もしも雪の日の邂逅がなかったら?

5

 斉志は井上に殴り掛かった。
 梅子は潜在的に血を見るような暴力には拒絶反応を起こすので、パラレルでもそう。ところが斉志は本質的に流血沙汰の暴力行為をする人物。自覚すらしていたので武道で抑え込む心を習っていた。
 斉志は女のなんたるかも心理も一切知らないガキ、その上力量を周囲に見せつけたがる人物。=井上を完膚なきまでに圧倒的に屠れば片手間に済む、そう思うだろう。
 遼太郎は斉志が出て来れば、途端に黒子に徹する人物。我を引っ込め、聖域すら差し出して斉志を引き立てようとする。取っ替え引っ替えでも色恋沙汰は多少は知っている遼太郎。斉志のことは誰より知っている。本編では「チンクシャに惚れるとは」と心の奥底で斉志を見下していたが、パラレルでは梅子の人となりを分かっているので、尋常ならざる表情を見てとり、斉志といえど一目惚れも有りか、と瞬時に判断。即座に身を引く筈。
 遼太郎はそういう、複雑怪奇な状況に追い込まれるとある種の余裕が生まれるタイプ。心に秘めた想いを置き、すぐに斉志対名無しの権兵衛の対決を、言葉は悪いがいけしゃあしゃあと見下しながら傍観する側に回る。元々レフェリーなど必要はなかった。なにせ自分の自慢の相棒は、相手が誰であろうと圧倒的に瞬時に屠る牙を持つ男(=遼太郎は斉志に極みを求めながら、深層心理で自分もそういう男だと思い込んでいる)なのだから。
 遼太郎がこの時想像した“その後”は、「斉が勝つのは至極当然、それ以外なし。問題は、どう格好よく華麗に屠るか。となると、瞬時になどつまらない。名無しの権兵衛にちったァ抵抗して貰いましょうか」
 それで遼太郎は面白半分に井上を応援する。斉志も、瞬時に屠るはつまらない、とばかりに本気を出さない。
 こういった雰囲気は、委細はともかく大まかに、人に伝わるもの。武道を知ってる井上は勿論、なにも知らない梅子でも。
 すると梅子の気質上、なぶり殺しを愉しむような暴力行為を大上段から見せつける、見知らぬ男など応援しない。圧倒的不利に立たされた、気心を知る優しい知り合いを応援するに決まっている。

 井上は、過去に一度も他人を見下したことはない。武の心得を持つ、当人いわくフツーの人物である。成田、西川、梅子の心情を感じ取り、撲殺の憂き目にあいながら、防御の構えのまま、いわれのない暴力を受け続けた。
 己の絶対領域・結界とは、せいぜい「己が手の届く範囲」であるという。武人たる井上は、片膝をつき、急所たる頭部への致命打を防ぐ為利き手ではない左手の方を前に出す十字防御で受け続けた。視線は上、その理由は命を護る為。こころの全ては護るべくの為。

 井上はなんら反撃して来ない。梅子に対し、ええ格好しいもしない。それどころか、単に防御しているだけではない。護りの体勢を取りながら、攻撃していた。反旗を翻していたのだ。強大にして尊大な存在に、無言の抵抗を、体で示していた。
 ほんの狂喜さえ浮かべて、憂さを晴らす=鬱憤晴らしをしていた成田も。
 盾に守られ、爆風を受けなくていい一歩下がった位置で冷やかし、見下していた西川も。
 ようやっと気付いた。加害者は自分達、非のない被害者は井上。そう、梅子が思ったことを。
 恋愛のなんたるかも知らない成田としても、武、いやさ暴力の心得ならばある。だから、梅子の表情には気付いた。それでも、どう止めればいいか、止めた時梅子にどう言えばいいか分からなかった。
 こんな時にこそ、第三者たる存在が出張るべき。しかし遼太郎も、失態にだけは気付いたが、それをどう回避すればいいか、分からなかった。この二人は成功に対する努力は血の滲むほどしたが、だからこそ失態などする筈がないとたかをくくっていた。

 事態が硬直した時、動く人物。
「……やめてください」
 静かな声で。だから、止まるしかなかった。
 だから、止められなかった。梅子が、井上のもとへ行くことを。
「帰ろう、知治……」
 初めて結界を解く井上。ちいさな手が、折れる寸前まで行った腕をとる。初めて立ち上がる井上。

 和子、成田を見下す。西川はもう警戒対象外としていた。
 マコ、西川への恩もこれまでと見切りを付ける。そして、こうとなったら視野が狭くなる模様の、突然の乱入者に、心のどこかで既視感を覚える。

 誰かが声を発さなければ、この場は動かない。
 どんな事態でも「その後」はある。次善事後策を講ずることさえ出来ず、棒立ちする二人を初めて見た和子は、
「久し振りね……成田」
 声を掛けて上げた。上辺だけの慈悲の心で。ずっとこうしたかった。見下されていたから。見返したかった。上に立ち、見下したかった。
「随分腕が上がったようね……武道の心得のない私でも、無実の被害者よりお前が強いことだけは、分かったわ……?」
 マコは和子と成田&西川の関係など知らない、知らなかった。だが、なにかしらの「力関係」であったことは、容易に知れた。
「ところで……まず。お前を呼んではいなくてよ。無実の被害者も、だけれど。遼太郎……? 説明、出来るわよね?」
 そのくらいは。闖入者を呼んだのはお前なのだから。事態をここまでにしたのも、お前なのだから。そういう意味で。眼鏡の奥の眼光は鋭い。
 西川は、切羽詰まると無言で逃げる性分、だった。さてこの場は?

 本編通りなら、二人共に無言で立ち去る。そして事態は最悪の方向へ、なのだが、それだとあまりにも暗過ぎ救いがない。
 遼太郎には多少、まともな言動をさせてみたい。

「見ての通りだ」
 よく言葉を発せたと和子、
「あら……目が悪くて。さーーーっぱり、分からなかったわ? 何故成田は井上君をいきなり攻撃したの? そんな資格が成田にあるの? 旧知の仲だったのかしら? ここを私闘場と選んだ理由は? 梅子さん、いえ、私達“自分の股以外から血が流れるのはなにがあっても見たくない”女三人の前で突然虐撃を行ったその理由は?」
 答えられないのが本来の西川。なのでその逆。全てありのまま答えさせる。
「斉は梅の字に逢って一発惚れた」
 淡白な口調で。
「あぁらロォマンティックだ事……下衆極まる言い訳ね。次は?」
「資格はない」
「有る訳がない」
 和子は裁きを下した。
「何故すぐに止めなかった遼太郎。まさか非力な女にそれを期待したか」
「すぐに、屠れると」
「言え成田。自分は尊大なハリボテの牙をブラ下げているだけのクズだと。言わなくても通報する」
「……待って、くれよ……森下さんよ」
 和子はニッタリと嗤った。
「笑顔。涙。土下座。暴力。どれもタダで出来る……成田? どこまで相棒に尻拭いさせる気? お前の言い訳も、聞いて置こうかしらねえ……?」
「あんなんどうでもいい、すぐに消せるしー。それより早く愛しのウメコと仲良くなろ。ってトコ?」
 森下に守られ一歩下がった位置にいた、マコ。昔よく見た風景だった。皆、自分を苛め、アカンベをして立ち去り、親しくする級友とだけ楽しくお喋りする、あの風景。
「あぁら中野さん、正解を言っちゃいけないわ……
 その通り、でいいわね……? 成田。首を縦に。ちぃさぁあく振りなさぁい? ……それで見逃して上げる……」
 段々と、声を細く。それに呼応するかのように、なにかが動いた。

 動いた人物は、無言で消えた。
 それを見計らったかのように……
「よくやるわねお前達……お互いの尻拭いの為なら見下し相手へも……ふ。分かったわ? 遼太郎……お前の頭一つで、貸しにして上げる……だから、無言で出て行っていいわ。その前にひとつだけ。
 私達の口は土下座ひとつで封じても。
 肝心のウメコさんへは、どうするのかしら……そうねえ……成田が土下座? で・も。
 ウメコさんがやめて、と言ったあの時にしないと、ねえ……
 私もそうだから、自戒の為に言うけれど。
“落ちた”時のこと。その対処。考えなくては、ねえ……」

 借りは作ったが知恵を貰った遼太郎。森下邸を出ると、即座に成田へ電話した。
 成田こそ、こんな時は出たくなかった。誰とも話をしたくなかった。だがこの電話は曰く付きのもの。造ったのは誰あろう自分。腸が煮え繰り返る思いで出る。
「斉! 梅の字の家、いや、さっきの井上の家は四番駅近くだ、今どこにいるかは訊かんでやる、すぐに急行しろ! 俺も行く!!」