真摯に語る男。

10 真摯に語る男。

「さやと残業したとき、上司に書類を渡されたのがちょうど午後5時。
 周囲は手伝うというが、さやに逢っていい、すがろう。それしか考えなかった。
 即座に総務をみるとフロアを出ていて、追いかけた。周囲は女性更衣室前で張る俺に対し、なんだこの野郎という目で見ていたがかまわなかった。入社式からさやしか眼中にない」
「続きを」
「ひさびさに逢えた。とてもきれいだった。息をのんだ。うれしさのあまり抱きしめたかったが、いきなり大嫌いかと身がまえた。
 勇気をふりしぼって頼むとすぐにはいと言ってくれた。もう私服に着替えおわり、帰るところをじゃましたのに。すばらしい、ありがたいと感動した。打鍵スピードが俺と同じだった。感激した」
「続きを」
「やはり大嫌いは聞き間違いだ。うれしくて家の鍵を手渡した。両手で受け取って、そっと控えめに、大事そうに握りしめてくれた。天にも昇る心地だった。
 ……翌朝、生理的にさえ嫌いだと……家に帰れば鍵は捨てられ使用形跡はほとんどなく、金はそのままメモまでおかれ……あのあと十日間、寝ていない」
「は?」

 不眠の世界最高記録は一説に十一日間。ギネスブックは健康リスクが高いことから不眠記録を更新していない。

「さやの手料理を食べた昨夜はひさびさに何時間も熟睡できた。ふとんにさやのにおいが残っていた。幸せすぎて鼻血を出しながら眠った」
「できませんよ人間。以上ですか」
「同情してもらえただろうか」
「1週間とか十日間とか、寝ていない、食べていないって本当ですか。私でさえ不眠は三日が限度です、あのときはもう……」

 入社をひかえた2月のこと。
 苦悶の就職活動をやっとおえ、就職を前に気がたかぶっていたのだろう。
 一晩だけならともかく三日はいくらなんでもおかしい。覚悟を決め、自分の意思では初めて大きな病院へいった。

 適する科を聞いたときは正直ショックだった。
 紹介状とやらがなければ高くつくシステムはまったく理解できなかった。初診のため書類を作ってもらうだけでも時間がかかった。
 外来の廊下で順番をただ待った。大勢いてかなり混んでいた。
 早く行っても3時間待ちは当然だと教えてくれた人は、初診者は予約が必要、土曜日の午前中しか診ないクリニックもあるという。

「紹介状がないと受けつけない病院もある」

 あぜんとした。

 朝一番にきたわけでもない、かなり待たされた。
 携帯電話をいじっていると誰かが担架で運ばれてきた。救急外来ではないのに。
 家族だろう人があせった様子で叫ぶ。

「この子は1週間眠れていないんです、すぐに診てください!」

 横たわる患者。目をかっと見開き、視点が定まらず天井をさまよっていた。けいれんをおこしているのか、ときおり体が不自然にはねる。口から泡を吹いていた。

 実に悪い行為だろう、忙しい受付の事務の人に聞いた。順番は夕方の5時をすぎなくてはこないという。うなずいて帰宅を伝えた。
 あの日は疲れからか、なんとか眠れた。

「さやがいなければ、俺独りならもう、死ぬまで眠らない。どうか同情してほしい」

 気になって、あとで少々調べた。そこまでの不眠ならなにかがあって当然、確実に幻覚を見るだろう。
 実感として納得できた。

「……よく5kg、10kgで済みましたね。そんなに体格がいいのに」
「捨てられはしたが、丈夫な体に産んで育ててくれた両親には感謝している。ただし昨日さやを連れこまなければ倒れたというより死んだ」

 否定できなかった。

「俺の想いをわかってくれただろうか」

 大きな謎が残っている。

「どうしてそこまでなんでしょう。お好みの条件にあう相手はやまほどいますよ」

 誰か、別人を指していないか?

「誰も探していなかった。さやがそういう女性だった」

 とうてい納得できない。直接表現でずばり聞いた。

「どうして私を好きなんでしょう。外見最悪、単純作業しかできません。不滅の平社員ですよ」

 山本はさらに熱く告げた。

「単純作業というが、できない人間がどれほど多いか。
 さやは作業も速くミスなしだ。お茶淹れのていねいさもぴかいちだ、いくつもの得意先がほめている。仕事の面でも十分惚れた。
 さやは美人だ、外見でも十分惚れた。
 俺のなににも惑わず、大勢の前で誰を敵にまわしてもひるまない性格、十分惚れた。
 入社式でいいなと想ったのは、俺ですら眠りこけそうになった社長の下らない長話をさやだけがきちんと集中して聞いていたからだ。気づいたときはがくぜんとした。社会人としての気合がまったく違った。文字どおり目が覚めた。
 あれからずっとさやだけを見ていた。別な課に配属になり、席は遠かったが、姿を探すといつも気持ちいいほど仕事に集中していた。みるたび奮い立った。
 俺の楽しみは出社して、さやに逢うことだけだった。偶然でもなんでもいい、すれちがえれば、視界に入ってくれれば幸せだった。
 これがさやを好きになった理由だ。たりないだろうか」