7 夢を見た男。
食べおわり箸をおく。
「ジャーも鍋も空です」
「わかった」
山本はどんぶりサイズ2つを豪快に食べつくし、
「ごちそうさま。とてもおいしかったよ、ありがとう」
「私が休みって、本当ですか」
ずいぶんと計画的な。きのうのうちに知らせてほしかった。
「有給休暇を一度も取得していないと聞いた。平日にぽっかり休んでもいいのでは」
「……確かに」
「このあいだ夜中までつきあわせてむりさせた、うめあわせをしたい。のんびり休んでくれ」
「……じゃ、帰ろう」
「帰らないで」
「休んでいいんでしょう」
「ここで休んでくれ。さや」
「……はあ?」
意味不明。
「さやと呼びたい」
山本のつやめく瞳、表情がさらに。
「……ああそうですか。私を無視してくれるなら」
「矛盾した提案だし、むりだ。さや」
「じゃ帰ります」
「帰らないで。ここにいて」
「捨てられたいきものみたいにすがらないでください」
「5歳のとき捨てられた。以来誰にもすがれなかった。さやにすがりたい、甘えたい、愛されたい」
涙まじり。
「さやの手料理を毎日食べたい。さやが好きだ。忠弘と呼んで。ここに住んで」
憂いたっぷり。
「今度こそ鍵を受け取って。一生守るから金も受け取って。連絡する。登録して、さや」
「おねだりばかりしないでください」
この男、歯どめが効かないではなくて、ない。
「堅苦しい言葉を使わないで」
「直属ではありませんが上司です。立場を弁別しているだけです」
「お願いだ、さや。俺の願いを聞き届けて」
潤んだ瞳で迫ってくる。テーブルがなければどうなっていたか。
「いっぱいいわれたのでわかりません」
「じゃあ、ひとつだけ」
山本はいよいよソファーからきっぱり立ちあがった。近寄って手前に座る。くちびるがふれないだけの直近まで迫り熱く、
「さやが好きだ。結婚して」
盛大にため息をついた。
「まともにしゃべったのがきのうからなのに。性急すぎですよ」
「……確かに」
お願い攻勢はやんだ。
「すまない。一緒に朝を迎えて拝めるものも拝めて本音が出まくった。仕事で頭を冷やす。
これだけ頼む、連絡先を登録してくれ。さすがにいいだろう」
「……まあ、いちおう同期のよしみということで」
こっちの情報を教えなければいいだけだ。
出した携帯電話をひったくる山本。遠慮なくせっせとあれこれ登録していた。どうせ口ばかりだろう。
態度で語られて折れた。
先に歯をみがかせる。歯磨きセットを買う発想もない。連れこむうんぬんの前に、友だちを招いてもいないのでは?
化粧を直し、リビングに戻ってきた姿をみて喜色満面の山本。
ソファーに座る。
「本当に、帰らせてください。さすがにあんな格好でもう出たくありません。でないとあのままここを出ますからね」
「脅さないでくれ。わかった、じゃ鍵を持って」
「……お願いばっかり」
手をつける気にもならない。
「さやといると欲望がつのる」
「家でごろごろしますよ、せっかくとってくれた休みなんだし」
「夕暮れ前にここに帰ってくれ」
「強引だなあ。どこかの美人を連れこんでくださいよ」
「さや以外を連れこむ気はない」
「私のどこがいいんですか?」
疑問のすべてをさすがに聞いた。
「家庭的で、控えめなところがいい」
「……手抜き料理しか作れません。控えめといわれたのは初めてです」
誰か、別人を指していないか。
「俺が家庭をどれだけ渇望していたかは、同情とともにわかってくれただろう」
「……はあ。まあ」
「さや以外に対する印象、感想。
みな目を血走らせて突進してくる。つきあえ、セックスしろ、金をくれ、高いものを買え、支払いつづけろ。要求ばかりだった。
社内では俺にこういう態度をとる者ばかりだった。なびかなかったのはさやだけだ。
さやが欲しい」
おもてのご様子。けっこうだ、うち美人だけを集めて連れこみ遊べばいい。
「視野がせますぎ。家庭的で、そちらさんになびかない聡明なおかたは大勢いらっしゃいます。
六大学? もっと大きな会社へいったらどうです」
「大学で不動産会社の息子と友だちになり、格安で紹介されたこの家から近い会社を受けた。さやがいた。誤った選択はなにひとつない」
「視野を広く持ちましょう。そちらさんにふさわしいお相手はたくさんいます」
「俺がさやにふさわしい。忠弘と呼んでくれ」
ずいぶんと自信満々に断言してくれる。
「もうお時間でしょう、仕事して頭を冷やしてまともなお相手を視野に入れてください。私は帰ります、さようなら」
「さや!!」
がばっと立ちあがった山本が行く手をさえぎって仁王立ち。
力では男性に劣る、手首をつかまれれば足どめされる。
かまわない。
そんなもの、意思の前には関係ない。厚いであろう胸板を無視、玄関だけを見た。
「そちらさんになびかないのがいいんでしょう。性急な男性は嫌いです」
「……たいへんに傷つく言葉なんだが」
沈んだ声。まるで高い背すら縮むかのよう。
顔をあげ、
「お仕事してくださったら、そちらさんの欲望とやら。ひとつ叶えてさしあげましょう」
とたん山本の表情がぱっと明るくなった。喜色満面、忙しい男だ。
「仕事する。いってくるさや。お弁当をありがとう、夕ごはんも期待している。
ひとつとはなんだろう」
くるっときびすを返す。テーブルの、
「鍵を持ってあげます」
「うれしすぎて言葉にできない」
喜色満面度は上がる一方。感情表現が忙しい男だ。
「いってきますね?」
山本が重い足どりで近づく。身をかがませ、くちびるの直近まで寄せて熱く、
「いってくるのキスをしたい」
あとずさらず、
「性急な男性は。いいましたよ、鍵を返しますか?」
山本はビジネスバッグと弁当を持ってさっさとでかけた。