14 出社する男。
「俺の質問にも答えてほしい。左手の薬指は何号だろうか」
あらら、覚えていたか。
「したことがないのでわかりません」
「今晩宝飾店へいこう。豆は悪いがそのあとだ」
「豆とカップが先です。私が吟味してクリアしたら宝飾店とやらへいってもいいですよ。ただしこの試験は合格率がきわめて低いですが」
いくら金を持っていようと関係ない。高そうな響きの宝飾店に縁はない。アクセサリーには興味がないわけでもないが。
「その挑戦、受けて立つ。さすがさやだ、朝からしびれるな」
マンション周辺事情を少々教えてもらう。
歩く以外は電車ではなくバスを使っている。朝は10分に1回の間隔。座れはしないがあまり混まない、ひどい渋滞地点もない。
バスに乗るのか、ひさびさだ。
食事の後片づけはするが夕ごはんの準備はしない。いつ出ていけといわれてもいいよう、連絡先を登録させた。
使用形跡を完璧に消し、出社時に使うバッグを持ってさっさと玄関を出た。バス停はマンション手前、待っているとほどなくきた。
最寄りのバス停は電車の駅より会社に近かった。午前8時に出ても余裕で到着。満員電車に乗らなくていい、ほとんど歩く必要のない感覚を知ってしまったらあとがつらい。
朝食の支度はいままで以上に時間がかかる、起きる時間は同じだ。
更衣室で制服に着替える。周囲から、
「休みはどうだった?」
「ゲームしていました」
マンションでもしたいなあ。
場所がなくてマシンを持ちこめない、仕事部屋には足を踏み入れたくない。ごはんと眠るときいれば満足するらしいから、ほかの時間になんとか。
机に座る。ぽつぽつと出社する社員たち。
渡辺があいさつしてきて、
「休み明け早々気合が入っていますね」
「ちょっとね、経験値を上げられたの」
「おれも休みたい」
弁当はしかたがなく作ってやった。山本の分、1人前だけ。おかずが同じで最悪ばれる。
昼となり、社員食堂へ。
あの山本君、やっぱり木下さんと結婚するんですって。
聞いたきいた、すっごいのろけていたって、社内で堂々と。
携帯電話にむかって投げキスしていたって。
あれ、名前が違うとか……。
愛称だよ。
よしよし、誰も気づいていないな。
食べおわると、待っていたかのように声をかけられた。うわさの当人、同期で美人聡明の木下から。
あら珍しい。誰に用? ひょっとして私?
周囲がちらちらいわくありげにみる。
いちおう同期、でも目上。ぺこりと目礼した。
「あの、ちょっといいかしら」
「なんでしょう」
木下は周囲を見わたさないものの、気配は感じているよう。すっと声をひそめ、
「あなた確か、かのうさやこさん、だったわよね」
「それがなにか」
いやな予感。しぜん小声で返す。
「いえあの。きのう山本君が恋人の名前を、さーや、とか……」
社内中が聞いたわけではあるまいな。
「木下さんなんでしょう?」
「ええ?! 違うわよ」
驚きつつ周囲を察して小声。なんだか似ているな。
「だってお似合いですよ。美人同士、同期の誉れです」
入社式で山本と木下が並んだのをみた。新人研修ののち、話す機会はなかった。
「よくいわれるけど違うわ。でも皆に疑われてしまって。私のフルネームは木下由美だといっても誰も聞いてくれなくて」
うそでもいいからゆーみとか言ってくれれば楽なのに。
「私にも問い合わせがありそうですね。ですが同文、迷惑です。誤解されたくありません。木下さん、どうか同期のよしみで他言しないでくれますか」
「あら……ええ、そうするわ」
さすが聡明、話せばすぐにわかってくれる。
「ありがとうございます、ときに……」
普通の声で。
うわさの当人が小声で会話。美人がそのほかになんの用だ、周囲はさらに注目する。
「あなたは家庭的で控えめですね?」
「ええ? なにかしらその質問」
木下も普通の声で返してきた。さすが。
「みるからに家庭的ですよ。料理、得意でしょう?」
「得意というか、親に教わって少し……」
よくよく聞けば、少しどころか資格取得も考えて本格的に料理教室へ通っているという。
「控えめですねえ。さらには美人で頭脳明晰、お仕事もできる。すばらしいです、きっと将来いい伴侶にめぐりあえますよ」
「ほめてくれてありがとう。他言しないわ、じゃ失礼するわね」
さっそうと去っていった。同期が同じ制服を着てこうも違うか。
さっきから携帯電話がふるえていた。
既読をつけずメッセージを読んでやる。

お弁当もおいしいよ、さや。好きだよ。
ちょうどいいお相手を見つけた、さっそくおすすめしよう。
12:50か。
化粧室で歯をみがいてメイクを直して自席に戻り、渡辺と楽しく仕事を再開。緊張の連続だった社会人1年目と違って多少余裕もでてきている。
営業が下にみる原因の1つ、当社の総務は毎月やることが決まっている。もう十分慣れた。
定時に仕事をきちんとおえ帰宅、いやマンションへおじゃま。携帯電話を見ると、

お疲れさま、さや。好きだよ。
もう出ていっていいよ、リクエスト。ともになし。
夕ごはんをどうしよう。
うーん。オムライス? あの様子だと滂沱で喜ぶな、確実に。3つくらいに分けて出そう。
スーパーで買い物。おじゃま先で風呂に入り、さっぱりするもののきちんと着替えて化粧はしない。どうぞすっぴんにあきれてください。
作ってみて味を確認。ひとり夕ごはんのあと、洗濯して寝室に部屋干しした。
食わせるまで起きているか。相手は営業、帰宅時間は得意先次第。
午後10時ぐらいまでにしよう。暇つぶしが必要だなあ、ゲームしたい。
寝室でごろりすれば本格的に寝てしまう。リビングで待った。
ここのソファーは2つ使うとより効果的だ。1つに体を深く預け1つに足を投げおくといい。山本がいればできない、よりぐうたらな昼寝が可能。
仕事あがりのリラックスした時間はすぐにすぎる。午後9時ごろ山本から、

さや、いま仕事がおわったよ。すぐに帰るから待っていて。好きだよ。
さてフライパンに油をひくか。よっこいしょ。
上半身を起こしたら眼鏡がずり落ちてしまった。7年間愛用していて鼻あての部分がくたびれて、書類を見続けているとよくずり下がって。
今回は落下。
あっという間に視界がぼやける。他人の家、一瞬で間取りがわからなくなる。すぐに手で追ったが感触なし。まっすぐ落ちたのではない、どこかにはさまったか。
裸眼では小物の眼鏡がどこにいったかわからない。手探りしてもかすりもしない。寝るときは必ず決まった場所に眼鏡をおくのに。他人の家でなくすとたいへんだ。
立ちあがって別な角度から捜そうと体を起こし、ソファー越しにフローリングの床に膝をついたら音がした。
「まさか」
膝に伝わる感覚。まさか。まさか。
ぼんやりする視界でも必死にかき集めて拾いあげる。
真ん中のブリッジが見事にばっきり。
「……壊れた」