Radiant heat

 時は十一月二十二日。井上夫妻に、待ちに待った赤ちゃんが誕生しました。男の子です。名前は知治さんが名付けました。季節にちなんで、秋文。あきふみと読みます。
 それはいいとして……問題は子育てでした。緑さんはでかいホテルのオーナーです。カオです。だから、産休なんてそう簡単に、しかも長期になんて取れません。だから知治さんが、店を長期休業にして俺が子育てすらあ、と言い出しました。でも、それには緑さんが反対しました。
 じゃあどうしようか、というまさにその時。口を出したのは、バカテツでした。
「俺が育ててやるからー。無差別にはしない。牙も研がせない。絶品料理、継承して上げる。どう?」
 この言葉に、井上夫妻は悩みました。どちらも手放せない職を持っているから、渡りに船な筈のこの言葉、口に出したのがバカテツでなければ二つ返事でうんと言ったでしょう。
 でも相手はあのバカテツ。
 井上夫妻は悩み、悩み、悩みながら……。
 実際は二人とも、仕事をそう長く休めませんでした。緑さんには、緑さんしかこなせない仕事が山積みにされてあったのです。溜まるだけで、減らない仕事が。
 だから井上夫妻はバカテツに念を押しました。無差別にはするな、牙も研がせるな。と。
 バカテツの返事はこうでした。
「素質があったらー。どうしようもないかんな。それだけはカーンベン、しろよ?」
 ぐうの音も出ない井上夫妻。けれど仕事は待ち構えています。山積みになっています。
 井上夫妻は妥協して……バカテツに、最愛の我が子を預けることにしました。定休日には知治さんが行って面倒を見ます。緑さんも、休みの日には行って面倒を見ます。期間は、絶品を継承しおえるその時まで。小学校の低学年、鍵っ子が出来る歳まで。そう妥協しました。

 かくて数年の歳月が流れ去り……。

 緑さんはでかいホテルのオーナーです。カオです。だから、対外的なお仕事が多いです。お酒はザルに、食い方は早くもなろうってんです。
 立場が立場です。敵もいます。そういう輩の中には、のっぴきならない、面倒くせえ家族のことをちくりちくりとあげ連ねる者もおります。それらに対して、緑さんはいつもこう対処しています。
「お陰さまで」
 これだけ言って、左手薬指に鎮座まします銀の指輪をよぉっく見せるのです。これを一日二十四時間一年三百六十五日し始めたのはオーナー職に就いてから。そんなハラの中では、頼むわよダンナ、絶対外さないんだからね! と決意を新たにしているのです。
 緑さんは、各部屋がAからZに割り振られた酔狂な自宅をよく空けます。ほんで、のっぴきならない家族をよく二人きりにさせています。これは、ちくり言う輩内では有名な話。緑さんはダンナに全幅の信頼を寄せドンと座っているのです。

 返り血だらけの牙を持つ、無差別な男は水曜、陽が傾き、独りになると空虚になります。想像を絶する空洞です。
 涙ではとても埋まらないから、ふらりと花街へ身を堕とします。これも、界隈ではとても有名な話。
 けれどこちらの話を知る人は、皆胸が押しつぶされそうになるのです。こんな姿を見ていられなくて、艶やかな女人達は、この街が誇る財産を、それはそれは心を尽くして出迎えます。心で涙を流して獣を慰めるのです。
 いつもは躍るような眸へ、なにも映さない空虚な獣。

 木曜朝の獣を見たら、誰も声を掛けないで下さい。
 イイ人の声を聴けてようやっと、人間に戻れるその刻まで。