どじを見たい。

1 どじを見たい。

 中川麻衣子は英語も話せないのに、なぜか一部上場の大会社に入社した。間違いなくぎりぎりの成績で。

 地元の大学を卒業後、なぜか本社勤務となり。ために実家を出て都心で一人暮らし。六畳一間、バストイレ一体型。会社からは遠い。
 仕事は覚えることが多く、入社1日目にして後悔した。毎日、いつも、金曜日午後5時になるよう願った。

 単純作業が許容範囲を超えていた。ストレスをまともに受け、これから仕事かと思いながらの朝食は少しとると吐き、終業時刻後快方に向かい食べられる、を繰り返した。

 20歳をすぎると時間があっという間にすぎさるという。

 平日は時間のあゆみが遅い。早く昼休憩としたいのに、時計を見たら午前9時30分がざらだった。

 入社後すぐにあたった上司が最悪だった。ねちねちした性格で、どじな間違いをくどくど説教された。上司の目を気にし、びくびくおどおどしながら仕事した。言葉づかいがなっていないと、取引先との通話中も指摘された。プレッシャー以外のなにものでもなかった。

 時間はすぎる。
 よく半年間この会社にいたものだな。いつわらざる心境。

 ありがたいことに、ねちねち上司は最初の3週間ほどで異動となり、別の人物が上司になった。
 細かいことはいわず大局でものをみる人だった。あらたな上司にあたったことを心から感謝し、半年間も勤められた。体重は減った。

 暑さも和らぐはずの9月、第1週も今日まで。
 やっと金曜日がきた。昼食をなんとか流し込み、あとは4時間耐えるだけ。もうなにもしなくて済む。それまでがんばろう。

 でも私、もういっぱいいっぱい。こんなにがんばっているのに、これ以上どうがんばったらいいんだろう。

 午後3時。もう一息、あと2時間。とてつもなく長い時間。

「君、これB4だよ? A4と指示したのに! コピー取りすらできないの?!」

 突然声をかけられてふりむくと、さっきコピー取りを頼んだ先輩の姿が。

「す、すみません!」

 めいっぱい頭を下げて、もう一度やり直そうと、

「もったいない、紙がいくらするのか、会社の経費をどう思っているのか、地球環境をどう思っているのか。
 君は間違いが多い、英語もできずなぜここにいる」

 いいかえせない。
 うなだれ叱られたままでいると、突然肩をつかまれた。

「え」

 すぐに手は離された。背が高くとてもスーツが似合っていると一瞬思えた。尊敬する上司に、

「主任、借りるぞ。定時に戻す、すぐに直帰させろ」

 声がとてもよく響いた。上司より歳が若い男性がこの言葉づかい。

「中川さん、彼についていきなさい。そこの君、私をさしおいて私の部下に説教とはいい度胸ね。こちらに来なさい」

 先輩をひっぱっていった。

「さあ、中川さん。早く行って」

 フロア中の誰もがあっけにとられる一幕だった。



 ふかふかのカーペットが敷かれた一室に、さっきの肩をつかまれた男性とともにいる。
 この会社はビルまるまるひとつを所有する。新入りは職場以外の、上階のこんな広い部屋に自分の意思で行かない。

 部屋の主か。中央に大きな机、肘かけ背もたれヘッドレストつき本革張りのどっしりとした椅子。机上に並ぶモニターが数台。室内の豪勢さはまるで社長室のよう。座って黙々と仕事している。
 机の対面にぽつんと椅子をおかれ、座れという。

 なにをすればいいんでしょう。

 単純にして当然の質問が、できなかった。緊張、ストレス、プレッシャーが最高潮に達していた。

 目の前の、たぶん主任よりかなり上の肩書を持つであろう男性をただ見た。
 じっと見られるのはいや。さっきからそうしているのに一向に気にしない。
 仕事に対する集中力。すばらしかった。ただ見ていた。

 歳のころはいくつだろう。間違いなく年上。30歳前後か。こんな部屋にいて。さっきの言葉づかい。
 髪はきれいに整えられていて威厳を感じる。話しかけられない。モニターでさえぎられてこちらからはあまりみえない。

 なんの用だろう。

 さっきの話は耳に入ったはずだ。会社のくず。いつ首になるかわからない。細かったのに、さらにやせてがりがり。豪勢な部屋にはふさわしくない、まったく。

「来い」

 突然だった。思わずはいっと返事して、まるで中学校に入学したての、ついさきごろまでの小学生のように立ちあがった。
 よくこんな歩きにくいカーペットのうえをころばなかったな。あとから自分をほめた。机に近づく。

 書類をすっと差し出され、

「コピーを2部」

 怖かった。また取りそこねたら。おそろしくて、もう感情では動かなかった。なにかが自分を動かした。書類を受け取る。さっき部屋に入るときちらとみた部屋のすみのコピー機。あれに向かって歩け。
 いつも使っているコピー機とまったく違う。多機能すぎる。泣きそうになる。なんとか取った。手順は覚えていない。同じサイズで。同じサイズで。
 ちゃんと確認すると、偶然うまくできた。すぐに持っていった。とても走れなかった。

「座れ」

 よかったらしい。怒られなかった。ほっとして椅子に戻った。心臓が破裂するほど忙しかった。

 しばらくお呼びはなかった。さっきを反すうする。

 よくできた。とてもえらい私。

 掛け時計がない。さっきで午後3時すぎ。あと2時間の辛抱。
 腕時計を見られない。次の言葉を待つのみ。帰りたかった。
 緊張で体がかたまっていく。なにかいわれたらすぐ立ちあがらなければ。心臓がとくとく鳴りつづけた。

「来い」

 お呼びだ。体の筋肉を総動員して近づいた。

「この表の数字が合っているか検算しろ」

 電卓と、さっきとは違う書類をよこされた。簡単な表だった。自分でできるはず。
 電卓に指をはわせた。間違わないよう願った。

「座れ」

 よかったらしい。ほっとして椅子に戻った。
 午後5時まで呼ばれなかった。長いながい時間だった。

「定時だ」

 なんという福音。

「来い」

 ま、まだなにかあるの?
 立ちあがって机のそばまで行くと胸もとからなにかをすっと出した。名刺?
 わけもわからず受け取ると、

「連絡先を」

 え? え?
 混乱して、

「あ、あの、いま携帯電話を持って、いなくて」
「連絡先を口答で」

 ああそうか。持っていなくても口で伝えれば済むか。

「えっと」
「上司のもとに戻れ。あとは指示に従え」

 部屋を出ろという意味。
 どんなにうれしかったか。はい、失礼しますというあたりまえの言葉もでない。けつまずかずになんとかその部屋を出た。



 エレベーターを降りてフロアの扉を開けると、わっと人がよってきた。

「ちょっと! どうやって今村課長と知り合ったのよ!!」

 表情が青ざめている。
 いかにもうれしそうに帰ってくるはずが、どうも様子がおかしい。

「はいはい、私が先よ?」

 とりかこむ社員たちの間に割って入ったのは上司の主任。

「どうだった? 今村課長は」

 どう?

「あ、あの、さっきの人……今村課長というんですか?」

 なんと的はずれな。口々に、

「知らないの?!」
「課長だよ?!」
「うちの会社、40歳をすぎないと課長になれないのに!」
「やっている仕事、重役級だって!」
「すっごい美形で!」
「フェロモンぷんぷん!」
「声までセクシーで!」
「もう、美貌の貴公子よね!」

 いきなりいわれてもわからない。

「でも」

 続きは主任がさえぎった。

「その様子じゃ、中川さん。彼をまったく知らない?」
「ま、まったく知りません」
「だそうよ。皆、わかった?」

 ふりかえってもまだ納得しない。

「また行きたいでしょう?」

 いじわるな質問。すぐに首を横にふった。

「も、もういやです。絶対、行きたくありません。怖かった」

 どう怖かったのか聞かれ、ありのまま答えた。

「怖くて。恐怖の大王です。もう行きたくありません。今度はないと思うけど、そのときはお願いですから誰かかわってください」

 真っ青な顔で下を向き、がたがたふるえている。色恋ざたはなしか。

「さあ、皆も。中川さんも。もう帰ったかえった。定時よ。
 まさか残業する気?」

 皆その場を立ち去った。



 ロッカーにて。
 おびえていた。もっといじわるしたかったのに、流しにかけよって胃液を吐いた。

「ちょ、ちょっと……中川さん?!」

 線が細く頼りない。嫉妬できない。今村課長のプレッシャーとは相当だったのだ。

「だ、大丈夫。です」
「大丈夫じゃないでしょう? あのね、もし今度があったらかわってあげるから! ……いじわる言ってごめんなさい。本当にいやだったのね……」

 こくんとうなずき、全員に病院へ行くようすすめられ、会社をあとにした。



 携帯電話がふるえる。実家の父母?

「はい、麻衣子です」
「今村だ」

 はて。誰?
 そういえば、携帯電話の画面に名前が出なかった。
 迷惑電話?

「待て、切るな。さっき逢った今村だ」

 さっきあったいまむら。
 いまむら。
 ……課長だ!

「あ、えっと、はい課長!」
「いまどこにいる」
「は、はい。会社を出ました」
「さっきの部屋に戻れ」

 返事したくてもすぐに通話は終了。抑揚ないよく響く声。

 さっきなにか間違い、した?

 感情以外に従い、さっきの部屋に戻った。定時をすぎたのに。会社にはもう行きたくないのに。

 戻ると、

「座れ。あと2時間待て」

 泣きそうになった。

「夕飯の支度は」

 首を横にふるだけにしたかったが、社会人としての力を総動員して声を出した。

「まだです」
「一緒に夕飯を」

 食べよう、ってこと?
 どこにも入らない。
 いつもなら夕ご飯だけは食べられた。これが主食。実質1日1食。唯一の楽しみ、それも金曜日夜の。
 食事など、もう私には永久に。



 暗黒の2時間は、どうすぎたか覚えていない。

「待たせた」

 立ちあがった。仕事はおわりらしい。

「腹が減っているな。なにか嫌いなものは」

 今村が近寄り、わきの下に手をやり立たせる。
 返事がないとみるや、

「退屈か。すまん」

 顔が近づく。視界いっぱい。

 返事を待っているようだった。とっくに許容範囲外。時間外、言葉は出なかった。顔面蒼白な麻衣子を今村はどう思ったか。

 歩かせるため腕をとり、からめるようにして部屋の電気を消して出る。重役専用エレベーターでビル地下1階へ。許された者はごくわずかの自家用駐車場へ。

 心がもう凍っていた。いま自分がなにをされているのかまるでわからなかった。

 車の右ドアを開け、横抱きして座らせた。ドアを閉め、左ドアに歩いて開け、座ってシートベルトを。自分も締めて、車を発進させる。自宅へ。