Tadaomi Honjo

 キュッキュとカップを磨く。何も考えず、ただ無心で。
 自分しかいないような感覚。
 するってえと、たまにカランコロンと音が鳴る。玄関の鈴。お客さん、だ。
 さっそく水を準備。カウンターの、ちと離れたところに座ったんで俺が客の前に水とメニューを置く。イトコは微動だにしない。
「お奨めは何かね」
 そう言った老人は、いつか一度だけ見たカミさんの上司・通称タヌキだった。
「本日はアールグレイ」
「それを」
 ビンから茶葉を取り出す。
「君達にはしてやられたよ」
 カップを温めて。
「うちのホテルは売却せざるを得ない処まで追い込まれた。私の首一つではとても済まなくてね」
 よく蒸す。上げるタイミングは日々の気温・湿度、茶の状態で全く違う。
「本社の役付けも何人か飛ばされた」
 皿にカップを置いて。取っ手を客から見て右へ、檸檬を添えて可能な限り静かに差し出す。
「経営改善と言えば聞こえはいいがね」
 カップ磨きに精を出す。するとカランと音が鳴った。お客さん、だ。
 そっちをジロジロ見るワケはねえ、って……。
 アレ? あのカッコ?
 客の格好はどう見ても警察官だった。元気かの国家公務員じゃねえ、知らねえやつだが。そいつは軍人のような無駄のない訓練された足取りでカウンターへ、俺のトイメンへ座った。水の準備を。イトコは動かず。
 ただしタヌキはそうはいかなかったようだ。だよなあ、誰がどう見ても、駐在でカップラーメンすすっている、じゃあなくて、かなり上の肩書きを背負っている男と一発で分かる存在感、威圧感だ。確実に歳上。何だ、職質か?
 水と一緒にメニューを。
「オレンジペコを」
 了解。カップを温め茶を取り出す。
「上官のツケを払いに来ました。いくらですか」
 よく蒸す。
「六百円」
「利子は」
 檸檬を添えて。
「ツケのトイチは願い下げ」
「では先に」
 ピン札で来た。カップを皿に載せ、可能な限り音を立てずに客の前へ置く。代わりに札を取って釣りを。八千八百円。
「領収証を」
「宛て名は」
「成田斉志」
 その通り書いた。って、元気かの下の名前ってどう書くんだっけ。確かこうだったな。二度ほど見た、多分合っている。
 トイメンの客はのったり飲んでいた。遠めの客は硬直していた。飲みおえると一息つき、軍人のような足取りで去っていった。
 ああ、今度からは当人直で頼まあって言うの忘れてた。遣いっぱにゃするもんじゃねえだろうが、人生の目上はよ。
「……君はあの人を識っていたのかね」
 ゼンゼン。初対面だ。
「本部長が、何故……」
 部長ってなんだ。課長の上か。
 タヌキは俺の内心のツッコミを見抜けなかったらしい。応えられてもつまらねえ話にしかならねえだろう。我ながら表情変えずなマスター面を続行させる俺と、入り口ドアへと視線を往復させ、オロオロと席を立ち、そのまま出て行こうとする。
「お客さん、勘定」
「……あ、ああ……」
「六百五十円」
 イヤミのひとつもぶっこかれっかと思ったがナシ。ジャリ銭を置いて出て行った。何だかなあ。まあいいや。

 あれから、約一ヶ月後。
 カランコロンと音がした。お客さん、だ。
 客は今度はスーツだった。だから本来は分からねえ筈だったんだが、その足取りたるや一度見聞きしたら忘れられねえ。トイメンへ座った。水とメニューを。
 今度はメニューを開いて、どれを選ぶか悩んでいた。
「ところでオレンジペコとはどういうものなんですか?」
「葉がでけえんです」
 そう言ったら豪快にハラを抑えて笑われた。なんかちっと天然系? いや、俺がじゃねえぞ、客がだ。
「いやいや……」
 歳上でやんしょ。
 したら客は笑いを自然に収め、足取りに見合う、おそらくいつもの表情、に戻って真正面から俺を見据えてビシっと一声。
「本条忠臣と申します。お見知り置きを」
 誰がどう見ても男前。落ち着いた深みのある声。シブイっすねえ……。
 名乗られれば名乗り返す。ランコーって言うなよ全停止中。
「井上知治です」
「ところで紅茶というのはなにがどうなっているんでしょう。妹の淹れた抹茶入り玄米茶しか飲んだことがないもので」
 盛大に吹き出した。ハラを抱えて笑った。
「仕事柄、よく茶を淹れては貰いますが、一度も口を付けないとよくもてるんです」
 確実に天然系だ。シブイんじゃねえのか?
「珈琲は?」
「妹が淹れられないんですよ」
 シスコンか?
「なにせまだ八歳なもので」
「は!!??」
 え、え、え!? 俺も人生イロイロ驚いちゃ来たが、……は、はっさい?
「そんなにおかしいですか? 三十三歳の直下の兄妹が八つというだけで」
 おかし過ぎら。年齢差二十五? ぅおいおい。
 思わずアタマん中で指折り数えちまった。えーっと。えー、……いけねえ、数えられねえ。
「数えられねえんでおかし過ぎやす」
「そういう反応は初めてです。天然と言われたことはありませんか」
 ぴーんぽーん。
「よく言われやす」
「サラっと答えられるとは思いませんでした」
 サラっと言わねえでくれねえかな。
「そうスか」
「大概詮索下種勘根掘り葉掘りですから」
 だろうなあ。
「性分じゃねえもんで。珈琲飲みたきゃ妹さんに教えたらいかがスか」
「家事全敗なんです」
 こりゃカミさんの方がマシっぽい。
「妹さん、連れて来られる機会があったらいかがスか、ココで勉強」
 なんか天然に営業してんな。まあいっか。なんとなくカンで、借金の連帯保証人欄にゃ署名はしねえで済むだろ。
「なんでしたら定休日にどうぞ。上官さんとか、よくその手使って来やすんで」
「それだと勘定がいかほどになるか見当もつきません」
 署名させる気はねえス。
「ボりゃしやせん、っつうか……そういうお代を取ったことはねえもんで」
「あ。今、妹が弱冠八歳だからオマケしようと思われましたね。いけません、教育上よろしくない。そして私がケツを叩かれる」
「は!!??」
 今なんつった?
「自分を甘やかす人類皆ケツ叩き、などと真顔で言って実行します」
「すいやせんがどういう妹さんか知りてえんで是非連れて来ておくんなさい」
 いっくらなんでも詮索下種間根掘り葉掘りしたくなったぜ。
「茶でも珈琲でもお教えしやすんで。甘やかさず」
「そこまでおっしゃるなら」
 なんか覚悟が必要系だな。
「とはいえ学校は休ませられません。土曜か日曜、いかがでしょう」
「いいスね。ほんじゃ土曜二時半にここで。小休止の時間帯ですからそういう看板下げてやすけど、気にせずどうぞ」
「小休止? それはいけない」
「その様子ですと営業中はもっとよろしくねえでやんしょ。モノは試しでどうぞ」
「分かりました、妥協しましょう。ただしお代はお支払い致します」
「へい。ところで」
「なんでしょう」
「注文は」
 今日の客はそれっぽっきりだった。
 ……。
 俺って、……勘定貰えること出来んのかなあ……。

Naomi Honjo

 さって本日は例の土曜日。どんなのが来るかな。
 店へ黒塗りでドンガリ乗り付け、勝手口からカウンター内へ。来てくれよ頼むからお客さん。俺はイロイロしがらみあって営業あんまかませねえんだからよ。
 正直言うと、一日に客がひとりも来なかったら店を畳んじまおうかと思っている。家族の猛反対、および俺の身柄がどうなるかは薄々分かっちゃいるんだが、いっくらなんでもそれはだろ。まあ、これはナンボ相互理解ったって事前にゃ言わねえが。
 十一時、営業開始。カップを磨く。
 初心忘れるべからずという。これを最初に見た時、持った時のあのキモチ。磨いた時のあのキモチ。
 大事に使おう。
 大事に、大事に。
 ゆっくり磨いた。

 休憩時間が来る前に客は来た。来てくれた。あんがとよお客さん。三人とは言え客は客。まさか将来ある人間に、今日は客いませんでしたが教えやす、はねえからな。
 イトコがテーブルから皿を片付け、無言で店を後にする。別に知らねえやつじゃねえし、出来れば遅めの昼メシを一緒に食ったっていいんだが、それはもぉやっちゃあいけねえとよく分かりやしたよ。

 今日の聴講生(?)の為に握り飯二ケをさっさと食って、ボケっと座ってちっと待った。二時半ピッタリにカランコロンと音がした。
「らっしゃい」
 最初に入って来たやつは背が低かった。八歳の平均身長がどんくれえかは分からねえが、次は。
 次は。
 ……アレ? 次は? シブイのは? 誰もいねえ?
 客用入り口はさっさと閉じられた。ひょとして、一人で来た?
 背の低いやつが、髪をてっぺんでまとめたアタマを景気よくブンと下げてこう言った。
「本条直巳と申します。このたびは、本条忠臣の紹介で井上様のお教えを預かりたく参上致しました」
 そうかい。分かったからツラ上げてくれや。
「お忙しいところ」
 全っっ然だぜ。マバラだよ客なんか。気にするねい。
「休憩時間にお邪魔して申し訳ありませんが」
 ツラ上げてくれっつーの。
「何卒宜敷くお願い致します」
「井上知治です。まず、オモテを上げて下さい」
 したらブンと上げて俺をはったと見据えた。
 ──いい眸だ。
「荷物をその辺に置いて下さい、本条さん」
 立ち上がって、視線でその辺を指し示す。
「こちらへどうぞ」
 カウンター内へ。
 本条さんは一瞬立ち止まったものの、手荷物を椅子へ置き、はきはきと言わんばかりの足取りでカウンターへ直行した。
 厚手の濡れたハンドタオルを片手に。
「まず紅茶」
 背後に並ぶティーカップを気分で選ぶ。
「カップを温める道具がないなら、湯を満たす」
「はい」
 ソーサーはカウンター上に置いて、カップだけ温める。
「次に珈琲」
「はい」
 淹れたものを飲ませた。ゆっくりゆっくり飲んでいた。何度も何度も深呼吸し、よく味わって飲んでいた。
「ご馳走さまでした」
「千二百円」
 本条さんはすぐに立ち上がって荷物の置かれた椅子へ向かった。それを持ち、踵を返す。カウンター前に戻ったが、椅子へは座らず荷物から財布を取り出した。黒の牛革だ、シブイっすねえ……。
 釣り無しで来た。札とジャラ。
「ありがとうございました」
 ブンと頭を下げる。
 ブンと面を上げ、俺をはったと見据えて踵を返し、はきはきとした足取りで客用入り口から出て行った。カランコロンと音がした。

 座ってのったりしていると、入れ替わりにイトコが来た。午後の客は午前よか来た。

10 years after

 その女はあの日と同じ表情をしていた。
「井上さん」
 へいらっしゃい。久し振り。
 あの日と同じように、長いだろう髪をテッペンでひとつにまとめ、ほんでも服装はシンプルな白のワンピースだった。小さな革のバッグも、足のヒールも、化粧も似合う歳になった。
 真っ直ぐ俺の元へ来る。カウンターだけが、二度目にしておそらく最後の出会いを塞き止る。ブンと頭を下げ、すぐに上げた。
 いい眸だ。
「好きです」
 そうかい。充分だ。
「受けた」
 全部。
 もう俺のもんだ。その想いは。だからもう、
「空っぽにしろ。今日、今全て。この場で全部」
「はい」
 その女は、カウンターの席を引き、座る。
 何にする?
「カモミールを」
 マイセン。白。五房の葡萄。俺の家族の贈り物。
 おもちゃの砂時計を、やっぱ欲しそうに見ていた。
 林檎にも似たほのかな甘い香り。金色が、白の陶器によく映える。鮮やかな紅の、つややかな唇をカップによせて、ゆっくりゆっくり飲んでいた。何度も何度も深呼吸し、よく味わって飲んでいた。
 静かにカップをソーサーに置き、もう一度深呼吸をして、バッグから財布を取り出す。黒の、なんの飾り気もない男物。釣りなしで。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
 立ち上がり、ブンと頭を下げ、すぐに上げる。
「今日、結婚します」
 そうかい。幸せに。
 踵を返し、可憐なワンピースの裾を一瞬ふわっと広げ、見事な足取りで去って行った。