹だったがまぶたを閉じて、眠った。
 
 

 翌朝、携帯電話のアラームよりも早く目が覚めた。
 あと30分はうとうとしていい、二度寝した。朝のひととき、雇われ哀愁労働者の特権。

 時間となり、眼鏡をかけて遮光カーテンを開ける。朝陽が照らす煌めく宝石。しばし色の変化を楽しんだ。
 着替えるため、いったん裸に。首に飾られたネックレス、胸もとのタグ。

 服を着て、ポーチを持って洗面所へ。キッチンで朝食と弁当を支度する。
 玄関すぐそばの六畳一間へ。そっと戸を開ける。

 家の主はあおむけにすうすう眠っていた。

 じきそばに座って、穏やかな音を聞く。顔色は戻った、悪くない。

 身をかがめ、くちびるへ。舌で。
 傷に。のど仏にも。もう一度くちびるへ。
 何度かした。

「起きてくださーい、朝ですよ」

 ふとんの上から体をゆり動かす。

「ん……」

 まだ寝ていたいよう。小声で、

「……ただひろ?」

 がばっと起きた上半身は裸。寝ぼけまなこも一瞬だけ、

「さぁや……!」

 ガラス玉の瞳ですがり甘える。
 いったいどれだけ、永遠に喪ってきたのだろう。

「おはよう、さぁや。好きだよ。髪形を変えた? よく似合う。きれいだ」

 首の鎖が鎖骨で浮いている。隆々とした胸筋、盛りあがった僧帽筋、ごつごつとした腹筋。がっしりとした広い肩幅、ぎゅっとひきしまった腰回り、血管の浮く盛りあがった力こぶ。

 すべてに刻んだ、生々しい傷痕の数々。

「眠れましたか」
「うん。とてもぐっすり。さぁやがいてくれれば、ずっと……」

 ぐっと迫って直近で、くちびるがふれるかふれないかのところで、

「好きだよ、好きだ、好きだよ……」

 ふとんがめくれ、つい目がいった。
 ぱんつとは違う、モザイク必須のなにかが。
 すくっと立って、

「ごはん、できています」
 
 

 キッチンでみそ汁を盛っていると、重い足音がした。忠弘がソファーに座ったもよう。

 朝食全部を並べて座る。声をあわせ、

「いただきます」

 がつがつをみながらゆっくり食べる。今日のだしも悪くない。

 そろそろというころ忠弘が2つのどんぶりを空けた。立ちあがっておかわりを盛る。

 おでんを作れ、だったな。
 よくコンビニで買った。たまに手伝って知ってはいるものの、作るのはひさしぶり。
 うまくいくか。大根、卵、こんにゃくはかなり買わなければ。あとはめんどう、できあいのにしよう。胃にたまらない、どれだけ大きい土鍋でも大食漢は満足するか。ほかにもいるな。

 慣れなかったころと違い、手順も飲みこめ、仕事の要領でさっさとぱっぱと家事をこなす。所要時間をかなり短縮できた。余裕を持って米研ぎ終了。

 テーブルをふいてコーヒーを淹れる。
 同時にカップをかたむけた。

「おいしい……」

 水しかわかせない男のつぶやきを、評価として素直に受け取った。

 手抜きをうまいかどうか、考えたこともない。食事はこなせればよかった。
 毎度滂沱で食べてもらえると気分も悪くない。

 コーヒーについては別だ。父がどういおうと高校を卒業するころにはけっこうな味だった、はず。
 家族だけにふるまい、他人には考えてもいなかった。

「もう1杯いいか」

 毎日人と会って、先々で出る飲み物を残さず飲んできただろう。たくさん飲んだ、もういいよという営業マンはベテラン。
 今日だって何杯も飲むだろうに。

 飲みおえて、コーヒーカップを洗って磨きあげて定位置に戻す。

「お弁当はここです。いってきます」

 出社した。
 
 

 とたんがらりと変わる家の雰囲気。

 調理用の荷物は増えた。
 寝室と仕事部屋のデスクセット、多少増えた荷物部屋の、おかれたままの段ボールをのぞけば、家庭用のこの家は、惚れた女を連れこむ以前とさして変わらない。
 つい押し入ってしまった寝室の、整理整頓のしかた。物置部屋の、開けていない段ボール。
 洗面所へいっても、使用形跡が見当たらない。風呂場にさえ。
 歯磨きセットすら洗面所にない。

 出ていくとは言わなかった。

 三日も逢えず声も聞けずで想いがつのり、気がつけばあんなことを。性急な男が嫌いなのは当然、そのくらいは知っていたのに。
 つい力で迫ってしまった。嫌われて当然、やりたくなかったのに。

 ネックレスはしてくれたまま。指輪も外していない。
 朝、起こしてくれた。

 きっと帰ってきてくれる。

指一本ふれない。

 知ってしまった。味わってしまった。
 一緒にいられる、幸せなのに。

 耳にありありと残るあえぎ声。手に、指に舌に体中にありありと残る感触、味。

 明日からは2連休、密室でふたりきり。