大学が再開された。朝の気分はいつも十三階段前で、でもお顔はにっこり、いつも同じ笑顔で。食べて貰えるとほっとする。美味しいって言ってくれてほっとする。歯を磨いて、何故か歯磨きの姿勢を直されちゃったけど。それから斉志は着替え、それを手伝う。いつ見ても照れるけど……。うんと格好いい、なにしてもさまになる旦那さま。服の着こなしがびしっと決まって。シャツを着るその仕草すら格好いい、ネクタイをびしっと締めるその仕草も格好いい、上着を羽織るその空間を切り取ってしまいたいくらい。そうして出掛ける斉志。行って来る、そう言って、わたしが決して手を掛けることない扉から出掛けて行く。わたしの、どう考えても拙いお弁当を持って。
 来年からは夕方に戻って来るなんて有り得ない。転勤とかもあると思うけど、それはわたしが心配しちゃいけないこと。だって南の島ですよ……。心配する方が失礼だと思う……。けど何日も家を空けることあると思う、そういうときはどうするのかな。生鮮食料品とか。その辺に行って買って来まーす、なんていうのは考えてもいけません。だからこれも心配する方が失礼と思って。非常食はいっぱい置いてあるし。
 午前中はひたすらお掃除お洗濯。お昼はお電話を戴く時間です。電話の向こうの旦那さまにおっきな声でお話されるのは勘弁して欲しいので、会話にならない会話になるべく終始しようと誠意努力しております。午後は料理の研究。夕方お風呂に入念に入るのは変わりなし。夕飯の支度をして、斉志が帰って来る音がすれば、扉の前で待つの。おかえりのちゅー、うんと甘い。斉志はこの時期もう未来の職場へ遠征とかはしてないから、先にお風呂へ入る。の、覗きません。お風呂を出るあたりに食事が並ぶように。はい・あ~んで一緒に食べる。あとは斉志は書斎で爆発的大集中。わたしは夜更かしを許されてない。朝ご飯の下ごしらえをおえるともうお休み。子供みたいな時間に眠るのです……。その、……がない時は。生理のときくらいだけど。その、あの……そういう時は斉志はベッドサイドで大集中です。
 それが日常。
 いつも、いつも。それが日常。
 幸せだな、そう思う。
 ずっとひとりだった中学二年まで。ひとりじゃないと知った中学三年。離れよう、ひとりに戻ろうと思った高校一年のたった一日と数時間。それだけで、もう親友を得た。何十人と友人を得た。……お墓に入ってもずっと、そういうひとと逢えた。
 そんなひとを放って置いて。もう厭なこと言われたくないから、そんなことを言い訳にして大切なひと放って置いて。それでも斉志はわたしを迎えてくれた。斉志は愛想尽かされるー、なんて言ってたけど。三年弱無視し続けたわたしのことよく愛想尽かさないでいてくれて。
 斉志がいないとわたし、絶対結婚なんて出来なかった。今頃なにをしていたかな。まだあんなふうに、働いてたかも知れない。よく倒れなかったと思う。……多分、一度でも倒れたらそれでおしまいだった。
 今はそんなこと、ない。もう全然不安なんてない。
 安心してここに居られる。
 逢えてよかった。

喫茶店にて

 斉志は喫茶店は嫌いではない。むしろ好きだ。だが、管内四番駅付近の喫茶店に足を踏み入れる事はないだろう。
 それはともかく、彼はまたも行きつけの喫茶店で、今度は前野に呼ばれていた。
「ごめんね成田、電話で済む話なのに呼び付けちゃって」
「俺はまだガキの学生だ、それはいい。用件は」
「うん。ちょっと気になったんだけどね、奥方殿、不平不満愚痴文句とかちゃんと口に出して言っている?」
 返答など出来ようもない斉志。
「どう考えても成田の奥方殿そういうの性分じゃなさそうだし、となるとかなりまずいよ。不満内に篭らせちゃって大爆発、ってことになると思うんだけどなあ。成田以外に言う人いないのに成田には絶対言えないなんてシチュエーション作っちゃ駄目だからね。ちゃんと聞いて上げて、ちゃんと奥方殿の言う通りにしてあげてね、全部でなくていいから。でないと実家へ帰らせて戴きますとかよく聞く昼メロ話になると思うよ、だって僕のところ実はいつもそうだし。あーなーたーの、稼ぎが悪いから私が? 毎晩遅くまで……下らぬ者達と顔を付き合わせて上げてるのよ? とか言ってるし。それ聞くのはいいんだけどさ。かか和子たまに管内帰って明美さんとかと憂さ晴らししてるんだ。かくいう僕もこうやって成田とかに言う時あるしね。夫婦二人っきりの場合は愚痴のはけ口が必要だよ、お互いの伴侶以外に。夫婦だからこそお互い言えない事を別な人に言って晴らすってこともして行かなくちゃ長くは続かないよ」
 前野をギロリと睨む斉志。お得意の、無言で脅しである。
 だが前野は、どうも家庭内が上手く行っているらしく、斉志の通常技をかわしてこう言った。
「ああ、対論を示せだよね成田は。趣味を持つとかどう? 僕なんか和菓子作りだけどね、全く別な事に没頭出来るのはいいことなんだ。でないと伴侶と言っても家事の出来る同居人に過ぎなくなるじゃない」
 誰だ俺の家庭内をチクっているのは。と斉志は思ったとか思わなかったとか。
「まさかこういうことを言う役、いつも遼太郎にさせてたなんてないよね成田」
 勿論そうでーす。なんて言う訳ないない。
「……どうなの?」

おうち

 夕ご飯をおえて、一緒の歯磨きのあと後片付けして居間へ戻ったらソファに斉志が座ってた。集中力が感じられない斉志が寝室にいないなんて珍しい(……)。どうしたのかな、とは思ったけど、とにかくそばには寄ってみる。後ろから抱きつきはなし、です。
「梅子。少し話をしよう」
「……? うん」
 お話を、ということなら斉志に乗らないで、隣へ座った。
「あのな梅子。なんで最近へんな喧嘩が多いか分かるか」
「ううん……」
「遠慮しまくってただろうが、俺も梅子も……。それが無くなったからだ。梅子が俺から絶対逃げないって分かったからだ。俺? 俺が梅子ほっとくわけないだろ。とにかく、俺も梅子もお白州だ。ヤってる時は喧嘩無し、だから話をする時は厭々隣だ」
「……うん」
「梅子は前、趣味は特にないと言ったよな。……何か持つ気、ないか?」
「? うん」
「……いい、のか?」
「うん。だってわたしがなにか趣味を持って、それにばっかり掛かりっ切りになったりしたら、どうする?」
 梅子の趣味は俺、だそうです。はい、それでいいです。どうしたのかな一体。けど、うん、遠慮がなくなるのはいいことだと思う。心配させちゃいけないもん。

喫茶店に行くのを止めてお電話で

 斉志、電話を掛けておいて無言。
「分かりました。ハイ、僕が悪かったです。ヘタな忠告もどきしてご免なさい。相棒さんは偉いです」
「……」←当然だ
「ところで憂さ晴らしの相手の件はどうだった?」
「……」←そういえば
「成田の女房殿、相棒さんのお相手さんと親友同士だよね。今はまだわりと近所に住んでいることだし。どう?」
「……」←どうと言われても
「ねえ、ちょっとは喋ってよ……」

おうち

「どうしたの斉志」
「……」←どうと言われても
「わたしは楽をする甘えん坊のぐーたら女房です。一緒にお庭へ出るのと月イチ以外ずっとここにいます。それ以外? なにそれ。前に言ったでしょう、わたしの親友なら大丈夫だって。それはわたしの友達にもあてはまります。誰かと誰かがどうなるかなんて当人の判断です。当人がわたしにどうしてもと言ってくるまで詮索なんて絶っっ対しません。はい、わたしや斉志の友人知人親友、斉志の職場の冠婚葬祭とかお付き合いとかはあるでしょう。それに出るか出ないかは斉志の判断に任せます。それに出るのが月イチというならそれでもいいです。斉志のお役目取りません。お葉書とか年賀状はもちろん書きます、字ヘタだけどそういうのは手書きでだもんね。斉志、そんっっっなにわたしに斉志以外のこと考えて欲しい?」

喫茶店に(以下略

「どうしてバレたの?」
「……」←睨む代わりに無言で脅し
「バレバレですか、ハイハイそうです。奥方殿の友人さん達から今どうしてるかとか、お話したい場合どうすればいいのとか相談されてました以前から。もう、ハイハイ、かか和子経由ですルートは。単に楽しく遊びましょうとかそういう気軽なものだってば……。そんなに脅さないでよ、会っといて無言が通常技ってどうですか……。ハイ、奥方殿が一番偉いです」
「……」←当然だ
「分かってます。友人さん達には僕からちゃんと言っておくから。奥方殿関係の相談は成田が受けてね」
「……」←当然だ
「ところでさあ、大学とかで散々惚気るのもいいけど、煽ってるだけだよ。そんな大切な人ならなお見てみたいって思うでしょ。ある意味僕もそうだし。成田の人脈さん達は付き合い冠婚葬祭で奥方殿引っ張ろうなんて思わないだろうけど、敵さんとかは注意してね。当然分かっているだろうけど」
「……」←そういえば

おうち

「うん、職に就いたらおうちにお電話してる暇ないと思うの」
「……」←俺、さみしい
「ちゃんと待ってるから。ずっと待ってるから」
「……うん」←さみしくない
「ふつつか者ですが、末永くよろしくお願いします」
「……」←言葉だけでイっている

おうち

 最近はへんな喧嘩をしてばっかり。もう半年もしないうちに斉志は社会人なのに、こんなことで気を取らせちゃいけない。
 思えばわたしが前職のとき、母ちゃん偉かったな。家のことさーっぱりしないわたしになにも言わないでご飯作ってくれて。ずっと心配してくれてた。わたしなんてそれ、当然、あったり前! なーんて思って顧みることもしなかった。
 当然、なんて役割、ある筈ないのに。
 焦らされるのは厭だけど。わたし斉志の思う通りにするの。焦らさないでって言うと更に焦らして来るからもう言わない。
 へんなことを言って心配させたくない。おうちを空けても大丈夫、そう思われるように、そういうふうにしなくちゃ。斉志は最近ようやっと、わたしは絶対逃げませんって納得してくれたようだし。けどわたしの性格は斉志から逃げる、だそうです。……。結婚してから逃げてないというのにー。……あ、一度避けた。逃げた。大泣き、で。
 ……。
 全然信用ないわたし。信用されることなんてしてないし。逃げ足速いの自慢しちゃったし、結婚後。信じて貰えないの当たり前だと思う。ぅぅ……。けどこれからはそんなことしちゃ駄目。
 おうちを空けても安心、そう思って貰えるようにしなくちゃ。
 その為の第一歩はやっぱり家事のさしすせそ。なんとか、悶絶なし(……)でお食事をして戴いておりますようで良かったです。これが駄目ならいくらなんでも三行半でしょう、ええ、わたしだってそう言います。あとはひたすらお掃除です。別に嫌いじゃないからいいし、ちゃんと運動になっている。編み物とかしようかなと思わないでもないけど、それを着て行った斉志が恥をかくなんて考えたくもありません、へたな考え休むに似たり。
 わたしはおうちの中にずーっといる。うんと安心出来ること。エステ、なんて凄いところに通わせて貰っているし。未だにお店のひとと会話もしてないけど……。
 斉志はいまが試験本番。独身時代はこの時期離ればなれだった。けどもうそんなこと、ない。ずっと一緒。わたしは斉志の思う通り、だからひたすら修業をして。それでその、……な時はえっと、……ええ、時間構わず服を剥ぎ取られます。脱げと言われたらところ構わず脱いでます。お墓に入っても好きにしてと言いましたので、ハイ、いいです……。
 とにかく、母ちゃんのように。なにも言わないでくれて、わたしの思う通りにさせてくれた母ちゃんのように。母ちゃんも主婦だもの。あんなふうに、余計な気を遣わない、空気みたいな存在になりたいな。熊谷先生言ってた、小テストはあって当然、へんに構えるな、普段集中してちゃんと授業を受けていればこんなものは空気のように感じるものだ、って。
 うんと難しい心理だと思ってた。けどわたしももう二十二歳、甘えるなんて歳じゃない。
 斉志には甘えますー、なんて言ったけど。おんぶにだっこは絶っっっっ対、駄目。いつだって、わたしの出来ることをわたしがする。

「最近梅子、冷たい」
「どこからそんな発想が出てくるの……」
「俺の思う通りよがってくれないだろ。焦らすなって言ってくれない。入れてとか来てとかもっととかも言わない。誘ってもくれない。口数少なくなった。倦怠期だ。俺に愛想尽かしたんだろ梅子」
「その文字はもうないはずじゃあ……」
「梅子の辞書にある」
「……ありません」
「俺、また何かヘマした? 梅子」
「……してません」
「俺のこと嫌いになったろ……」
「そんなことない。好き。……その文字もないって言ったでしょう……」
「梅子の辞書にある。ありまくりだ」
「……ないってば」
「そんなに、……生理の時でもヤってやるって言ったの、……怒った?」
「どういう思考経路なんでしょう……」
「話逸す気だな。俺の質問に答えてくれんのか。そりゃ俺はボンクラ亭主だけどさ、……いくらなんでもさ……」
「どう、答えればいいんでしょう……」
「なんで焦らすなって言ってくれないんだ梅子。俺、梅子が真っ赤になって照れまくって泣きじゃくって腰振りまくって俺欲しがるの見たいのに」
「あのー……」
「なんで俺誘ってくれないんだ梅子。俺、梅子に誘われるの特技だって言ったろ……。髪にちゅー、最近全然してくれない。後ろから抱きついても来ない。御無沙汰だ。俺の一番嫌いな文字だ」
「えっと……」
「俺入れて欲しくない? 俺に来て欲しくない? ……そんなに厭?」
「その……」
「……応えてくれんのか梅子。そんなに、そんなに俺のこと……」
「好き!!」
「なんで好きになった?」
「え?」
「俺に訊いたろ梅子、なんで好きになったのかって。梅子は?」
 押し倒される。これが日常。
「斉志のこと……」
「……うん」
「見たら、他が、全然見えなくなった……」
「……俺も」
「心臓、痛くて、ばくばくいって……」
「……俺も」
「……だから」
「……」
「貰われたとき、思ったの……わたし、こうすること、ずっと前から決まってたんだって、そうなるように、わたし生まれついたんだって……」
「……好きだ、梅子」
「好き、……斉志、来て……いっぱい、ぐちゃぐちゃに、して……」
「……うん」

斉志

 梅子は俺の想像を遥かに超えることを言う、それはいつも望外の言葉。
 知らないだろ梅子……。俺がどれだけ舞い上がってるか、……知らないだろ……。

梅子

 気が付くと腕枕だった。
 ……知らないでしょう斉志、……わたしこれがうんと好きだって。ずっとして欲しいって。斉志の邪魔しちゃいけないって。
 知らないでしょう、淋しかったんだよ斉志……。
 斉志はわたしが自然と眠るまでずっと腕枕してくれた。生理中はお風呂も遠慮、ロフトで眠ってくれるという。
 それでその……生理明けに言いました、言わされました躯で! どうして倦怠期もどきになっちゃったのか言わされました! もう回数分かりません! 切れ切れに、全部誘って焦らされて、わたしが上でしたええ腰振りまくって真っ赤になりながら来て来てって泣きじゃくりながら言いました! 食いたいんだろ、まだ駄目だ、お預けだ、ちゃんと言うまで食わせんとか言われて、もう、もう……いつも食べたいって思ってるのに、斉志それすら焦らすんだもの……。
「空気ってなんだ! そんなに俺が厭か!!」
 違います……。
「梅子、そんっっっっなに俺のこと考えてなかったのか!? 見てなかったのか!? 俺、怒った!!」
 どうしてそういう発想に……。
「来いよ梅子。書斎でヤる、勉強するから食え」
 ど、どうしろと……。
 なにも言えない、すっぽんぽんの、その、……中で出してくれません斉志、わたしをおひめさまだっこで連れてって、斉志書斎の椅子に座って、わたし机の下のスペースにぺったり座らされて、それから、それから……。
 猛烈な爆風を直下で感じながら、口で、した。
 もう、びりびりびりびり、感じて……。
 しびれてしびれて、……。
 絶対飲んじゃ駄目って、言われてる。絶対、って。
 だから、……そうなる瞬間、イヤイヤ、口離して、……顔で全部受け止めて、あとは、……斉志の太ももに寄りかかって眠った。パジャマの上が被せられてて、斉志も上だけ纏って、ずっと集中していたという。気が付くと、やっぱり裸のままパジャマで、ベッドにいた。お風呂には入ってたみたいて、全身さっぱりとしてた。
「梅子。こんなもんはな、全部貰った最初からしたかったよ。梅子最初俺食うの厭がってただろ。躯だって慣れてなかっただろ。……同じ試験受けていたからな、高校の時こんなことしたら梅子俺から逃げるどころか、……」
「……」
「なんでこんなこと俺に言わせる……」
「……ごめんなさい……」
「もう二度とあんなこと考えるな。甘えろと言ったろ。甘えるって言ったくせに、……いいか梅子。梅子は俺の思う通りだがな、梅子の意思は俺だって曲げられないんだ。曲げるな。梅子は気を遣い過ぎだ、全部ひとりで抱え込み過ぎだ」
「……」
「梅子。……そんなんじゃ俺、職に就けないぞ」
「……ごめんなさい!!」
「いいか梅子。今なにを思っているか、悩んでいるか、全部俺に言え。俺は梅子を全部貰うと言ったろ、まさか躯だけ貰われたと思ってるんじゃあるまいな梅子。梅子はこのうちから出ない、絶対だ。なら何か思って言うの俺だけだろ……。なんでそこまで遠慮する。俺、そんなに頼りないか? 俺に迷惑掛けろ梅子」
「……」
「返事は」
「……はい」
「うん」
「……うん」
「今なにを悩んでいる梅子」
「……」
「あるだろ。分かるぞ、言えよ」
「えっと、……職に就いた斉志が何日かおうち空けた場合はどうなるのでしょう……」
「他には」
「え、えっと……出張とか、転勤とか……」
「他には」
「……」
「言う」
「……腕枕好き、です。勉強の邪魔、したくありません。ご飯、ほんとに美味しい? あと、あの……わたし、重くない? いつも気が付くと躯、さっぱりしてベッドにいるけど、……こんな手間掛かるわたしのこと、……」
「それで全部か」
「……うん」
「何日かうちを空ける場合もあるが必ず戻って食糧その他全部きっちり補給する。切らす? なにそれ。俺が何しでかすか分からないのは梅子のことだけだがな、まさか梅子、俺が梅子をほっとくなんざ思っちゃいまいな」
「……思ってない、です」
「確かにそれでも非常緊急事態はあるだろうが、その場合はきちんと考えてある」
「え」
「俺に何かあったら? 梅子にすぐ分かるようにしてある。だが梅子はひとりではあのうちを出ない。絶対だ。ならどうするか?
 梅子。俺と梅子が結婚した時、住民票を持って来たやつがいたな。そうだ、前野の亭主と前野の女房だ。何故か? あの二人はな、うちのある同じ区内に住んでいる。前野の亭主がそこの区役所に勤めているから、婚姻届の提出をあの二人に頼んだ。俺にとってあの婚姻届より大事な書類など無かった。信じたよ。あの二人を」
「……」
「梅子前野の女房と病院へ行ったろ。前野の女房はあの通りだ、信頼出来る。そんなやつが結婚した、前野の亭主もな」
「……」
「俺に何かあったら、梅子に分かるようにしてある。それと同時に、前野の亭主と前野の女房に分かるよう頼んである。いいな」
「……うん」
「長期出張の場合は俺の知り合いの宿泊施設にいて貰う。そこから一歩も出さん。誰にも会わさん、誰も見るな。誰とも喋るな関わるなメシを食うな、お白州の通りだ。分かったな」
「……うん」
「転勤の際はそこにこのうちと同じものを建てる。いいな」
「……うん」
「腕枕が好きなのは知っているがな。独身時代あまりやらなかったのは、……それやったら日暮れ前に帰せなくなるからだ。長い休みでもなければ試験だなんだで月に何回かしか二人っきりになれなかっただろ……。結婚しても毎度やらないのは、……そうだ、梅子とことん心配性だからな、これやって梅子が俺のこと、……なんとかだの考えるだろうと思ってしていない。俺はなんとかと思うことは有り得んが、大集中するのは確かだ。朝以外は毎度はしない。いいな」
「うん」
「なんとか、か。梅子これで毎度俺から逃げるもんな……。それは俺の思う通りだ、俺がヤりたいと思ったら梅子は所構わず脱ぐんだ。それでいい、そうだろ」
「うん」
「俺、梅子が食事つくった時は食い掛けで押し倒したりしないだろ。この俺がだぞ。本当に美味いんだ、それを途中で? なにそれ。梅子の食事は本当に美味い。分かったな」
「……うん」
「梅子が重い? なにそれ。軽いんだよ、痩せてさらに軽くなってふらふらにしか思えん。庭でいつも手を繋いでいるのは風で吹っ飛ばされると思っているからだ。そんなに俺から逃げたいか梅子。死んでも離さん。温かいと言ったろ。俺は梅子の体温を感じていたいんだ。俺の愉しみ奪うな」
「……うん」
「俺梅子と一緒に風呂入るの生甲斐だって知ってるだろ。まさかこの愉しみまで奪う気じゃあるまいな梅子」
「ぅぅ……」
「手間? なにそれ。俺梅子の躯洗ってパジャマだネグリジェだエプロンだ着せてベッドに横たえるのも生甲斐なんだ。間違っても俺の愉しみ奪おうなんざ思うな。梅子のこと、ってなんだ。俺になにを言わせたい」
「ぅぅ……」
「俺は余程信用されていないんだな」
「……ごめんなさい」
「信じろ」
「……うん」
「他はないのか?」
「……うん」
「どうだ。抱えてることをちゃんと言うと、ほっとするだろ」
「……」
「俺、……謝れなかったこと全部言えたら、……ほっとしたよ。俺が傷つきたくなくて、下らん理由を付けてなにも言わなかった。結果いつも俺だけ助かって梅子を傷つけていた。そんなのは駄目だろ。梅子もだぞ、ちゃんと言う。だから最初からお白州の項目に入れてたんだ。……まあ俺も遠慮しまくってたから梅子のこと言えないけどな。ちゃんと全部言おう梅子。そう言ったろ? 俺も言う。梅子も言う。それでいい、そうだろ」
「……うん」
「じゃあ俺の悩みはなんだ、か。梅子がいつ俺のこと嫌ったり愛想尽かしたりなにも言ってくれなくなったり冷たくなったり、俺の嫌がることをしたり俺から逃げたり離れたりするか、いつも怯えて悩んでいる」
「……」
「解決して、梅子」
「……あの」
「なんだ」
「こ、こんなわたしのこと……」
「好きだ」
「……ほんとに……? どうして……?」
「本当だ。どうして? 好きだからだ。信じろと言ったろ。こんなとはなんだ。俺の悩み解決してくれんのか梅子」
「……」
「俺を不安にさせたいか?」
「ううん……。解決、します。斉志が悩むようなこと、しない。絶対しない。思うこと、ない」
「当然だ。梅子、ひとりで抱え込むのは却下、お白州」
「ぅぅ……」
「反省中、ぅぅは却下」
「……うん」
「こういう場合はだな」
「え……むぎゃーーー!!」
 えっとー。
 両のほっぺをつねられて、どの口がそんなこと言うんだ梅子、と言われました! わたしは破天荒なびっくり箱だそうです。わるかったなー、ただばかなだけだもん! と開き直って言い返したら、なんでそんなに俺の想像を遥かに超えることを言う! だそうです! うめこが編んだものは俺以外なんぞに見せてやらん! それも修業! だそうです!
 ご飯をつくって斉志を呼ぶときは後ろから抱きついて言う、お白州! だそうです。ハイ、そうします……。
 わたしってどうしていつもこうなのかな。へんなことばっかり考えて、斉志に心配させてばっかり。
 斉志は、わたしの心配をするのもわたしに迷惑掛けられるのも生甲斐だそうです。斉志の言い方まねすると。まさか梅子、俺以外の誰かに心配されたり誰かに迷惑掛けようなんざ思っちゃいまいな。……浮気者! だそうです。ハイ、斉志だけに心配されます、迷惑掛けます、そんなのいつもです……。

斉志

 とことん心配性の梅子のこと、どうせ今が試験本番で、いつ試験日なのか俺に詮索はしたくないと思って口数が少なくなったんだろうが……なにが空気だ。んなもん無理だ、眩しいんだよ、発信器なんざ無くたってどこにいたって分かるんだ。それが無ければ生きて行けないという意味ならその通りだがな。
 義母ちゃんのように、と言われれば俺は本来文句も言えんが、それでまたなんでも抱え込むなんざ却下だ。俺が寂しいだろうが……。義母ちゃんは地獄の三年弱、梅子が厭々稼いでいると知っていたからなにも言わなかったんだ。言いたい事は山程あるのに頑固な本人へなにも言えないなんざいい状態であろう筈がない。二年の楽園生活では間違っても無言などではなかった。普通の家庭そのものだっただろう。俺、そういうの知らないんだぞ梅子……。
 夫婦、日常、家庭。俺の求めてやまなかったもの。梅子。それが今は全部俺のだ。これからもずっと。