King of pain

 返り血だらけの獣は、上にこそ牙を剥き、下らねえ奴をこそ撃破する。
 だから、それ以外の人間にはありったけの憩いを。寛ぎを。
 無上の空間を。
 躍るような眸で、それに魅せられた夥しい人々を決して従えず、決して差別せず、いつだって対等で。そうある為、護る為、あらん限りに牙を剥く。生まれながらの宿屋の主。これが俺の──。

「……テツ!!」
「……、……」
「聞け!! ……おい、止めろ……シャレじゃ済まねえ……っつっているだろうが!!」
「……ホ・ン・キ……」
「駄目、だ……!」

 俺をブン殴って目ぇ醒まして来ねえっつって金庫行って金かっぱらって黒塗りにゃ乗らねえでチンタラ鈍行でフテ寝で帰った。

 F行く気にゃなれなくて、そういや鍵を失くした。携帯も。
 行っちゃいけねえのかもしれねえ。
 声も聞いちゃいけねえのかもしれねえ。
 そういうことなのかも知れねえ。

 浜へ行って月明かり、海岸線沿いに歩いた。江ノ島に背を向けて、ずっと、ずっと。

 したら……随分な別嬪に声を掛けられた。
「道をお尋ねしたいのですが……」
 ヤケに奇麗な声だった。月明かりだけが頼りの砂浜でもよく分かる、けぶるような雰囲気の、魅惑的な女だった……俺以外からすれば。
 だから答えた。
「……どこの?」
「喫茶店を探しているのです……」
「ふーん……」
 近所のなら……知ってら。
「人通りが多くて……」
 ふーん……。
「ビルの……一階にあるとだけ聞いて……」
 ふーん……。
「……という名の……」
 そりゃあ……。
「俺の家だ……」
「……そう……なのですか?」
「ああ……」
 お客さんいらっしゃい、だ……。
「ここを……」
 R134を上がって、駅を二つ、それから人通りの多い道を歩いて、そこから……っつって後無視して歩き続けた。
「なあ……」
 いつもと違う景色の浜を歩く。
「俺は……反対方向っつったんだが……」
 振り返らず。すると背後から。
「帰らないのですか、家に……」
「ああ……」
 家な……。
「どこだっけ……」
 帰って……いいのかな……。
「帰れば……いいではないですか……」
「いいのかな……」
 帰れる場所って……あるのかな……。
「帰れる場所があるから……いいではないですか……」
「そうだっけ……」
 あっけど……自分で……。
「自分で……失ってしまうことも……あるでしょう……」
「あるなあ……」
 なーんかいつも……そんなんばっか……。
 止まらねえタチ……これが俺の本性。
「失うと解って……いることを、することもあるでしょう……」
「ああ……」
 あるなあ……。よく。
「どうしても……それでも、言いたくなることも……あるでしょう」
「あるなあ……」
 よく……。
「言ってしまったら、もう……」
「終いだっつーことも、あるなあ……ところであんた誰だ」
「名は……」
 名は……マトモに呼んでも貰えねえで……。
「一度も呼んで貰えないモノなら……あります」
 眼中にもなくて……。
「眼中にもなかった……ただ、……必要とされている、そう思い込んでいられただけで……満足でした」
 そんなのばっかで……あの眸に逢った。
「躍るような眸に……惹かれたんです……だからそれ以上を望んではいけなかった」
 全部望んだ……生まれて初めて。
 そうしてもいいと……背を押して貰って……。
「それでも、……観てはくれていたと、……想って……」
 ずっと……観ていてくれた、ずっと、……。
「言えない想いを、」
 抱えていた、それが、どんなに、
「伝えられないのが、もう……辛くなってしまって、」
 言えば、相手を、
「……縛り付けられるから、瑕を、遺せるから……そう想って言いました、そうしたら……全てが終わった」
 もう、
「帰れません……」
「……宿にか」
「ええ……」
 ……じゃ、
「いいですか……?」
 ……ああ。

 午前三時に茶を淹れた。下弦の月は西の空へ。脱いだ女に冷水浴びせて、俺は熱湯を引っ被った。
「もう死にます……」
「そうかい……同感だ」
「そんなに魅力ありませんか……」
「ないね……」
「ああ……同じ口調」
 そうかい……。
「やっと別れてくれたと想ったんです」
「と言った時点で何をされた?」
「別に……いつもの通りです」
「……“そ”?」
「ええ……」
 さぞ……いつもの通りだっただろう。用のねえ人間にも、そうでねえやつにもさぞ……。
「そりゃあ……期待しました……とても……天にも昇る想いで……女将になりました」
「そうかい……」
「すぐに……それだけでは満足出来なくなりました」
「そうかい……」
「全てのお客さまを預けて下すって……ただ、年に一度……宿下がりを戴いて……」
 ああ……アレな。
「あなたすら……来ない休暇」
 そりゃあ、まあ……。
「その人だと思ったんです……」
 ちっと違うな、ありゃ……。
「誰に嫉妬したらいいかすら、……解りませんでしたから……言いに……」
「……ほんで?」
「離れへの……戸に触れたら、……高圧電流が……」
 ほんで……商売道具の利き腕が使えなくなった……一発で。
「どうすれば……得られるのか教えて下さい……」
「知らねえよ……」
「一緒に、いたのに……ずっと前から、居れば情を移して下さる……そう想っていたのに……」
「思い上がったってそんだけだ」
「ええ……」
「もう帰んな」
 用はねえだろ、俺なんかにゃ……。
「俺が惚れて抱くのは一人だけだ。いつだって」
 ココロがねえなんてもう勘弁だ。
「帰る場所はないんです……」
 そうかい……。
「この上、あなたにまで……もう、生きてはいられない……」
「なに、自暴自棄になってやがんだか……」
 有能なんだろ……活かせよ、んな手、……さっさと治しちまえ。
「いい方法を……教えてやる」
 俺が見た、……ありったけの……獰猛な眸。
「全部捨てれば……いいことあるぜ……」
 俺もそうしようかな……もう……泣かせたくねえ……。
「したらさ……もう……後は得るだけだ……」
 そうしようかな……どっかで……絵画きてえ、全部ブン投げて……ああ、それがいいな……。
「一緒に……」
「やだね……」
 ……言っちまうか?
 そうしたら……きっと元通りになれる。
 そうだ……。
「そうしよう」
 レジを殴り開けて百円玉を取り出して、店の公衆電話から掛けた。バンゴ、これで合ってたっけか……?
「元気か……」
 イチオ……人前なんで……守秘義務……ハ。
「全部捨ててえんだ……準備してくれねえか。ホレ……高飛び用品とかあるだろ……くれよ」
「二人前と伝えて下さいませんか」
 やだね……。
「これが一つ……」
 無言で……。
「二つ……それが揃うまで……どこかへ匿ってくれ。守秘義務で頼まあ……」
 無言で……。
「三つ……」
「それはない」
「……ハ?」
「三つ目は既に使われた」
「……ハ。ああ、……そうかい……」
 別に……いいや。
「じゃ……二丁頼まあ……どこ行きゃいい?」
「お前の行きたい処へ行け」
「そう言ったことあったぜ……あんたの女房に……」
「そうか。井上、俺は梅子は絶対に駄目だと言った筈だ。その二つは却下とする」
「そりゃねえだろ……別件だ」
「何でもいいとは言っていない」
「そりゃねえだろ……散々挨拶くれやがってよ……」
「捨てると言ったな。津守にしたいか」
「……ハ」
 聖域突かれりゃ……弱えな俺。
「改めて一つ……あんたにとって津守緑は一体何だ」
「幼馴染みだ」
「改めて二つ……俺は絵をやりてえ、こんな店なんか誰でも出来る、そうさせてくれ……」
「俺がそれを叶えたなら、それすら誰でも出来るという理屈になるな」
「捨ててえんだ全部……あんたの女房のように」
「そうか。さっきも言ったが梅子は絶対に駄目だ。その願いも却下とする」
「じゃこれが最期の願いだ……俺は一体どうすりゃいい……」
「どうした井上。お前は打たれ強いんじゃなかったのか。どんな状況に陥ろうとも、決して引きはしないと誓ったんじゃなかったのか」
「ハ……」
 そうだっけ……ああ俺……やっぱ何も変わりゃしねえ。
「一つ……だけ取っといてくれ」
「そうしよう」
 結局……何も変わらず、切った。
 落ちねえ百円玉。レジのもうイッペンかっぱらって、掛けた。珍しい……留守電じゃねえ。
「……なあ」
 何よと、聞こえる……。
「バカなダンナと別れねえ……?」
 何を言っているのよ、と聞こえる……。
「最初っから……高望み。ゴメン」
 どこにいるのよと、聞こえる……。
「絵をやりてえ……皆捨てて……」
 息をのんだのすら、聞こえる……。
「この世に終わりが来る刻は……」
 ブザーが鳴った。
「絵を、海が見える処で画いていたい……」
 切ったら……声。
「何を……自暴自棄になっているのですか……」
 ああ、いたっけ……。
「全部捨てたいって、そんだけだ……」
「捨てられるなら、いいではないですか……」
 そうかい……?
「もう……すぐ死にます。生かされはしない……捨てるモノすらないんです……」
 なるほど……。
「あんた……好かれりゃよかったな」
「ええ……ずっとそう……望んでいました」
 そうすりゃ……。
「凄え……別嬪じゃねえか。……前、とんでもねえの……見た覚えあったけどよ……それ以上だ」
 そういや……あの時も……何も感じはしなかった。
「誰の褒め言葉も要らない……あの人だけが欲しかった」
 そういう……もんだよなあ……。
「あの人は……別のない人ですから……」
 そう言った女……いたなあ……。
「お仕事を……認めて貰えて……だからこれ以上、なにをどう努力すればいいのか解らなかった……」
 うわお……。
「刃向かえって……」
「無理です……」
「惚れているからか……」
「違います……」
 へえ……。
「あの人は……別世界です」
 そりゃ……どういう……。
「この業界で……右に出る人はいません……」
 ああ……そういう意味……。
「ただ惹かれました……全て」
 そうかい……。
「人として……男として……全て……全て」
 そうかい……。
「一緒に居られるだけでも……本当は……けれどもう憧れで済む歳では……なかった」
 よく……分かるぜ。
「刃向かえばいい……」
 聖域のように……無理だろうが……何だろうが。
 それに惹かれたんだ……。
「今からでも遅くねえ……死ぬんだろ? だったら無茶やって刃向かってみな……」
「この手……」
 ああそうか……。
 百円玉……。
「元気か……」
 無言……。
「湘南の喫茶店まで、えー……高圧電流で手っつーか腕をやられたの治せる医者一丁……おいあと治して欲しいとこあるか」
 いいえ、だと……いいことだ。
「じゃあ……元気で」
 ぶった切った。多分……もう喋ることねえ。
「待ってな、ここで……医者が来るから……」
 多分……五分後。
「それがおわったら……そこのレジの金を持って宿へ行け」
「何故……」
「と思うんなら……必ずあの男を超えろ」
 息をのんで……。
「恩義に感じて……必ず超えろ。いいな……」
「じゃあ……」
 何だ……。
「その時は……おもてなし致します……」
 ああ、……。
「いいな……そうしてくれ」
 もうすぐ来るだろう……鍵なんか掛けなくていい、そのままで行けと伝えて店を出た。

 結局三つ使っちまった。思えば全部俺以外だ。全くもって俺らしい。
 にしても……そうじゃねえのかとは思っていたが……幼馴染み、か。あの堅物硬派が……。
 だったら……相棒とも……。

 もう俺を赦しちゃくれねえだろう……よくいつも……謝罪を受け入れてくれたよな……どんなに怒っても、必ずワビを聞いてくれた。謝る機会を、必ず設けていてくれた。あんがとよ。
 海に入ろうかと思った。水遊び……もうちっとやったら死んでいた。
 そんでいいのかも知れねえ。捨てられるモノはある。きっとあの子もそう想って捨てたんだ。
 出来ないことはない。
 ざぶざぶ入った。冷たかった。背後から声が聞こえて、高めの声がふたつ、全部無視して、足の感覚が、砂に取られて、これがいい。
 波は胎動。だからずっとここにいる。