梅子

「……むーむむむ」
「……」
「む。むむむ」
「……」
「むむー」
「……まだか」
「ぅーーー!!」
「なんだその、唸ってるみたいなぅーは」
「ま、まだかはないでしょう! 今一生懸命やっているというのにーーー!」
「早くして梅子」
「してるってばーーー!」
「どこがだ」
 えっと、いま腕相撲してるんです。巨大なハンデがあるわたしは、両手利きの旦那さまの片手に対し両手で立ち上がって思いっきり勝負を挑んでいるのですが、こーーんなことを言われているのです。
 まさかうめこ俺のこと、風呂へだっこだなんだで連れて行こうなんぞ思ってるんじゃあるまいな、なんて言われちゃったから、そんなこと出来るわけありません、なんだったら試してみる? って言って、現在試合中(?)なのです。が。
「一ミリも動かなかったら、梅子修業、三日に二日はさぼって」
「むーーー! うごくのだせいじーーーー」
「一ミリでも動かせたら飲ませてやるよ」
「が、がんばるっっっ!!」
「とは言っても、俺はプライドが高いからな。わざと負けるなぞ出来ん。梅子に一ミリでも動かされたら、俺立場ない。だから動いてはやらん」
「ぅぅぅーーーー」
「可愛い」
「よ、よ、余裕綽々っておかおしてーーー!」
「余裕綽々だ。梅子、修業が足りんぞ」
「むーーーーーー!!!」
 結果? 言わんでもいい事だ。分かったか。
「梅子。お白州。修業は適度にうんとさぼる。いいな」
「……。増えてます」
「ぐーたらしてて。けどな、飯時は起きなきゃ駄目だぞ梅子」
「……むー」
「むーじゃない。目覚まし使うか? 白電話と似た音の出るのなんてどうだ梅子」
「……うーん」
「俺がうちにいる時は鳴らないが、そうでない時は電話するしないに拘らずいつも飯時鳴る。そういうのならいいだろ梅子」
「……それ、なら……」
「梅子は子供の頃、目覚まし使っていなかったのか」
「うん。母ちゃんに起こされてたから」
「そう、か」
「……おこった?」
「うん」
「ごめんなさい」
「うん。……やっぱり俺、梅子の近所に生まれたかったな。赤ん坊の頃からずっと一緒にいたかったよ」
「……。あの……」
「梅子の子供の頃の写真見たいか、か。いや、いい。なにせ俺の写真もないからな」
「……そうなの?」
「ああ。無い。なにせ俺はこんなんだ、撮る必要がなくてな」
「……」
「そんな顔するな。CDと同じだ。そうだろ」
「……うん」

 それからは、おうちに斉志がいないとき朝・昼・夕方、そして午後八時。やわらかい音が響くようになった。
 でもその、あのー……。このおとってわたし、うんと安心出来るから、むしろお寝むしちゃいたくなるかも……。
 白電話の音がする。
「……はい、……なりたです……せいじスキ……」
「寝坊助だ梅子好きだ」
「……うん……」
「ちゃんと起きて、梅子」
「……うん……」

二月のおわり

 五中の校庭でプロポーズした後梅子は、呟くように言った。
「受験、がんばろうと思ったの。あんな綺麗な景色を見たから、じゃあわたしはいままでなにをしていたんだろうって、そう思ったの。なにも考えていなかった。将来のことなんて何ひとつ考えたことなかった。なにも出来ない、そんなことすら自覚してなかった。ただぼーっとしていただけだった。
 何かしよう、そう思ったのはあれが初めて。うち、裕福じゃないから行き先はA高しかなかったけど、それなら本当はもっと前から勉強しなくちゃいけなかったでしょう。けどなにも考えていなかった。
 あの時に、あんな綺麗な景色を見たから、だからがんばって勉強して、A高へ入ろうと思ったの」
 今、梅子は部屋にいる。ベッドで布団を被って。俺? 当然……。
「……どうじでわだしだけ風邪ひくの……」
 ベッドサイドの椅子に座って梅子の看病中。いつもとは違う真っ赤な顔、切れ切れの声の梅子。
「俺は鍛え方が違うんだ。俺、梅子が病気になったら絶対看病するって思ってたのに、梅子俺の見てないところで倒れるんだもんな……」
「……ぞんだごど言っだって……」
「いいから梅子。もう寝てろ」
 あの時程苦しそうではなかったが、熱は出ている。梅子はすぐに眠った。ずっと見ていた。ずっとこうしていたかった。前もやったが当然俺が悪い。
 梅子が遼にあんな言い方をしたと、そう気付いた時半狂乱になってまで泣いた理由など分かっていた。
 俺が死んだらどうしよう。梅子はそう思ったに違いない。
 あの時梅子はそれでもなお俺を放って置いた。だからそれを想像してしまって、それで半狂乱になった。俺が死んだら、梅子俺のこと放って置くもなにも、だもんな。後悔なんてもんじゃないだろ? 俺もだ……。
 俺は梅子を重病にまでするつもりはない。すぐによくなると分かっている。誰が梅子に放っとかれるか。粥を作って、それをフーフーしてはい・あ~ん。これも当然俺の役目、義母ちゃんと言えどもう譲る気は無い。
 熱を計った。触れれば分かる、おでことおでこを合わせた。もう、大分引いた。
 とはいえまだ治りかけ、悶絶手前までは厭々我慢、さきっぽだけのキス。照れる梅子が厭と言っても汗を拭くのは当然俺、パジャマを着せ替える。あと一晩このまま寝かせればもう大丈夫。それを見計らって梅子に言った。
「あんなふうに雪まみれにしたのはわざとだろ? 当然だ。梅子病気となったら突然重く出るからな。少しずつ出していた方がいいんだ」
「……」
「俺? なるわけないだろ。病気? 怪我? なにそれ」
「……」
「どこからそんな発想が出て来るんだ? 俺は自惚れが過ぎると言ったろ。プライド高いんだ」
「……」
「俺が梅子を放っとくわけないだろ。だがな、梅子はとことん心配性だ。俺、梅子に心配される覚えないけどな、梅子が安心するならと思って厭々妥協した。梅子、前にも言ったが、もしなにかあったら前野の女房がうちへ来る。だからもう、あんな風に泣くな」
「……」
「いいか。俺は梅子を絶対放っとかない」
「……」
「……信じないか」
「……しんじる……」
「本当か」
「ほんと……」
「そうか……?」
「信じて、くれない?」
「なら俺のこともう心配するな。遠慮もするな。梅子。俺を信じろ。俺に溺れろ。俺だけを見ろ。俺に惚れて、……俺を愛して」
「……うん、うん、斉志」
「梅子。愛してる」
「……愛してる、斉志」
 梅子はまた眠った。起きる頃には、もう大分治っているだろう。

斉志

 南の島、京都から帰った後の、うちで。
 ベッドの上で、プールが一階店舗の真向かいにある、という話をした後、今度はこんな話をした。
「俺には怖いものがあるんだ」
「え?」
 そんなものなどなにもない。梅子は俺をそう思っているだろう。
「俺は、俺がいなくても大丈夫、独りで生きてみせるからって言い切れて実行出来る梅子だけが怖い」
 きっと今も……いや、俺に分からない程深層心理で、いつもそう思っているだろう。
 独りで充分生きられると。
 俺なぞ要らんと……
「俺は恐怖に馴れることは出来ん。俺が怖いのは、恐ろしいのは後にも先にも梅子だけだ。発信機なんざ体にしか付けられん。扉で、壁で、ガラスで、塀で、……なんで閉じ込めても、梅子の心が俺にないなら……もう、俺……」
 否定出来ない梅子。
「梅子に……暴力で恐怖を刻めても……俺の恐怖は取り除けん。だから怖い。だから慣れん。未来永劫永久に。
 梅子。……俺の、……こと」
「アイシテル」
「うん。……俺も、……俺は、それだけだ。梅子に惚れる以外、なにも……」
「せいじ」
「……うん?」
「せいじにはうめこがいます」
「……うん」
「うめこにはせいじがいるの」
「……うん」
「アイシテル」
「うん」
「せいじ」
「うん?」
「こわかったの」
「俺が?」
「うん」
「……やっぱり……許さない、か」
「ちがいます。わたしに愛想尽かされて、どっか行っちゃわれることがです」
「……そりゃ、……俺が梅子にいつも思っていることだ」
「でもせいじはそんなことしないもん。出来ないもん」
「当然だ」
「じゃあうめこも当然です」
「……」
「わたしね」
「……うん?」
「斉志はね、わたしにそうだって、信じさせてくれたでしょう。おばかなわたしに根気強く忍耐強く教えてくれたでしょう」
「……梅子はなんとかじゃないって言ったろ」
「わたしは斉志のだから、わたしだって斉志に教えるのが当然でしょう。放って置いたりしないで」
「……」
「でも放って置いた。根気も忍耐も全然なくて、信用出来ないことばっかり言ったりやったりしまくって。だから斉志がわたしのこと怖がるの当然だと思う」
「……」
「反省、……なんかじゃ全然足りない、わたし。……だからおばかさんなんです。どうだー……」
「……そんな勢い無いどうだはないだろ」
「信じてって。斉志いつも言うでしょう。斉志は言えるの。ちゃんとしてるから言えるの。……わたしはなにもしてないから、言っちゃだめなの……」
「……」
「斉志が、怖がらないようになりたい、……なり、ます」
「……なる?」
「うん」
「じゃあ……」
「うん」
「修業さぼれ」
「うん」
「ぐーたら寝てろ」
「うん」
「プールでぷかぷかだ」
「うん」
「お散歩ぐるぐるだ」
「うん」
「飯抜くな」
「うん」
「長湯するな」
「うん」
「ちゃんと歯磨いて」
「うん」
「電話出て」
「うん」
「きらないで」
「うん」
「夜中に宿舎抜け出すから、ヤるから、梅子厭がらないで」
「そんなこと絶対思いません」
「……よかった。じゃあCDいいから。本もいいから」
「うん」
「けどな、梅子音を聴くといつもうとうとするだろ。腹と尻出しちゃ駄目だ。たまに出てるぞ尻。ショーツ見えてる」
「ぅ。……うん」
「俺のこと好き?」
「すき」
「アイシテル?」
「アイシテル」
「惚れてる?」
「ほれてる」
「愛想尽かさない?」
「なにそれ」
「ひとりにしない?」
「しない」
「ほっとかない?」
「ほっとかない」
「逃げない? 離れない? 置いてかない? 怖がらない? 怯えない?」
「どこにも行かない。くっついちゃう。おっかなくない。斉志スキ」
「……浮気しない?」
「しない」
「……よかった」
「うん」
「……じゃあ、……信じる」
「うん」
「……じゃあ、……たまに修業していい」
「ぅ、……うん」
「あのな梅子」
「うん?」
「掃除な。梅子……尻ふりふり振ってヤるだろ。俺いない時電話以外誘うなって言ったろ」
「あのー……。ハイ、ふりません」
「飯な。梅子……つくるときハナ歌歌うだろ。そりゃいいけどな。……このあいだちゅーちゅータコかいななんざ歌いやがったな……」
「あのー……」
「何にちゅーする気でいやがった。あんな食材はもう二度と揃えんからな。浮気者」
「どうしてーー!!」
「どうしてもだ」
「してません。うのつくのしてない。したことない。しない。ぜーーーったいしない」
「当然だ!」
「ぅー。ぅー」
「なんだその抗議のうーは」
「ぅー。ぅー」
「なんだと言っている」
「……ぅー」
「なんだ」
「……わ。わたしをうたがう、なー……」
「……うん」
「よかった」
「梅子」
「うん?」
「こんなんな俺のことスキスキアイシテルな?」
「うん」
「……こんな、……この星一番の嫉妬野郎が、……いいんだよな」
「うん」
「……その」
「うん?」
「……俺、……鬱陶しいか」
「なにそれ」
「……本当に?」
「うん」
「じゃあ、じゃあ……その」
「うん?」
「……」
「なに?」
「……」
「言って」
「……」
「ぜんぶ言って」
「……俺の。こと」
「すき!」
「俺。……を」
「?」
「……赦して欲しい」
「うん」
「……本当に?」
「うん。いいって言ったー」
「……いたかっただろ……」
「うん」
「……も、……もう、顔も見たくないって、思っただろ……」
「死ぬかもとは思った。でももう、昔の話」
「……言えよ正直に。なんとかって思っただろ。だから家出てったんだろ……」
「なんとかって思われたから、ここにいちゃいけないとは思った」
「嘘だ。梅子嘘吐いてる。分かるぞ。分かるって言ったろ。赦してない、なんとかだ、面も見たくない、土下座なんかで誤魔化すな、後から言い訳しやがって、いつも庇わないで酷い目遭わせてこの野郎って思ってるの分かるんだよ!!」
「思ってない。しんじて」
「……」
「斉志が信じてくれなかったら、わたし、もういい」
「……そんなこと言うな」
「じゃあ質問です。斉志はあのときなにしてた?」
「……。梅子のなか、……入れたらすぐ激痛走ったの分かった。すぐ後悔した」
「それで?」
「止めなかった。ヤれなくなるまで壊してやろうって。狂った」
「それで?」
「ああ俺こんなことしてたらなんとかって思われるって、そしたらそう言われるって、気付いて怖くなって急いで抜いて居間へ逃げた」
「それで?」
「梅子が背後通って家出るまでに、なんとかって言われるの怖かった」
「それで?」
「言ったら多分その場で殴って鎖に繋いでた」
「それで?」
「言われなかったからほっとした」
「それで?」
「けど一言もなくて、面も見たくないんだって、俺と話すのも厭なんだって」
「それで?」
「三番駅に迎えに来たやつに連絡した。梅子生理だ、なのに口切る喧嘩して追い出した、迎えに行ってくれって」
「それで?」
「梅子いなくて、うんと寂しくて、俺の部屋行ったら真っ赤だった」
「それで?」
「このまま俺死んじまえと思った」
「それで?」
「とってもそこいられなくて、けどそのままにしたくなくて、べっとり血のついたシーツとかパジャマとかタオルとか全部取っ払った」
「それで?」
「ブ、ブラあったから。か、……形見だと思った」
「それで?」
「鉄、……だけじゃなくて梅子のにおいして、けどそこいられなくて、……居間まで引っ張って持ってって、ずっとそれ、……握り締めてた」
「それで?」
「夜になったら遼が遊びに来た。一発でバレた。殴られた」
「それで?」
「そのまま、休みおわる日までそのままいた」
「ずっとあそこにいたの?」
「うん」
「お寝むした?」
「ううん」
「ちゃんとお寝むして」
「うん。する」
「ご飯は? 食べなかったの?」
「うん」
「ご飯抜いちゃだめ」
「うん」
「ちゃんと食べて」
「うん。食べる」
「それで?」
「迎えに行かせたやつに連絡とって、梅子どうだって訊いた。教えて貰えなかった」
「それで?」
「学校行った」
「それで?」
「休まなかったのは、梅子の隣のやつ俺と梅子のこと気付いてたから、ひょっとしたら俺のとこ来るかと思って、その時休んでたらどうしようって、言い訳ばっかり考えてて、それで」
「それで?」
「次の日は梅子の姿が窓ガラス越しに見えた。隣のやつが来た。顔色が真っ青だって。なにも言い返せなかった」
「それで?」
「その日梅子の姿もう見えなくて、放課後部室に来る姿も見えなかったから、早退したんだなって思った」
「それで?」
「次の日朝梅子いた」
「うん」
「放課後部室に向かってた」
「うん」
「だから正門通って帰ると思って正門で待ってた」
「うん」
「梅子来た」
「うん」
「時計してた」
「うん」
「なんで?」
「うん?」
「なんで時計してた。それだって見たくもなかっただろ」
「さわりたくなかったから放って置いてただけ」
「──」
「でもね」
「いい。やっぱり梅子俺のことなんとかだ」
「ちがうもん」
「違わん。もういい。聞きたくない」
「聞いて」
「──聞く」
「せいじぎゅってしたら、せいじのにおいしてね。なんかね。へんだけどね。……懐かしかった」
「──」
「でもね、しんぞうのおと聴こえなかった。ちょっとこわかった」
「停めてた」
「え」
「停めてた。全部。俺死んじまえって思って」
「そんなことできるの……?」
「してた。死んで詫びるしかないと思って」
「もうしないで」
「──しないで、いい?」
「二度としないで」
「じゃあ、──しない」
「せいじは?」
「うん? ああ、梅子のにおい、か。した。うん──懐かしかった」
「そうか」
「うん」
「それで?」
「梅子、梅子謝るなって、土下座止めて、ああ俺全然反省してないと思われた、頭下げてそれでお終いにされそうだって思われたと」
「違うもん」
「は?」
「ちがうもん」
「……なにが違う」
「あのねえ、斉志ちょっと自覚ないですよ」
「なんの」
「なさ過ぎです」
「だからなんの。……色っぽいとか格好がどうのか? それじゃないよな」
「まわりにひとがいたでしょう。そんなとき色っぽくてかっこよくて凄いひとがその他一名おバカさんにそんな目立つことしたら、わたしが“お前こんなとんでもないひとになにさせているんだ”って言われるんですよ」
「……」
「わたしは厭なこと言われるのうんと厭なひとでしたので。だから止めました」
「……」
「それで、人気のないとこに引っ張ったの」
「……」
「せいじのばか」
「うん」
「だからわたしおこってあやまるなって言って、厭々事情を説明したの。もしまたあんなふうにされたら騒いでやろうと思いました」
「うん。……騒ぐって思っていたのは分かってた」
「まったくもう。あんなつまんないことで過剰反応しないで下さい!」
「……ごめん」
「おこったー」
「……うん。ごめん」
「まあ、なんかへんなひとだなーと分かってもついてったわたしも悪いけど。あのねせいじ。あーんなどうでもいいぺっぺなひととクラス一緒だったでしょう。どうだったの?」
「……あのな」
「うん」
「そいつな」
「うん」
「笑い種なことにな」
「?」
「坂崎が俺のところへ来ただろ。その時な、そいついなかったんだよ。俺のクラスに」
「??」
「まあ聞いて梅子。そいつはどう見てもプライド高そうな俺を止めてしてやったりと思っていただろうが、なにを考えたのか次の休憩時間さっさといなくなってな。まあどうでもよかったが、そしたら坂崎が俺のところへ来た」
「うん」
「その時、そいつがいたらこう言えた筈なんだ。そんなセリフは聞いたその時その場で言え、なんだ今更言いに来やがって、とな」
「そうかな」
「俺だったら言ったぞ。そしたらな、ほら坂崎頭いいだろ、プライドも高いしな。坂崎もコケに出来る絶好の機会だったのに出来なかった。間違いなく後で地団駄踏んだな」
「ふめふめー」
「俺のクラスは坂崎が来るまで、こういう雰囲気だった。
“あんたの邪魔者を自分達が追い出してやったぞ、さぞせいせいしただろう、感謝しろ”
 ってな。まあ最低だった」
「むー」
「うん。ところが坂崎が来て、そういう雰囲気を一掃してくれてな。今度はこうなった。
“自分達が無実の人間を追い出してしまった。それどころか勝手に総代の名を語ってしまった。総代から糾弾される。どうしよう”
 ってな。実に最低だった」
「うん」
「だろ。ところが坂崎の直現場に居合わせなかった人間もいることはいた。そいつらは全員、何故突然雰囲気がガラっと変わったのかさっぱり分からないだろ。どうなっているんだ、誰か教えてくれよって態度でな。慌てふためいて狼狽えていた。そういうやつはC組にも何人かいた。どうでもいいやつもその一人でな。笑ったよ俺。大笑いしたくて仕方がなかった。ザマーミロと言いたくてしょうがなかった」
「いっちゃえー」
「うん。けどな、誰が説明なんざしてやるか、せいぜい慌てふためけと思ってな。無視して村八分にしてやった」
「やれやれー」
「村八分にされたやつらの滑稽さと言ったらなかった。授業おわったら全員クラスを出て行ってな。俺の目の前でなにがあった、どういうことだ、なんざ情報収集出来ないだろ? さぞ陰でコソコソ嗅ぎ回っていただろうな。せいせいしたよ」
「うん。した」
「だろ? まあそんなもんだ。これで文化祭のヘマが無かったらよかったんだけどな」
「……どうして言ってくれなかったの。ばかー」
「そりゃ言う筈が無い」
「むーーー!?」
「言ったら梅子自信持って、そうか自分は綺麗で可愛いんだって自覚しちまって、ヘマばかりする俺なんざさっさと愛想尽かしてどっか行っただろ俺置いて」
「しないってば!!」
「とにかく当時はそう思っていたんだ。ところが梅子は俺を置いて」
「しないったら!!」
「どんどん可愛くなっていった。無茶苦茶綺麗になりやがって。止めようがなかった」
「……」
「止めないで下さいって言え」
「……トメナイデクダサイ……」
「うん。止めない」
「……ヨカッタ」
「うん。……あのな梅子」
「?」
「俺より先に言うな。……アイシテル、とか、感じたとか……」
「言いたかったの!!」
「……うん。分かった。安心して梅子。絶対梅子に俺以外入れないから」
「とうぜんです!」
「全く、……処女だったくせに……どこからあんな殺し文句をあんな場面で言うなんざ発想が出て来るんだ。更にアイシテルだ。そんなに梅子俺のこと浮かれて舞い上がらせたいのかと再認識したよ」
「さいにんしき……」
「別な意味で心臓停まったぞ俺」
「ぅぅー……」
「いつもだ。俺、いつもだ。……二親に貰った才能に胡座をかいて、惰性で生きて来て……ああ俺、梅子がいる限り人間でいられるなって思ったよ」
「……」
「逢えてよかった。梅子よく雪遊びしに来てくれたよな。俺うんと嬉しかった」
「……」
「なんだ」
「……」
「またつまらん誤解をしていやがるな。遼の相手がどうのだろ。あのな梅子。梅子に対してじゃないが、ちょっときつい話をするぞ」
「……イヤ。ききたくない」
「聞く」
「……ぅぅ……」
「俺はあの時点でも島国一番が取れたが、面倒だから放って置いて、せいぜいあの狭い管内で一番程度にしてやっていた。県内ですらもなくな」
「なんっっってイヤな話なんでしょう……」
「坂崎も遼もそうだが、そんな手抜き満載の俺に、どいつもこいつも敵わなかった。成績という意味では、俺は同級なぞ眼中にもない」
「ぁぅー……」
「加えて俺は大の堅物硬派だ。我ながら、下手をするとお袋すらのっぺらぼうのハエと思ったかもしれん」
「むー!?」
「まあ、そりゃさすがにむーだけどな。とにかくその位だった。当然、狭さだけが自慢の地域でやっと二位か三位なんざ問題外のケシズミだ」
「……くちわるいですせいじ」
「俺はこんなに偉いんだ、気遣ってやったぞ有り難く思えケシズミとイヤミをかましたらあのザマだ。……俺は梅子に逢えて人生最高の瞬間だったが梅子にしてみりゃ地獄の開始日。……後悔なんてもんじゃなかった」
「……そんなことないんだけど」
「まただ。いつも俺、そうやってなじられもしない。いつも梅子ひとりで抱えて、全然本心晒さないで……あのな梅子。梅子おっかないぞ」
「むー!?」
「じゃ詰れ」
「……」
「なんで来てくれなかったってちゃんと言え。……そればっかりだろ俺」
「……なんできてくれなかった、のー……」
「よくぞ訊いてくれた梅子」
「あのー……」
「雪の日教室を飛び出して告ってプロポーズして、そのまま実家へ乗り込んで、いつものごとく問答無用、無理矢理同居するとだな」
「あのー……」
「大嘘話なぞ出もせん。ということはだな」
「?」
「すぐ次の問題が浮かび上がる。つまり、俺は梅子に勉強を教えられん、というあれだ。教えられんならまだしも、俺は確実に梅子の勉強の邪魔をした。なにせひとつ屋根の下だ。間違いなく梅子の部屋を改装して防音にして勉強なにそれで毎日毎晩ヤりまくった。そうだろ」
「……ハイ……」
「俺はひとり惰性で余裕綽々総代だが、梅子はまあ……箸にも棒にも引っ掛からん」
「ひどいーーー!!」
「俺、それだけは分かっていたんだ」
「ヒドイデス……」
「後で梅子が友達ひとりだと調べ上げた時、五中の学校側も噂についても書いてくれりゃよかったんだが……とにかく、ケシズミとは言え遼より成績がよかった。ちなみに余談だが、そんなの同士が付き合うとはまるで思わなかった。遼プライド高いからな、俺に言わせりゃ大した違いの無い点差を実にかなり気にしている。いい気味だろ」
「あのー……」
「ケシズミが野郎だったら調べた時点で命はない」
「あのー……」
「そうじゃなかったからな。これで梅子の成績が落ちたら五中へ殴り込んでそいつのせいにして殴り倒した」
「……くちわるいといいました」
「上がったからな。しかも百番。またも勝手に調べた結果、下らん友誼が開始されたのはせいぜい一ヶ月前。雪の日からでも二ヶ月程度。全て梅子の努力の賜物だ、せいぜい足を引っ張るなケシズミと思って非介入だった」
「……うんとくちわるいです」
「そうやって頑張っている梅子に俺が逢いに行けばどうなるか。同居じゃなくて同棲と思われ、実際そうで、そうすりゃ周りに下らん厭なこと梅子が言われ、挙げ句の果てには受験に落っこちる、と思ってだな」
「放って置いたのですね」
「うん」
「ひどい」
「うん」
「ひどいひどい斉志。おこったー」
「うん」
「おこったから修業します!」
「……またそれか……堂々巡りだな……不安になるって言っただろ」
「どうしておうちちゃんとするのが不安なの?」
「俺よりなんでも上手くなるだろ梅子!! 部活の時みたいにうんと集中して、最初は全然知らなくてもうんと上手くなって、仕舞いにゃ職業にまでしやがるだろ!! そうやって俺から離れて俺置いてひとりで生きて、挙げ句浮気しやがるだろ!!」
「堂々巡りですーー」
「だったら修業するな。あのな梅子。そんなにぐーたら厭か?」
「すきです」
「……浮気者」
「どうしてーー!!」
「俺にぐーたらまで嫉妬させるな。厭かと言われりゃ厭か厭じゃないかだ、俺だけだろすきは!!」
「うん。……ごめんなさい」
「よし。怒った。許すから修業さぼれ。堂々巡りも開き直りもなしだ、いいな!」
「……ハイ……」
「何かへんな話をしてるなと思ってるだろ」
「ハイ」
「うんだ」
「うん」
「へんに決まっている」
「む?」
「俺と梅子ふたりして同じこと怖がってるだろ。なんとかって思われて愛想尽かされて、独り放って置かれるって怖がってるだろ。これがへんでなくて、なんだ」
「ぅぅ……」
「んなもんもう二度と考えるな。俺も考えん。言わん思わんなにそれだ。梅子もだ。いいな!」
「うん!」
「よし。これで安心して職に就けるぞ俺」
「……」
「なんだ」
「……こわい?」
「梅子がこわかった」
「……。えー。何かこう、就職するにあたり、環境が変化するので不安でございますとか、そういう何ていうかがあったって」
「この俺にんなもんあると思うか返事はううだ」
「ぅぅ……」
「あのな梅子。梅子の亭主を見縊るな」
「……そんなことしない」
「当然だ。信じてるな?」
「信じてます」
「よし。じゃぐーたらしてろ。今から俺が掃除して飯をつくる」
「え」
「なんだ」
「斉志が、ですか」
「そうだ。間違っても梅子が、じゃないぞ。俺がだ」
「一緒に、じゃなくてですか」
「そうだ。俺だけが掃除して飯をつくる」
「……」
「これも練習だ梅子。いつもだったらヤりまくって悶絶させてから家事してたけどな。意識は持たせる。さ、梅子。ベッドでぐーたらだ。尻振らずに這って行って」
「あのー……」
「なんだ」
「どこの世の中に汗水垂らして稼ぐ亭主に家事をさせて、ぐーたら寝こける女房がいるのでしょう……」
「このうちに梅子がいる」
「あのー……」
「梅子。甘えるとはどういうことか、この星一番の甘えん坊なこの俺が教えてやる。さ、行って」
「……ハイ。あ、あでも……」
「なんだ」
「どうして這っていかなくちゃいけないのでしょう……」
「決まっている。丁度四つん這いになるからな。剥いてズドン一発だ。悶絶してろ」
「れんしゅうはどこに……」
「だったら行く。ほら」
「……」
「なんだ。おひめさまだっこで連れて行けか。それヤったらどうなるか分かっているな」
「もんぜつです……」
「担ぎ上げたら?」
「もんぜつです……」
「だっこで連れて行くと?」
「押し倒されます……」
「手を繋いだ時は処女だったな」
「ハイ……」
「だからだ。梅子な、あんまり尻ふりふり振って歩くな」
「……」
「ほら。ほらほらほら」
「……はーい」
「うんだ!」
「うーん」

梅子

 お掃除のおとがきこえます。ベッドでぐーたらきいてます。こーーーんな事態にだけはならないようにとひそかに誓った新婚ほやほやのうめこさん。きみの発想はへんでした。
 ぅぅ、夢やぶれたり……
「せーいじ」
「なんだへんな発想の梅子」
「あのー……」
「落ち着け。ふんぞり返ってぐーたらしろ。うとうとだ。お寝むだ梅子」
「あの、……ね」
「うん」
「がまんできない」
「トイレか」
「ちがいます……」
「俺は嬉しいぞ。実に嬉しい。俺の夢が今正に達成されている。頑固な梅子をぐーたらさせて、俺が汗水垂らして稼いでいる。実に正しい姿だ」
「……ぅぅ」
「これが当然だ。当たり前だ。日常だ。梅子、うとうとしろ」
「ぁーぅー……ほんとは、ほんとは……」
「なんだ」
「わ、わたしのゆめはー」
「今この通りだろ。ああ、剥いてヤれか。分かっている。飯食ったらな」
「きいてくださいー……」
「分かった。聞く。言え」
「せいじの。およめさんになることです!」
「いつそう思った」
「え?」
「いつ嫁になりたいと思った」
「……いつだと思う?」
「初めて電話掛けてくれた日だろ」
「……どうしてー……」
「顔にな。声もだけどな。俺好きだって、憧れてるって書いてあったよ」
「ぅぅー……そのとおりですーー」
「それで? 俺に惚れて嫁になりたいとまで思ったくせに振りやがった梅子の夢はなんだ」
「ぁぅ。ごめんなさい」
「なんだ。ああ、当ててみせろか。どうせ義母ちゃんみたいにかいがいしく家事するってそんなもんだろ」
「そんなもん……」
「俺が義親父さんみたいに疲れてうちに帰って来るから、せめてたまの休みはのんびりして欲しい、その間梅子が義母ちゃんみたいにきりきり家事をするってそう誓って修業したいなんざ言ったんだよな」
「なんざ……」
「俺は梅子がつくった飯が食いたい一心でいいって言ったけどな。……うちにいて欲しいからといって、なんで俺梅子に掃除なんざさせたんだ? 俺のバカ」
「あのー……」
「何かしなくちゃ、することがあるって梅子思ってくれたら、そしたら梅子うちにいてくれるかなと思っておっかながって怖がって……俺のバカ」
「……ぅぅ……」
「梅子」
「うん?」
「プラネタリウムに行きたいと思っているな」
「参りました」
「当然だ。どうせ南の島で観られる筈だがヤられまくって全然夜空を観られなかったどうしてくれるんだこの野郎、服剥かれないとこ連れてって観せろ馬鹿野郎って思っているだろ」
「……思ってません。せいじ。くちわるいです。なおして」
「分かった。直す。ところで梅子。日中以外もお散歩したいと思っているな」
「返事はぅぅです」
「当然だ。が、却下だ。俺がいる時だけだ。分かったな」
「……うん」
「ぬくぬくか」
「ぬくぬくです」
「だったら寝てろ。いいから」
「……おと。ききたい」
「分かった。聴いてろ」
「……うん」

斉志

 俺は間違いなくここまで無邪気で……愛しい梅子の寝顔を守る為に生まれて来た。
 何故梅子は音を聴くと安心するのか。
 何故俺は梅子が熟睡すると安心出来るのか。
 何か理由があるのかも知れん──生まれる前に。

「梅子」
「うん?」
「梅子が俺に謝るなと言ったのは、俺の土下座が周囲にどうとられるか、影響力を考えなかった俺を諭す為に、なんだな?」
「? えっとー、……うん、そう」
「……じゃあ」
「うん?」
「……じゃあ、どうして……二人っきりの時謝ろうとした俺のこと止めた?」
「ずっと一緒にいたかったから」
「?」
「……謝らせなかったら、……斉志がわたしのこと愛想尽かしても」
「誰がんなもんするか」
「……尽かした、ら。……あれはどうなんですーって、おどせるかなと思いまして」
「……」
「ずるいでしょう」
「ずるくない」
「どうして」
「あれは俺がどう言われても、どうされても梅子の腹三寸だ。怒ってなんとかしてかんとかするのが当然だ。高三の時、ああ言われたけどな、……そうだろう、やっと言ったかと……むしろ納得したよ」
「……」
「梅子は俺に、放って置いたのに迎えに来てくれたとは言ったがな。実態は梅子だけが暗黒の三年弱だった。未成年だったのに昼夜問わず、ずっと汗水垂らして稼いで、厭な思いばかりし続けて、そうだと分かっていたのに助けてもやれなくて……梅子よく俺と結婚してくれたよな」
「それはわたしのせりふです」
「なんで」
「高校三年のとき、いやみったらしく無視したでしょう斉志のこと。影響力ある、みんなの見ている前でこれみよがしに。さらにお休み取りませんでした。取ったらくびになったけど、確かにイヤなことばっかりだったから、取った方がよかったのにね。でもそしたら、斉志来ちゃうし。斉志来ない職場、たぶんあそこしかない。逃げたもん。いまやってること全部せいじが心底厭がることって分かっててもし続けたもん。さぞ愛想尽かしただろうと思ったのに、迎えに来てくれて……うれしかったな……」
「そう、か」
「うん。……おこってる?」
「なにが。俺は怒っていいことなぞ一度もなかった。いつも俺がヘマしていたのに勝手にキレまくっていただけだ」
「そんなことないもん。……おこってるでしょう、いやみったらしく無視したの」
「ああ……。あれか」
「……うん」
「いいやり方だ」
「へ」
「下らんことを、直接俺には絶対言わず、俺のいないところで梅子にばかりがなり立てる。酷い目に遭う場面をその目で見ても手助けせん。それが下らん奴らだ。これに該当しないのは論外の二人だけだ」
「……」
「つまり俺もだ」
「違うもん!!」
「……違わん」
「違うもん。同じにしないで。斉志は絶対、違うんだから!!」
「……いい、のか」
「いいとかじゃないです。斉志は違うんです。同じにしないで。そう言ったでしょう。わたしの言うこときくのだせいじ! 分かったか!」
「分かった。聞く。俺はさっぱり全然全く違う。なんとかでもかんとかでもない、梅子の亭主だ。それでいいんだな。……ああ、違うか。俺はこの星一番のグータラ女房な梅子の、この星一番のボンクラ亭主だ」
「そうです!」
「うん、梅子。……あのな。俺、こんなんだろ。この星一番の嫉妬野郎な俺がな、隣のやつに対しては一度も嫉妬したことがないんだ。しようとも思わん。慶はいいとも言ったろ。だからな、この二人については、これから先も論外だ。いいな」
「……うん」
「だが他の、下らん奴らは全員梅子を妬んだ。俺が梅子を嫁にしたんだ。なのに奴らは自分達の努力が足りないだけなのに、梅子はひとり楽をしたくて俺に取り入ったなぞ思いやがった。こう思ったのは知っての通り実家の二親も、遼も、遼の相手もだ」
 この意味が分からん梅子ではあるまい。思った通り、反論なし。
「梅子は遼の相手を随分気にしていたようだが、前も言ったがそういう意味でもケシズミだ。遼もな。この二人は比較的近所に住んでいるが、弟子で親友の梅子に自分から会いたいとは絶対に言い出せん。そういうことをしたからだ。他の下らん奴らと同様に。
 梅子はこんな下らん奴らを全員黙らせた。誰の力も借りず、全てを敵に回し、たったひとりで立ち向かった。鮮やかだったよ。
 また惚れ直した。だから合同の時も、文化祭の時も、むしろそのままでいてくれと、俺を無視し続けろと、そう思っていたよ。卒業式に来なかったのも実によかった。いい判断だ。休みを取らなかったのもだ。俺に付け入る隙を一切与えなかったのもよかったし、そうだと周囲の全てに思わせた。梅子の影響力はこの星一番だ」
 黙って聞く梅子。損するタイプの梅子とはいえ反論なぞさせん、なにせ全て本当の事なんだからな。
「梅子の世間的立場が確立されたのは、後で調べ易いあの騒動だけじゃない。雪の日から結婚するまで七年弱、ずっと梅子が努力して来たからだ。与えられた才能、上っ面、そんなものなど関係なく、ただひたすら個人の本質のみで。
 俺はそうやって、たったひとりで、誰の助けも借りず、誰の後ろ楯もなく全てを切り拓く男になる。ずっとそう思っていたが、雪の日逢って、梅子こそがそうだとすぐに分かった。差が歴然としていた。天と地だった。
 生まれて初めて負けたと思ったよ。
 与えられたものが俺を上回るやつは五万といるんだ。それはどうでもよかった。俺そのもの、本質でこの星一番になりたかった。負けたよ。梅子に。
 俺はあの瞬間まで、惚れハレという感情の無い男だった。負けたと思えば悔しいと、上回ってやると、せいぜい高いプライドが首を擡げる程度、だったんだが。……違った。
 温かくなった。嬉しくなった。ああ、惚れた、って……
 どうだ梅子。俺、人を見る目あるだろ。俺、それはこの星一番だからな」
「むー」
「なんだと」
「わたしもでーす。あるもーーん。わたしがこの星一番なのだーー」
「……よくもそこまで自信つけやがって……。だから梅子は自信家だと言ったんだ」
「むー」
「自惚れ野郎」
「野郎でないです」
「ふんだ」
「なんだとー」
「なにがふんふんだ。あのな梅子。……あんまり可愛くなるな」
「……とめないって、言った……」
「そうやって照れるのはいいがな。……あんまり綺麗になるな。俺、置いて行かれるって、……思うんだぞ……」
「……むー。じゃあ、……じゃあせいじ、もっともっとかっこよくなって」
「分かった。俺、かっこよくなる。いろっぽくなる。すごくなる」
「ふふふ……」
「なんだその、……にたにた笑いは」
「みたい」
「……そう、か?」
「うん。みたい。ずっと。ずっと一緒にいて、おはかの下でもずっといるから、ずっとずっとかっこよくなってね」
「よし。俺を見ていろ梅子。翔べなくなっても、どうなっても、ずっと……」
「うん」

 後日、うちで。
「梅子。俺、お願いがある」
「うん! 言って、斉志」
「いい?」
「うん! なんでも言って」
「俺、こんなんだろ?」
「こんなんな斉志がいいって言ったーーー! わたし、斉志にな」
「梅子。俺になにされてもいい、なんていうのはな。俺に厭なことされたら梅子がひとり抱え込む、って言ってるようなもんだぞ」
「……」
「そうだろ」
「……あの」
「梅子。言って。梅子は厭なこと以外は俺になにをされてもいい。ただし俺に厭なことをされたら梅子ぷりぷり怒るって。言って。梅子」
「……」
「でないと俺、梅子がまたひとりで抱えてるって思うぞ」
「……」
「俺のこと安心させて。梅子」
「……」
「……な」
「……、……。うん。えっと……わたしは、斉志に、厭なこと以外はなにされてもいいです。厭なことされたらぷりぷり怒ります。えっと……お白州!」
「そうだ」
「……うん」
「じゃあ言うぞ。梅子。今から庭を散歩して来て」
「え」
「練習だ梅子」
「……え」
「俺、ここにいるから。梅子」
「厭!!」
「梅子」
「厭、厭、厭!! ひどい斉志、いま厭なことされてる、わたしのことひとりにしないで!!」
「お願いだ。梅子」
「厭!! 絶対厭!!」
「梅子。最上階を改装した時な。あの扉も代えた」
「なに言われても厭、絶対厭!!」
「緊急時以外は晴天の日、午前十時から午後二時の間、俺が許可した服を梅子が着ていた時に限り、梅子があの扉前に立てば自動的に開く」
「厭。絶対厭」
「梅子がボタンを押した時も、梅子があの扉前に立てば自動的に開く」
「厭ったら厭」
「俺が開ける必要があると判断したら、梅子がどこにいようが開く」
「厭」
「だから梅子があの扉に手を掛ける必要は無い。絶対に」
「厭」
「行って来て、梅子」
「厭」
「そしたら俺は安心して職に就ける」
「──ずるい」
「そうだ。だから一階店舗も見て来て」
「厭」
「梅子。俺は安心したいんだ。俺が職場でどうしても動けん、どうやっても連絡が取れん状況がずっと続いても、梅子はきっちり判断して、ちゃんと俺を待てていると安心したいんだ」
「──」
「そんな事態になったら俺はちゃんと梅子に尻ペンペンされる」
「──」
「この俺がペンペンしていいと言ってるんだぞ」
「──」
「俺は梅子に教わった。何事も緊急時はあると」
「──」
「梅子。俺のこと信じて」
「──」
「梅子。俺の……こと?」
「──アイシテル──」
 厭々離した。
 梅子は一旦扉前に向かうが、開く場所までは行かず、戻って来る。まゆげをハの字にして、恨みがましそうに見上げて、涙ぼろぼろ零して。
「せ、せいじ」
「……うん?」
「こ、こわい、こわい、せいじ、携帯貸して」
「うん」
 手渡す。
「で、でんわ、──どすればいいの」
 教えた。梅子は一度で憶える。梅子は涙をぬぐいはしない、決して。
 扉前に立ち、開く。俺のことずっと見ながら……扉向こうへ行った。
 すぐに白電話が鳴った。
「せいじ、せいじ、こわい、こわい」
「うん、うん……」
「せいじ、せいじ、え、えれべーたのと、とびらも、あ、あくの」
「うん……」
 梅子があのエレベーター前に立てば開く。ボタンを押さない場合は一階へ通ずるエレベーターが。押した場合、俺が判断した場合は両方。
「い、いま、え、えれべーたーのなか、こ、こわい、こわいせいじ──」
「うん……」
「あ、いま、とまった──」
「うん……」
「え、えっと、い、いっかい、です」
「うん……」
「ど、どこ、いけばいいの」
「真っ直ぐ……」
「う、うん」
 その先は庭。
「い、いま、おにわ、おにわ──かえりたい、かえりたいせいじ──」
「うん……」
「も、もう厭、かえる──」
「うん……」
「いい──?」
「うん……じゃあ、店舗、見て来て……」
「い、厭、だけど──行く──」
「うん……」
「あ、──こ、ここ?」
「うん……」
「あ、あくの──」
「うん……」
 一階店舗の扉は自動扉。ボタンは関係ない。電源を確保出来ずとも手動で開く。
「どう……?」
「ひ、ひろい、です──い、いっぱいあり、ます」
「うん……」
「も、もうかえる、かえる」
「うん……来て、梅子」
「うん、あ、あ、──はしらない──」
「そうだ……」
「ゆ、ゆっくり、かえります──」
「うん……梅子、焦らなくていい……」
「うん、うん、──かえれる、せいじ、うれしい」
「うん……」
「あ、あ、なんか──どきどきしてきた」
「……そう?」
「うん──あ」
「そうだ」
 そうだ。俺、いつもだぞ……。
「あ、あ、──だから?」
「そうだ」
「うん、うん、分かる、せいじ」
「だろ?」
 だからだぞ、梅子……。
「うん! せいじ、せいじ、あ、ううん、でも」
「そうだ」
「うん、うん、CDなんて厭!」
「そうだ」
「え、えっと、えっと、えれべーたーに、のりました!」
「うん、梅子」
「ふいーーんって言ってる」
「うん、梅子」
「あ、とまった」
「うん、梅子」
「はしりません!」
「うん、梅子。俺もだ」
「うん!」
「いまどこにいる?」
「えっとね!」
 そして扉は開かれる。
『アイシテル!!』
 抱き締めて、抱き締めあって貪りあって、下脱ぎあって、叩きつけあって……。

 ベッドで、俺の腕枕で梅子が起きた時、ほっぺつねられた。
「むー」
「愛してるだろ」
「うん」
「惚れてるだろ」
「うん」
「信じてるだろ」
「うん」
「分かるだろ」
「うん」
 それから梅子は本当に泣かなくなった。
 当然、俺が焦らしまくった場合は除く。
「いーーやーーーー焦らさないでーーーーーーー」
「厭だ」
「もう、もう、アイシテル!」
「俺も」

say, Umeko

 この扉を押し開ける前に、梅子がうちにいると分かっている。どこにいるのかも分かっている。
 それでもいつも、この扉を開けると、いつもこういう心境になる。
 これが日常、その始まり。
 ──いた。

「おかえりなさい、斉志」
「ただいま、梅子」
 終わりのない始まりの言葉。
 終わりのない日常の始まり。