西川夫妻

「言っとくが……」
 遼太郎はゆっくり服を脱いでいった。
「しばらく戻らん」
 ここは京都府。ただし坂崎のいる京都市内ではなく、日本海を望める海辺の街に、二人は住んでいた。
 遼太郎は着ているものも住処も無頓着だ。その割にセンスがいいので、なんでも着こなせるし、家は一軒家である。
 そこに、新妻・環と二人で、寝室にいた。和服を着る彼女に似合うような純和風の家、部屋である。
 ひな祭りの日に西川姓の人間を一人増やした遼太郎は、別に着物を着ているわけではない。
 彼の言葉はいつもぶっきらぼうだが、褥の中くらいは優しかった。
 それでも彼女はいつも泣く。羞恥のせいではない。体で、どうしても応えてやれないから。これでしばらく逢えないと、彼に言われても。
 彼がその家に戻って来たのは、半年後だった。
「ああ……いたのか」
 亭主の第一声からしてこうである。
 彼女は周囲近所の者達から、タクの亭主はそもそも存在しているんですかとまで陰口を叩かれていた。それほど噂に晒されやすい、環。しかし彼女はそんな声を取り合わなかった。昔から、こんなことを言って来る人間は山といた。そんな中、たった一人だけ違った人間がいた。光を見つけたと思った。それが彼女の、生涯最初の親友。
 彼女は親友に許しを請わねばならない。でも、出来ない。斉志が言った通り、高三のあの日、「こっちが切羽詰まっているこんな時期に、あんな凄い人間と結婚するなんて楽出来て、いいわね」と思ったうちの一人だったから。そんな人間は、親友に逢ってはならない。そう思ったのは環だけではなく、遼太郎もだった。事情の全てを知った彼ですら、志望校とのあまりの絶望的な学力差の前に、弟子を妬んだ。
 そんな二人だった。元から罪を抱えていた。だから、仲良くるんるん幸せ夫婦をやってはならない。そう思い込んでいた。親友は、弟子は、自分達に幸せでいて、と願っていることを分かってもなお。
 環は亭主の帰りを確認すると、ゆっくりと台所へ向かった。夕餉の支度を。
「すぐ帰る」
 それがこの家に、という意味ではなく、職場へだ、と分かるまで、一拍以上必要だった。
「美味かった。じゃ」
 一瞬たりとも触れ合いもせず、彼は帰って行った。次に家に戻ったのは、一年後だった。
「いたか」
 完璧に掃除の行き届いた家に戻った、亭主の第一声はこうだった。
 彼は懐からがさがさと、くしゃくしゃになった紙を取り出した。
「書いたから。出しとけ」
 まごうかたなき離婚届だった。
 彼女は三日三晩をたった独りで泣き続け、決意した。それに署名しすらすら書き、亭主の職場へ親展で郵送した。分かってくれるだろう事を信じて。
 彼は受け取ると、職場の上司に「私用で外出します」と言って届けを片手に無頓着に役所へ行った。受付の窓口担当はいい歳した爺様だった。おそらく定年間際だろう。
「受け付けられません」
 と言われた。なにか不備でもあったのか、と思ったが、爺様は、二人揃わないと駄目だと言って突っ返した。
 さてこれを妻にどう言おうか。彼は少々悩んだ。
 彼は、本当は彼女に逢う気はもうなかった。籍を入れはしたくせに。逢ってはいけなかったのに。生涯唯一の弟子は、現在の亭主と地獄の三年弱の間、一度も逢わなかったのに。
 罪を背負う自分は、だったらそれ以上の責め苦を。
 そう思って……でも、時たま家に戻る。もういなくなっただろうから、ソージでもしてやるか、と言い訳し。
 だから、気付いたのは偶然でしかなかった。見つけたのだ。
 そうと分かった時、彼はまさに、雷に打たれた気がした。
 その場で沈思黙考。彼だって、そう頭が悪い訳じゃない。考えて考えて──同じ事を、しようと思った。
 役所へ行き、あの爺様から、離婚届をがっぽり貰った。そして、新たなそれに署名しすらすら書き、自宅へ送った。
 彼女はそれを受け取ると涙を流した。でも、もうそれに署名して書いては送らない。取っておきたかったから。あらたな届けに署名しすらすら書き、親展で郵送した。
 彼はそれを受け取ると、片っぽしか署名がないのを確認して、あらたな届けに署名しすらすら書き、送った。後はもう、向こうからの着を待たなかった。毎日書いた。彼女もそうした。毎日送り、日曜日以外毎日貰った。
 切手を買う為に郵便局へ。封筒を買う為に事務用品店へ。届けを貰う為に役所へ。ただでさえ美人の為、いずれの窓口の人間にばっちり顔を覚えられている。妻などは、とても似合う和服姿で訪れている為に、郵便局と事務用品店では、封書でのやりとりなんていまどき奥ゆかしい、なんと似合うのか、と思われた。
 彼の職場では、毎日欠かさず自宅宛に封書を出していること、ほぼ毎日親展で封書が届いていること、職場で寝泊まりしている割に私用電話が全くないことから、なんて古式ゆかしい夫婦なんだと思われていた。内容は離婚届だが。
 彼が研究する内容は、次世代の新エネルギーだ。最悪、あと二十年で切れる原油。必ず代わりのエネルギーが必要になる。だからそれを開発する。誰もが夢見て、実現しない幻の新技術。
 ──これが出来たら──あいつ、使ってくれるかな──
 罰を下さない誰かの為に。クリアし切れない罪を抱えるが故に。
 溜まりに溜まる離婚届。一度だけ揃った両人の署名。
 罪を抱える自分達。分かち合い、共に抱く事もせず。地表上でただひとつ、二人だけのやりとりをしながら。