3 当たり散らす男。
その後十日間は午後5時に上がれて、平和的にすごした。
更衣室を出ると今度は渡辺に捕まった。仕事しろではなく飲みの誘い。
いつもの酒場、1階のカウンターで。
「社内じゃとてもいえませんよ」
なにかあったか。
「恐怖ですよ山本先輩。
気づきませんでした? この十日間、なにが気に入らないんだかご機嫌最悪、営業のやつら戦々恐々。一触即発、さわらぬ神に祟りなし。一文字でもミスしたら怒鳴り飛ばして。目が爛々で怖いです。
隣の課まで被害が及んだそうですよ、どっちの課長も恐れをなしたそうです」
モスコミュールを飲む。
「RPGはやっぱり騎士に限るよね」
「視力が落ちますよ、コンタクトにすればいいのに」
「あわないんだよね。4時間しか持たない」
渡辺の相手から連絡が入り、酒場内で別れた。
割り勘は安くないが、気がおけない後輩、高くもない。さあ帰ってゲームしよう。
出入り口で誰かが待ちかまえていた。
身がまえると、見覚えがある男性。
山本だった。ご機嫌最悪という顔で腕を組み仁王立ち。香りだけがふわりと心地よい。
「一緒にきてほしい」
「社外です」
さっさと横をとおりぬける。
「君の手料理が食べたい」
「は?」
つい立ちどまってしまった。
「お相手さんに作ってもらってください」
「そんな者はいない」
え?
「君の手料理が食べたい。俺は料理ができない。主食はでかいカップラーメン5個」
「……は?」
「やかんに水を入れてわかす以外なにもできない」
意味不明。
「どうか同情してほしい」
「同情するなら金をくれとか」
「金なら稼いでいる。受け取ってもらえないが。きてくれ」
すぐそこにタクシーが待機していた。ついちらりとみえた、メーターが動いている。
車に押しこまれてしまった。
「俺の連絡先を登録してくれないか」
せまい車内で山本が、見覚えのあるメモをかざし、つやを帯びた瞳で近づいてくる。
「いりません。生理的に受けつけないといったはずです」
視線をぷいと外にむけ、タクシー後部座席のさらに右側へ。
「そこまで嫌われることをなにかしただろうか」
真摯な声が近づく。
「音をたてて食事する人、代金を踏み倒す人のように、そちらさんを受けつけないんです」
「理由を聞かせてほしい」
「いいましたよ」
「名前どころか名字も呼んでくれないのはなぜだろうか」
責めたりなじったりするような声ではなかった。
「嫌いだからですよ」
冷たく言い放つ。
「俺はそこまでなにかしただろうか」
「押し問答です」
タクシーが停まった。手首をつかまれ玄関へ。
「離してください、鳥肌がたちます」
大きな手、ふりほどこうとしてもびくともしない。
「とにかくきてほしい」
室内に押しこまれる。
靴を脱ぎ廊下に上がった山本はすぐ右の、物置としている部屋のふすまを開け放った。
「見てくれ、十日間の食事の残骸だ。あすのごみの日に出すが」
つぶれたビール500mlの空き缶が大きい袋に3つ。
「食後の残骸では」
あの日、こんなものはなかったはず。
「きょうまで、食事は1日に夕食の1回ビールしか飲んでいない」
「は?」
「唯一できるやかんに水入れする気もおきなかった。5kg痩せた」
「……は?」
「どうか同情してほしい」
「どうやって生活していたんですか?」
「同情してくれただろうか」
やけに重い足どりで奥の部屋へむかう山本。
「器具もない、準備からしてもらえるとありがたい。むろん金は出す、近くにスーパーがあるから」
玄関に立ったまま、
「そこらのお美人さんをつかまえて頼んでください」
山本はふりむき即座に戻ってきた。
「君が美人だ。君の手料理が食べたい」
まっすぐで真摯な声。
「……あのですねえ」
ぷいとそっぽをむいた。
「何度もアプローチしたつもりが気づいてもらえない。しまいには大嫌い、輪をかけて生理的に受けつけないだ。そこまでいわれることを俺はしただろうか」
「あのですねえ……」
山本が玄関に降りた。さっき脱いだ靴を履き、かがんで視線をあわせ熱く、
「ビールしか飲んでいない。倒れる寸前だ」
「でしょうねえ」
下をむいた。
誰にけんかを売ってもいい。こんな、負けたような態度はとりたくない。ほかにやりようがなかった。
「同情してはもらえないだろうか」
声がさらに近づく。髪にふれるかふれないかのところまで。
「あのですねえ……」
「お願いだ」
わらにもすがる勢い、必死。頰が痩けている。熱くつやめいた瞳は充血。
「……じゃあ。ちょっと、キッチンを拝見します」
しかたがなく靴を脱いで上がった。
「ありがとう。うれしい、泣いていいだろうか」
「やめてください」