年が改まる八日前

 その年は例年より肌寒く、彼女は大分前からタイヤを冬用へと交換していた。前日の昼、会社で上司たる主任から、今日はもう仕事をおえるように、明日は夜、クライアントと会う、正装して来い。そう居並ぶ同僚が聞き耳を立てる中告げられた彼女は口答えせず、はいとだけ返事をし仕事を続けた。同僚は全員同じ目で彼女を見た。疲れ切った、同情し切った目だった。
 母親手製の弁当を食べおえた彼女は、会社を出ると近くの公衆電話から近所に住む友人、朝子さんへと電話した。以前買った服ではないものが必要になった、しかも明日だ、と。相談を受けた朝子は、それなら貸し衣裳がいい、そう言って、とにかく自分の職場へ来るよう言った。
 朝子は職場へ斉藤梅子を快く出迎える。朝子の同僚達も梅子を見止めると顔を綻ばせ、どうぞゆっくりしていって、と言った。梅子はそれに笑顔で応じるとすぐに朝子と明日の相談に入った。朝子は正装ではあるものの、時期も時期であるので肌の露出のほとんどないパンツスタイルのものをすすめ、衣装代はちょっとまけてやるぜ、ときっぷよく言った。
 翌日斉藤梅子は借りた衣装のまま車に乗り込んで、夕方家を出た。二着分の着替えは、既にいつも後部座席にあった。
 肌寒い日だった。しかし主任も彼女も上着など羽織らず、二番駅近くのホテルへ入った。ロビーを通り、エレベーター内でも二人は無言だった。到着先は最上階、スカイ・バー。時刻は夜八時。
 客は他に誰もいなかった。リザーブされた席は一番奥にあった。用意された椅子は二つだった。ウェイターが恭しく彼女の椅子を戻すのに合わせて座ったあと、彼女は微動だにしなかった。主任は、その後彼女が口を開くまで微動だにしなかった。主任も正装だった。テーブルには絹の白い布が掛けられ、二人が座る。しばらくしてワインが出た。それから、主任が言った。
「飲まないのか」
「車で来ました。主任、クライアントは?」
「口答えするのか」
「仕事ではしません」
「仕事だ」
「そうですか」
 主任は、もう茎の部分が手の温度に馴染んだ一輪の花をそっとテーブルの上へ差し出した。色は──白。
「お前に一番似合う色だ」
「一番嫌いな色です」
「……来い」
 主任は、もう手の温度に馴染んだ別の物もテーブル上に置いて、あとは無言で来た方角、エレベーター方面へゆっくりと歩いてスカイ・バーを出て行った。
 主任がテーブル上に置いていったその物体を、彼女は初めて見た。鍵らしいとは分かったが、見た事のないキーホルダーが付いている。透明で細長く、何やら下の部分に数字が彫ってあった。見た事はないし、それをどう使うかも知らなかった彼女は、すぐに、これは拾得物だ、そう判断した。ならばこのホテルへ来る時最初に通ったロビー脇のフロントへ出せばいい、そう思った。
 彼女はエレベーターを使わず階段で最上階から一階へ降りた。上るのに較べれば楽だったし、その程度の階段を下りた程度で別にどうも思わなかった。
 一階に出ると真っ直ぐにフロントへ向かい、その物体をカウンターへ置いた。フロントマンはお出掛けですか、と問うた。彼女は、いいえ、拾ったのでお渡ししますと言ってホテルを出た。来た時からそうだったが彼女は誰とも視線を合わせなかった。外へ出た途端に寒さを感じ、すぐに駐車場へ向かった。
 主任は携帯電話を握り締め、そのホテルで一番の上室・スイートルームで、窓のカーテンを開け、直下を見ながらただ待った。その部屋の扉が開かれる音を。
 主任の視線の先には望んでも得られぬ全てを手に入れるであろう人物が、ホテル入り口の直外にいた。どれだけその姿が小さく見えようとも、その人物であると疑いようが無かった。その人物の脇を、自分の部下が通り抜けて行った直後携帯が鳴った。待ち受け画面には──主任の待ち受け画面にはそれしか出ない──“斉藤梅子”。
 無言でボタンを押すと出たその人物の声は、低く、徹った。
「約束だ。梅子を返せ」
 以降、その携帯電話は永久に鳴らなかった。

聖夜

 斉藤梅子は勝手知ったる親友の家へおじゃましますと言って上がり込んだ。親友は雪が入るからさっさと玄関閉めろ、今日は一層寒いなァと明るく言った。一階居間に入るとテーブルの上にあるクリスマスケーキがあり、既にナイフが入っていたが、どう見ても家族全員分には切られていない。
「おいウメコ、あんたの分は温情で確保してやるから着替えて来な! おっとどうしたんだい、今日はいつもの一張羅じゃないな」
 明美は居間へ入って来た梅子の姿を見て取ると、アゴで自分の部屋である二階を指した。
「朝子さんに無理言って借りたの」
「そうか。借りた? じゃあ返すよな。あんた忙しいだろ、朝子になら、あたし返してやるか? あ、まだ使うならいいけど」
「ううん、もう使い、……着おわったからいい。ありがと明美、お言葉に甘えます」
「じゃあ上で脱いでその辺に転がしときな。甘いもん食おうぜ」
「うん!」
 勝手知ったる親友の家の階段を上がり、さっさかと、体型にあまり合わせなかった衣装を脱ぐと、きちんと畳んで机の上へ置いた。動きやすい私服へ着替えた彼女はすぐ階段を下り、洗面所へ行って化粧を落としてから明美とその両親、そしてコロコロ共の待つ居間へ向かった。
 コロ太達に合わせて、シャンメリーでメリー・クリスマス! 大家族は声を揃えて明るく言った。
 梅子が佐々木家へ来ると常であるが、一番湯は梅子と明美が使うと決まっている。今日の冷え込みはかなり厳しく、風呂場へ通じるストーブの無い廊下を歩く時は梅子も明美も震えながら行った。これで服を脱げば当然ながらもっと寒い。
「ったくマジ寒い……ウメコ、今日はちと長湯すんべ」
「うん、そうだねさすがに……」
 梅子と明美が風呂へ入ると常であるが、女同士のひみつ会議があるらしい。しかし内容は結局いつも同じで、寄越せだの無理だの、進展のさっぱりない会話に終止した。二人とも、風呂場で戯れ合うと体の芯からあったまるのをよく知っているので、声を上げて体を洗い合った。
「あんた髪を伸ばしているんだっけー?」
 髪も洗い合っていた。
「伸ばしているというか、そのままにしているというか」
「あたしはこの通りいつも短いままだけどさー、寝る時とか邪魔じゃない?」
「うーん、もう慣れちゃっているから」
「あんたと逢った時、肩くらいだったじゃん髪」
「そうだっけ。明美は伸ばさないの?」
「あたしはキッパリショートが似合うんだよ!」
「そうだね!」
 二人とも、湯冷めと大家族を待たせる事だけは避けようと、長風呂も程々に浴室を出た。どれだけあたたまっても着替えるまではやはり寒く、鳥肌が立った。梅子は髪が長いので、明美の髪を先に乾かした。明美は、じゃああたし先に部屋行ってフトン敷いとくから、ちゃんと髪を乾かせよと言って階段を上がって行った。
 明美は梅子がドライヤーを使いながら分かったと言うのを背に、自室へ戻った。ストーブを点けてからすぐに携帯電話を取り出し、声を抑えて言った。
「まァ同性から見ても嫉妬するぜ」
「そうか佐々木。安心しろ、いくらお前でももう見る機会はない」
「おう安心したぜ。準備はぜーんぶ整った。前野先輩もな」
「首に縄か」
「その辺ドジ踏むような女じゃねえ」
「ああ。佐々木、それまで梅子を頼む」
「成田、よく耐えたな。褒美にいいこと聞かせてやるよ。これが最後のゲロ大会だ」
「なんだ」
「あんたの所で入学式があった週の金曜日、覚えているか」
「ああ」
「あの晩、泣いたんだよウメコ。あんたのことでな」
「……なんだと?」
「だからあたしはあんたに泣かすなと言ったんだ」
「その日は俺の人生最悪の日だ」
「あっそう、ザマーミロ」
「逃げられ避けられ告ったその場で振られて電話するなとまで言われて友達扱いだ。思い出したくもない」
「確かあの日競争してたじゃん。みんなとさ」
「あんなものは適当だ。片手間だ。いい加減だ。どうでもいいことやっていなけりゃ何し出したか分からなかった」
「やっぱ片手間か。ま、あんなこともうあるめえ!」
「当然だ」
「よし。当日は任しとき!」
 その十分後、梅子が階段を上がって来た時、室内はもうあたたまっていた。二人ともすぐに眠った。

十二月二十五日~三十一日

 翌日早朝、佐々木家を辞した梅子は職場へ直行した。その後一週間、彼女は家へ帰らなかった。帰れなかった。休養を取るはおろか睡眠を取る事すら許されず連徹した。食事とトイレだけは辛うじて許可されたので、その隙に化粧を落とした。面倒くさくてもう塗ってはいられなかった。太陽が黄色く見えたのは最初の日だけで、あとは色はまちまちに見えた。緑の時もあったし青の時もあった。目の下の痛みは二日目以降麻痺していた。上半身の重みが下半身に重りのようにのしかかった。四日目となると色素を感じられなくなった。五日目まで重く感じた体は六日目になると何も感じなくなった。モニター画面の四角い箱だけが全てになった。自分は箱の中の住人だと思った。狭い箱以外の世界などもう何も無かった。それ以外の感覚が無くなった。
 自分こそがこの狭い箱そのものだと思った。そこから出なくてもいい、そう思った時右肩に何かがのしかかった。主任の手だった。
 セクハラだ、そう叫ぼうと思った。その一歩手前で、もう動こうともしない脳が何かを言った。
「リストラだ」
 脳は何も言えなかった。理解もしなかった。主任がそれを代弁した。いや、言った。上司が肩に手、と言えば?
「斉藤、クビだ。口答えするか?」
「……いえ」
「さっさと荷物をまとめて会社を出ろ」
「……はい」
 モニターの向こうの箱は、その作業が終了したと告げていた。服など何日も替えていなかった。髪もぼさぼさだった。着の身着のまま、彼女は真っ白にも真っ黒にもならず、惰性で荷物を纏めた。着替え以外私物など何も無かった。彼女の瞳はもう何も映さない筈だったが、出入り口に居た主任の手に給料袋があったのは理解した。無言でそれを受け取った彼女は無言で会社、いや、以前勤めた会社を出た。まだ作業の続く同僚は誰も彼女に声を掛けなかった。給料袋の中には解雇手当と今日までの給料、本日付けの解雇通知書が入っているだけで退職金など無かった。帰り、いや、単に車を運転する彼女はそれでも家へ辿り着けた。この日は十二月三十一日、大晦日。帰宅時刻は午後十一時。人出は結構あり、路面は凍結していた。
 無意識とまぐれで家へ無事故無違反で辿り着いた彼女は、偶然自室まで自力で辿り着くと着の身着のまま爆睡した。
 一週間以上ぶりに我が娘の帰宅を、あの日以来初めて穏やかな表情で迎えた母、桜子はすぐに彼女の部屋へ行くと、娘の服を脱がせ、汗を拭い取ってから、シルクのパジャマに着替えさせた。あとは老いた父と共に年越し番組をゴロ寝しながらぼーっと見た。