16 嫉妬深い男。
朝、アラームが鳴る。
いい日ざしだった。まだまだ残暑、でも確実に秋。
白のレース越しの風景はきのうと同じ、でも鮮明。
支度ポーチを持って洗面所へ。鏡の先、よく映る。
なんとなく髪を後ろで結わえるのをやめた。おろしてもいいだろう。ちょっと切りたいかな、美容院へいこうか。
歯みがき洗顔、化粧して朝食の支度をして空き部屋へ。
家の主はあおむけにすうすう眠っていた。
きょうのペンダントトップ、タグがきのうの反対方向にこぼれている。ずいぶんと古い、使いこまれた代物。文字がどう彫られているかは前の眼鏡ではわからなかった。打刻面が上にきていた。
TADAHIRO YAMAMOTO
NOV 14, YYYY M
BLOOD TYPE B
よく眠っている。連れこまれた当初と違い顔色は悪くない。
規則正しい呼吸は穏やかな波のよう。
くちびるに。傷にも。ひとことつぶやいて、
「起きてくださーい、朝ですよ。……ただひろ?」
家の主がばっと起きる。立ちあがって背をむけた。
「ああ……さぁや……」
「よく眠れましたか?」
「眠るときと起きたとき体が沸騰した。中間は気合で寝た」
寝ぼけている。
「おはようさや。おろした髪もすてきだ、よく似合う。好きだよ」
「ごはん、できています」
きのうとの相違点、納豆を3個つけただけ。
ご飯もみそ汁も量は増やさない。家政婦を雇ったとたん太った、ぜい肉がついただのいわれたくない。
「いつもおいしいよ、さや」
「そうですか」
「きょうはなんとしても定時に帰るから。一緒に」
「引っ越しやめようかな」
漬け物を買おうか。やはりキャベツの浅漬けが。いやいやサラダとかぶる、ここはきゅうりの浅漬けか。
「……脅さないでくれ。二言はずるいぞ」
「一緒に出社帰宅はだめです」
「……いつかしよう」
「はいはい」
中身がほぼ同じ、もう三日目。大量の手順にも慣れ、調理時間をけっこう短くできた。コーヒーをゆっくり淹れよう。
ごちそうさまの合唱のあと食器を全部片づけた。テーブルをふく。
昨夜のうちにガラスの密封ケースに入れておいたコーヒー豆。においがもれている。
コーヒーを甘いと感じたのは何歳のころだっただろう。
あとから缶コーヒー、インスタントの存在を知った。どれも一度だけ。給食で出たコーヒー牛乳以外、二度と口にしなかった。
電動ミルで挽く。この豆ならこの粗さ、間違いない。父がたたきこんだ。流麗なカップにふさわしく淹れよう。
冷めるまで。
「どうぞ」
「いいにおいだ」
ソファーに深く体を預け、一緒にカップをかたむけた。
「おいしい……」
熱さ、味。お湯を注いだときの膨らみ。実にいい豆だ、淹れがいがあった。
「ありがとう、こんないい豆とカップをそろえてくれて。……が……まで、淹れるから」
「小声のところが聞きたい」
「ずっと淹れるから」
「朝から挿れてとは……きょうは会社を休もう。夜は眠るが、朝から致そう。さやの全部に俺をたくさん挿れる」
無視。
ゆっくり飲む。湯気も堪能、一息つく。外の景色を見た。
カップを洗う。磨きあげるようによくふく。これだけはもらおうかな。
午前8時すぎにマンションを出てバスに乗る。
座れはしないが満員でもない。つり革につかまりながら外を。きのうと同じ、鮮明な風景。
出社し着替え自席に着いて社員と定時を待つ。渡辺があいさつしてきて、
「……あれ? えー!? 先輩ですか!?」
「私よ、ほかの誰よ」
「って、眼鏡を変えたんですか! 髪もおろして……別人! 美人ですねえ意外に!」
「はいはい私は顔がまずうございます」
「いや、美人です。ね、そうでしょう課長!」
総務課長をつかまえてこのせりふ。
「いやあ、加納君……いや、ハラスメントだな」
「仕事します」
けっこうな人数の社員が異口同音にいう。合コンにいったら今度は成功するかな?
昼、社員食堂にいるとき携帯電話がふるえた。

さやは美人だが俺だけの妻だ。俺は嫉妬深い、これ以上の浮気はさやでも許さない。

ちゃんとしごとしてください、ただひろ。

沸騰した、いますぐ早退だ、家に帰っていっぱい致そう。
無視。
午後、楽しく仕事するなか渡辺から情報が。
「山本先輩、また営業成績トップですって。結婚間近でそうとう気合が入ったんじゃないですか、いままでで一番のだんとつだそうですよ」
大食らいの馬の眼前にぶら下がるにんじんを想像した。今度カレーを作るときはにんじんカレーにしてやるか、肉抜きで。