期待する男。

15 期待する男。

「さ、や……?」

 山本の声。
 いつのまにか帰宅していたらしい。あっちが廊下か。
 考えている方向とはまったく違った。感覚がわからない。重い足音にも気づかなかった。
 どうしよう。ごはんを作れていない、疲れて空腹だろうに。説明しないと。

「眼鏡を……壊してしまいまして」

 姿形がぼんやりの人影、山本が急に近づいてくる。
 いきなり、ぎゅっと抱きしめられた。

「えっ……」

 大きくて熱い手が背中に、腰に回る。がばりとひきよせる力が強くて手に持っていた眼鏡が落ちた。
 スーツ越しでもわかる、厚い胸板が直接。
 耳もとで、

「スペアは」
「な、い。です」
「コンタクトは」
「あ、いません」
「ないと、生活仕事に支障は」
「出まくり、……なにも見えません」

 山本のたくましい両腕が体中をがっしり包む。もっとも近くなって、かおりを吸いこんだ。
 体温がとけあう。心臓がどくどく鼓動する。
 熱い。

「買いにいこう」

 待って、次々いわれて……落ち着け……買いに? いま何時だ。

「店は閉まっています、何日もかかる」

 その間仕事できない、休んだばかりなのに。日常生活だって送れない。なんなら水もわかせない。ひとの家、トイレも自信がない。

「惚れた女を助けられなくてなにが男だ」
「心意気だけはいただきますが現実は」
「眼鏡店の息子が友だちだ、今日中に作らせる」
「レンズというものは1枚ずつ特注品です、平気で1週間かかるんです!」
「必ず助ける」

 なにかが頭を、髪の毛をなでた。まさか山本の頰?
 いまさら抵抗してもびくともしない。

「見えないなら歩けないだろう。大人しくしてくれ。暴れないで。未来の夫を信じて」
「離してください、未来の夫はそちらさんじゃありません」
「俺しかいない。俺以外は殺してやる」

 すぱっと左腕に移す山本。抱きしめる強さ、浮いた足の高さも両腕と変わらず。空いた右腕でタクシーを呼んでいた。
 通話がおわると再び両腕で抱きしめられる。
 熱がとけあう。心音が響く。

 外でクラクションが軽く鳴った。タクシーがきたらしい。抱きしめたまま山本が移動する。玄関へ。

 タクシーの後部座席に押しこめ靴を下においた山本が誰かと通話する。

「俺の妻の眼鏡が壊れた。今日中に頼む、ああ、いくらでも礼をする」

 靴を履き、可能な限り右側のドアによってぷいと外を見た。どこだろうがすべてぼんやり。

「そちらさんの妻じゃありません」

 通話をおえた山本が近寄り、後部右ドアに左肘をつき、ドアガラスに頭をよせて、正面から見て直近で、

「忠弘と呼んで。俺が見える?」

 くちびるがふれあいそう。

「実はこのくらいで、やっと」

 眼鏡なしとあり、同じ距離でも裸眼のほうが不確かだ。

「不安だろう? 大丈夫だよ、俺がついている。好きだよ、さや」
「タクシー内でやめてください」

 近すぎる山本を押し戻した。
 
 

 目的地に着いたらしい、まぶしそうなお店らしきところ。
 タクシーの支払いを済ませた山本の右腕に抱きしめられて足が浮いた。

「やめて、歩くくらいできる!」

 友だちらしき人とグータッチをかわす山本。

「悪い、遅い時間に」
「いいってことよ」

 なんの緊張も感じない、リラックスした解放的なやりとり。そうとう仲がいいらしい。
 視力検査を受けさせるためか、検査室に連れていかれ椅子に座らされた。

 山本は売り場に戻って友だちと、

「さやにあうのを見繕ってくれ」
「妻だろう、選んでやれよ」
「眼鏡はどれも同じにみえる」
「本当に極端な男だな。まだ水しかわかせないか?」
「さやが俺に一生作ってくれるんだ。さやの手料理はおいしいぞ」
「おーおー、のろけを聞けるとはな。十分お代だ、礼はいらない。結婚式には呼んでくれ」
「むろんだ。ありがとう、さすが俺の友だちだ」

 聞こえはするが測定器むこうの店員さんにあれこれ質問され、否定の言葉を出せなかった。

「7年前? 重かったでしょう、コーティングも全部とれていたんじゃないですか?」
「よくわかりません」
「いまのは薄いし軽いです。面積も、いまどきのデザインは小さいですよ」
「え、いやです。大きいのがいいです」
「山本さんがお相手でしょう? はやりの似合うのを」
「違います、たんに会社の同期です」

 店員さんは丸眼鏡になにやらガラスを差しこんだものをかけ、どこまで見えるか確認していた。
 1.2まで見えるように。緑と赤は同じ強さに見えるか。放射状の棒線は同じ太さに見えるか。

「はいおわりました、あとはフレームを選んでください。レンズは在庫があります、1時間で作れます」
「え? 早い……」

 聞き間違い?

「1週間くらいかかるのでは? レンズは特注品って……」
「ほとんどの種類を準備しています。カラーを入れると日数がかかります、どうします?」

 サングラスみたいなものか? 必要ない、入れないと返事した。

「山本さんにはうちの社長の息子がとてもお世話になったんです。山崩れにあって大けがしたとき、雨のなか何kmも背負って歩いて病院へ搬送してくれたんですよ。命の恩人です」
「……はあ」
「一番いいレンズにしましょうね。くもり緩和、ブルーライトカット、紫外線カットにダストフリー。薄いですし、コーティングは砂消しゴムをかけてもとれないですよ」
「……はあ」

 検査室を出る。フレームを選ぼう。
 みえない。店内を歩く足どりもおぼつかない。商品陳列棚にたどりついたものの、鼻をかすめるほど近くに持ってこなければわからない。

「ほら山本、妻が困っているぞ。選んでやれよ」
「わかった。さや、俺が選んであげる」

 山本が隣にきてにっこりとつやのある声。

「視力のいい人が選んでも迷惑です……うう、みえない」

 ふらふらみてまわるといいのがあった。

「……た、高い」

 フレームだけで8万円代。
 装飾という意味だけの宝石つき、塗装が18金、などが理由で高いフレームもある。
 純粋に性能だけの値段。こういうのをそろえているとはいい店だ。

 隣には未来の夫と豪語する一束持ち。
 謝礼金がわりにいいのが手に入るなら。

 演技した。

「これ、欲しいの……」

 世間一般にいう、おねだりポーズしてみた。
 みえないから照れなくやれた。上目づかい、小首をかしげ、お願いのまなざし。くちびるを舌が挿る分だけ開けてやる。たぶん山本だろう人影にむかって。友だちのほうだったらおもしろいかも。

「わかったさや、任せろ。これを」

 手からフレームを奪い友だちに渡す。人影は山本だったらしい、なあんだ。

「さやの口から欲しいといわれるとはな。体の一部、いや全部が沸騰した。寝室へのお誘いだろうか、襲いたい、いや襲う」

 意味が違う。

「さやのどこにでも俺をいくらでも挿れる。今夜は眠らせない」

 またなにやら下ねたを。

「眠ってくれないと同情した意味がありません。興奮しないでください、寝室にきたら帰りますよ」
「惚れた女とひとつ屋根の下にいて、なにもしない男はいないのだが……」
「ということは私がいようと眠れないと。わかりました、同情はいらないようですね」
「……すまない、気合で眠る……だからそんなこと言わないで……」
「言葉に気をつけてください。二度言わせるとは、そうとう仕事ができませんね。えぇえ私は仕事ができない男性は大っっっ嫌いです」

 会話が聞こえる位置にいた山本の友だちが一言。

「おーい山本。人前で泣いてんじゃねえよ、極端なやつだなあ」
 
 

 1時間後、できあがった眼鏡をさっそくかけてみる。

「うわあ……」

 世界が違った。
 はっきり見える。鏡に映る自分の髪の毛一本までも。
 やだな、ちょっと乱れている。こんなのをみせていたの?
 手で髪を整えた。

 光りものを売る店舗、光量がふんだん。
 前の眼鏡ではなんら意識しなかった。スーパーとたいして変わらなかった。

 周囲を見わたす。もう、近くまでいく必要がなくなった。遠くからでもわかる。7年ぶりの感覚。
 すっかり忘れていた。にじんでいるのかというほど境界線が明確。

 世界は鮮烈だ。

 前の眼鏡はいつかけても重く感じた。新しいのはふんわりと軽かった。眼鏡の面積が小さい、見にくくなるかな? 考えていたことすら忘れた。

 店員さんが、

「いいものを選ばれましたねお客さま。軽いし、かけ心地がとてもいいでしょう? よく見えるはずですが?」
「はい……!」

 さすがに出る感嘆符。

「買ってさしあげた男性に感謝の言葉を述べても、おかしくないのでは?」

 つい、隣にいる人物を見あげる。
 山本の表情に、期待の二文字が浮きあがっていた。

 熱く告げられるときは必ず直近だった。
 いまは距離がなくともよく見える。より整った顔、鍛えあげた体をスーツで包んで。

「……家で言います。ふたりのときに」
「あら……そうですね。おじゃましました、またどうぞごひいきに」

 7年もたつと眼鏡と実際の視力があわなくなる。
 金がもったいなかった。車の免許を持っておらず定期的に買い替える必要がなかった。顔を眼鏡にあわせていた。
 かけたばかりの新品は7年の時を凌駕していた。
 自力でいける店ではいいフレーム、レンズは売っていない。セットで約1か月分のサラリー、即日。

 帰りのタクシーで、山本が近づいて直近で、

「似合うよさや、きれいだ。好きだよ」

 とにかくまずごはんを食べさせなければ。
 さすがに顔を背けず、

「おなかが空いたでしょう? ごめんなさい、夜遅くにつきあわせて」
「さやから堅苦しい言葉づかいが抜けた……抜ける……」

 なにかが違う。

 惚れているという男に感謝となると下ねた方向にいきそう。つけあがる、熱が冷めるのが遅くなる。
 最低でも、いろいろいわれたお願いの1つは叶えてやるべきか。
 ほぼ下ねた方向だ、どうしよう。

 タクシーの外を見る。行きはぼんやり、いまはもう。
 連れこまれてから何度かあった景色。いや、光景。すれちがうライトがまぶしかった。いつもより鮮明に見えた。
 夜景。
 人工のライトが造る色とりどりの光の帯を、いつもとはまったく違った気持ちでながめた。見落としていた、いままで。こんなにも。
 すべてを。

 一緒に帰宅。はっきり見える家のなか。廊下の木材の年輪までも鮮明に。1年半前は新築だったのでは?

 山本がスーツ姿のままだった。風呂に入ってもらう。食事の支度を。
 さっぱりパジャマ姿の山本が風呂からあがってくる。ネックレスがよく見えた。複数の深い傷痕も。

「どう感謝してもらえるのかな。期待していいだろうか。いや期待する。しまくる」

 背後からの声が絵に描いたように興奮している。

「……じゃあ」

 さすがに、なんらかの形で応えなければいけないか。

「なんだろう」
「ともかく。どう感謝しても眠ってください。いいですね」
「……眠らなければ出ていくのだろう。わかっている、気合で眠る」
「まだ考えがまとまりませんので、ごはんのあとです」

 どうしよう。指の号数でも測らせるか。婚約だのしなければいいだけ。そこまでいく前に冷めるだろう。そうだ、そうしよう。

 オムライスを滂沱とともに食べてもらって。

「宝飾店とやらにご一緒します」
「豆とカップならそろえた」
「ええ?!」

 ちょっと待て、話したのはけさ。

「吟味してほしい」

 いつのまに、どこに準備していたのやら。出された現物を慌てて見る。

 豆。容量は200g、ふたりで毎日飲むなら適量だ。なぜ知っている? 買った店で聞いたか。
 豆の色はちょうどいいこげ茶。一見汗をかいていた。袋を持った時点で香りがわかる、開ければ家中を何日も満たすほどの濃厚なにおい。

 華奢なカップ。美しい、しっかりとした白磁に映える繊細な金色、色とりどりの文様、最上級の見事な色彩調和。2客セット、専用化粧箱入り、保証書つき。確実に100万円以上。

「……合格です」
「自動的に宝飾店だ。ほかの願いを叶えてもらえるとうれしい」

 どうしよう。

「間違いなく俺の体は沸騰するだろうが眠る。そういう願いを叶えてくれれば最高だ」

 キスのひとつもぶちかませというのだろう。

「……じゃあ」
「期待しまくっている」
「……誕生日、プレゼント、を」
「まだ先の話だ。それも欲しいがいま欲しい」

 なぜ愛用品を壊してしまったのか。山本の期待に満ちみちた強いまなざしが数割り増しによく見えてうらめしい。

「宝飾店には明日いく。明日婚約指輪だ、絶対にはめてもらう。眼鏡の礼じゃない」

 完全につけあがっている。

「……じゃあ」
「期待しまくっている」

 しかたがない。
 視界が良好すぎ、高いのをもらった。引っ越し代は出そう。お金をきりつめないと。

「ここに引っ越します」
「うれしい……鼻血と滂沱で眠ろう。土曜日にアパートへいくぞ。おやすみさや、好きだよ」

 いつのまに婚約指輪を明日はめるって話になったんだ? さすが営業、口がうまいなあ……。

 食事のあと片づけて、リビングの電気を消す。宵にほんのり浮かぶ待機灯の明かりもはっきり見えた。
 歯をみがいたあと、寝室へいく前に。六畳一間の、閉められたふすまにむかって。
 小声で、

「……ありがとう、ただひろ」