牢屋はいかが?

1 牢屋はいかが?

 平社員の佐藤は健康のため、自宅付近の駅の3駅手前から歩いて家に向かっていた。

 みぞれまじりの雪が降り、普通の革靴ではとても歩けない。防水靴でもくもくと。もうすぐが沈む。
 前を向いて意気揚々と。そんな気分にはなれない。

 ふと気づいた。

 太ももまでむき出しの高校生? さきほどからずっと目の前を歩いている。

 前途洋々の若者がこんな天候のなか何駅分も歩くだろうか。
 声をかける? いや待て、30前という歳を考えろ。

未成年と淫行。

 だめ。絶対。
 
 具合が悪そうで声をかけて逮捕。報道にふるえあがった。
 少女の靴が普通のもので水分をたっぷり吸っていようと、刑務所は怖い。すぐ右か左に曲がってくれるだろう。視線を外し帰宅する目的に集中した。

 1駅、2駅。
 3駅分歩いて右に曲がる。申し訳ないが、

逮捕社会的制裁恐怖! 懲戒解雇

 最悪の事態だけはまぬがれたい。
 少女も右に曲がった。信号の待ちかた、歩きかた。同じ方向か。

 橋を渡って左に折れるのも一緒だった。太い幹線道路から細い路地へ。近所住まい? 音をたててぬれた道路を。かわいそうだった。長靴を持っていたら差し出したかった。

 100mほど直線を歩き右に折れた。
 もう少しまっすぐ歩けば家に着く。気になって歩調を落とす。道路端のぼろアパート1階のドアを開けて入っていった。
 決して立ちどまらず。
 
 明日も3駅分を歩くのだろうか。
 1週間会社に泊まりこんだ。ノルマ達成のため。
 
 待遇はいいがきつい。正直にきつい。毎年虫の息で達成してきたノルマ。年度が改まれば数字は0、ふりだしに戻る。
 安くない、高いといえる賃金はノルマの厳しさも意味する。1を達成すれば2ではなく3、4ではなく5。運もあって10としたら栄転といわれ課を移った。
 待ちかまえたノルマは30、立場は平社員のまま。
 交遊関係はつきあえても仕事に忙しく、放置。1週間後には待ちくたびれた相手から連絡が入り、言い訳。その場で不通。
 
 ノルマの達成は恋愛に似ている。相手次第。ひとりではどうにもならない。ふところをいためてもらうしかない。
 
 しばらく前に見かけたかわいそうな少女のことは忘れていた。薄情といわれても生活があった。
 たまの帰宅途中。あの少女宅? アパートのドアを60代とおぼしき男性がたたいていた。

「家賃を払ってよ!」

 滞納か。

 何歩か歩き、会話は聞こえるが姿は見えないところで足をとめた。
 ドアを開け出てくる。

「申し訳ありません」
「同じ言葉だ、いつ払うのか、もう出ていってくれ」
 
 ためらわず道を引き返した。
 30分後、アパートのドアをノックした。

「申し訳ありません、本当に明日には……」

 室内からほかの者は出てこなかった。

「はじめまして」

 一礼して名のった。

「近所の者です、あやしい者ではありません」

 顔にかいてあった。
 名刺を渡して社名を見せる。少しは名の通った会社に勤めている自負はある。信じてもらうしかなかった。

「さっきの会話を立ち聞いてしまいました。使ってください、見返りは一切いりません」

 札が入った紙袋を押しつける。

「名刺の裏が私の連絡先です、通報してもらってかまいません」

 ドアを閉め、家に戻らず3駅分を歩いて出社した。
 夜10時、課内に何人かいた。みな戦友だ。うち1人、先輩から、

「どうした、帰ったんじゃなかったのか」

 さっき、一歩間違えれば淫行していました。
 自席に座って何時間かすごし、結局泊まった。
 寂しい借家一戸建てに帰る。なにやら封書が。白い長三、手紙だ。珍しい。
 連絡先があった。番地が近い。

ありがとうございました。お金は必ず返します

 ていねいな文。
 
 はした金とはいわないが、低賃金で働いていない。役に立ったようだ。
 渡した名刺を捨ててくれれば。未来ある若者、過去をふりかえってほしくない。
 感激にひたっているとチャイムが鳴った。誰だろう。

「こんばんは」

 深い一礼。顔を確かめる隙もない。

「なぜ……」

 雪の降る寒い時期に玄関先に立たせるわけにいかない。すぐに済まない話。家に上げれば刑務所だ。
 狭い玄関でふたり。
 
「とても助かりました。本当にありがとうございます」

 アパートの道路端からずっと、家の明かりがつくのを待っていたという。

「すまない、寒かっただろう」

 家に上げるか? いやいや刑務所だ。しかたがなく玄関のへりに座ってもらう。

少女と一緒だと淫行だ、悪いが我慢してくれ

 口に出していえない、顔にかいた。ほかにやりようがなかった。

「申し訳ありませんが、すぐにお金を返せるあてがありません。いま就職活動中です。受かったらバイトして少しずつ返します」
「いや、いいよ。もらってくれ」
「いいえ、泥棒と同じです。死んだ両親に合わせる顔がありません」

 独りか。

「高校、そうだな、2年生か?」
「はい。来年度になったら安定を求めて公務員試験を受けます。勉強中です」

 就職先を公務員に限定する必要はないだろう。

「帰って勉強を続けて。気持ちは十分わかった。大事な時期だ、わき目もふらず机にかじりついてくれ」

 すぐに帰宅してくれた。
 ため息ひとつ。

 刑務所が遠のいた……。