西川遼太郎

 夏のはじめにオヤジは死んだ。

 漁業は肉体労働だ。誰もがガタが来るまで毎日繰り返す単純作業。倒れればもう打つ手は無い。蓄積された疲労は針だ灸だと通ったところで取れはしない。病院通いが増える。受付に行って挨拶代わりにどっさり貰う薬袋。それがなんなのか、効くのか、頼れるのか。渡す方も受け取る側も、飲んでいるところを見るだけの側ももうなにも考えていなかった。
 墓は母親、いや、妻が先に眠るこの町のままにした。肌に生きた分だけ食い込んだ陽、潮、塩。灼いたところで取れはしない。住む人間のいない家はすぐ終わる。相棒と一緒に処分した。三人で住んだ家も、相棒の家も。何も遺さず。
 男所帯だった俺達。いつから相棒を双子と思わなくなったのか。物心が付いた頃からだったかも知れない。こっちも女親はいなかったが、向こうは男親が生きていてすらあのザマだ。むしろ死んだと聞かされた方が相棒には良かった。父親名義の黒電話。この町に住む苗字を元に、勝手に調べられガンガンと入る電話、電話。下らぬ用件ばかりの電話。だから俺も黒電話へ掛けていた。改造が初めて震えたあの日まで。
 高いプライドも手伝って、相棒はその番号を変えなかった。勿論、理由は他にある。家の鍵を特殊なものに変えたのと同じ理由。
 プライドの高い相棒は決してそうと言いはしないが、番号を変えず、番号非通知の相手を着信拒否にもしなかった理由はただひとつ。
 生きているかどうかも分からない父親との、それだけが連絡手段。
 今はどうだか知らないが、金は当時年に一度は振り込まれていたようだ。いつから相棒は自分で稼ぐようになったのか。物心付いた頃から? いずれ相棒はガキの頃から自分の食い扶持は自分で稼いでいた。それで間違っても豪遊などせず、稼ぎ出した頃は間違っても自分以外に遣う必要など考えもせず。
 詰め襟を初めて纏った中学一年。相棒は突然オヤジを“おじさん”と呼び出した。料理も始めた。
 この歳になるともう顔面は殴っていなかった。中二の夏、ひとひとりの人生を踏み潰し暗闇へ追いこんだ時俺を殴ったのはオヤジだった。それ以来、血にまみれた凄惨な現場を見るまで俺達は殴り合わなかった。ガキな俺達は詰め襟を纏う前から軽口など叩かなくなった。夏以降は特に。
 お互い早くガキの身分から抜け出したかった。散々やばい橋を渡る腕試し。物心付く前から相棒の頭脳がとんでもないことは知っていた。最初からお互い道は別だった。
 中二のおわり、相棒は雪の中に光を見つけて来た。俺に逢うな喋るな関わるなと言いながら、口をついて出てくる光の正体。それを語る時の表情。
 分かっていた。夏のあの日からもう二度と女に触れぬと誰に言わず誓った、それを知った上での態度だったと。
 ──怖がるな、遼。
 マジ拳もガキみたいな軽口も、要らぬ節介も。
 ぜーんぶ久々だった。高校に入ってからだったんだぜ……。

 背後にあんな奴を置き、相棒は一番を取ってこの島国一番の学校へ行った。
 葬式では抜け殻のようにオヤジを見送った。高校三年のあの日からずっと相棒はこうだった。それでも一番を取り続ける。たとえそれが想い人の耳に決して入らないとしても。
 相棒はこの星で一番でかい街の閑静な住宅街にある六階建ての庭付きマンションを建設した。光を見つけた時から設計し、結納を済ませた頃には建築に着手していた。今はその最上階に一人で住んでいる。ほとんど要塞といっていいそのマンションの住人は他に誰もいない。相棒はずっとひとりでそこにいた。
 あれだけ頭がよく見目もよく、金はどっさり将来性抜群。体が丈夫なのも折り紙付き。そんな男に惚れられて、在学中に婚約までした。それを一体どこの女が放って置く? ぶん投げる?
 普通に考えれば誰だって、学業放り投げて嫁入りだ。なにも考えなくていい。なにもしなくていい。頼り切って甘え切ってあとは勝手に死ねばいい。中坊まで、俺もそう考えていた。
 実物はまるで違った。
 甘えたところなどまるで無い。対峙する時はいつも必ず挑むような瞳で俺を見る。背後にいる時は吐息を感じた。甘い吐息。集中すると逆に聞こえてくる息遣い。いいにおいがして、纏う風は温かかった。
 二年間、俺を見ていた。まともに逢うも話すも相棒より俺が先だった。顔を合わせた回数は最初は相棒より多かった。だからこうして今、知らない番号の電話へ突然掛けても今更驚きはしない。俺がそうした。
 俺と相棒に対する声、雰囲気。みな違う。俺にはいつも乱暴な口調で、けれど静かで、そして本心で。決して俺の邪魔をしない。無駄口を叩くのはいつも俺からだった。
 罰を下した二年後、俺が初めて触れた女──
「なにやってんだ梅の字! 斉がどんだけ」
「西川、いま暇なの?」
「なんだと!?」
「ああ、夏かいま。夏休みなんだ。ふーん、いいね。わたし休みなんてもうここ数年、ないよ」
「……!」
「いいな学生さんは。わたしうんと頭よかったらいいんだけど。けどうち裕福じゃないし」
「テメェ、いつからそんな口叩くようになった」
「最初からだよ西川には」
「おお、俺にゃいい。だがな」
「西川、今日の西川おかしいよ。間違いだらけ。どうしたの? いつからそんな口叩くようになった?」
「……んだと?」
「西川はいつも正しかったよ。いつもわたしをちゃんと叱ってくれて、余計なこと言わないんだ。けど今日はなに? なに言ってるの? おかしいよ。本当にいま喋っているの西川? わたしの師匠の西川?」
「他に誰がテメェの師匠だ」
「西川しかいない」
「なら聞け」
「聞かない。わたしがどれだけ怒っているか分かる? いま何時? さっきまでわたし仕事してた。朝も早いの。無駄口なんか聞きたくない」
「……勝手にしろ!!」
 とてもこんな会話、相棒には聞かせられなかった。お互いこいつの番号なんざ変更になる度に分かっている。相棒は事前の許可がないと掛けられんなんぞ思っていやがる。
 不肖の弟子の親友、俺の大親友に電話した。高校を卒業して地元に就職した管内一の佳い女。
「アケ! 梅の字の野郎どうなってんだ、聞く耳も持ちゃしねえ!」
「よぉ置いとく大親友。久し振りじゃないか。あんたから連絡が入るなんざあの時以来だな。元気か? ああ、あたしはお陰さまで元気さ。ところでどぉした」
「アケ、俺に態々言わせる気か。知ってるだろ、梅の字のやつ」
「ほ・なんだっけ」
「……おい」
「あたしはウメコの味方だ」
「ンなこたァ分かってらァ、だがな!」
「……まだ応える気ぁないか」
「なんだと?」
あんたは成田の味方って言わなかったよな
 どうせバレてはいただろう。分からなかったのは、いつから、ということだけ。
 そんな時期から、か。
「これ以上、あたしに言って欲しいか」
 ……いいや?
「遼、あたしに預けな。成田にもそう言ってある。悪いようにはしない」