この年、斉藤梅子が勤める会社に入社式は無かった。彼女に部下など無い。彼女の上司は、お陰で去年から人件費が嵩んで買掛の支払いが滞っている、と言った。昇給は無い。その会社の誰も。
 降給者はいて、その肩書きを持つ人物は常務といった。来月で定年を迎える常務は黙って身辺整理を開始していた。社長が慰留していたその場に主任が入って来ると、社長も常務も無口になった。主任は父さん、退職金など出さないよな、と言った。どこにそんな金があるのかと。常務は主任に一瞥もくれず茶をすすった。その後社長は自身と、もう一人分の役員報酬をカットした。カットされた者はそうと知り、自宅で父親に泣き付くと、営業へ出るようにと通知された。通知された者に友人はおらず、二年前からの常で事務所奥に重役出勤し続けた。
 主任にとって望んでも得られぬ才能を持つ人物は、得意先でもなんでも無いが、気が付くと出勤してから社外へ出る用事があると言ったらその人物と会う事くらいになっていた。
 社内で主任への電話が鳴る事は無い。
 主任は携帯電話を受ける時、必ず社外で受ける。社内にいる時に鳴りはしない。どの得意先も主任には掛けない。番号を尋ねられもしない。常務は稀に主任のおともで外出するが、得意先から是非またいらして下さいと慇懃に言われた後は、その得意先へは常務がひとりで行った。
 主任の携帯電話は必ず社外で鳴る。社外でしか鳴らず、社用では鳴らない。出れば自分が望んでも得られない容姿を持つ人物が、望んでも得られない声で出るだけだった。その人物と直接会う機会もあった。その人物は、望んでも得られない学籍に在学中でありながら、どこに発注したらいいかも分からない上品な仕立ての服を一部の隙無く纏い、完璧な立ち居振る舞いで目の前に現れた。その容姿も、頭脳も周囲と浮いていた。気品、迫力、みな違う。だから主任は管内で最も高い格のホテル一階ロビーで応対した。主任は上座へ着席したが、ホテルマンが膝を折って出すコーヒーは後に出された。その人物は、電話以外は常に無言だった。視線は決して合わせない。だから主任は、常に客室へと通じるエレベーター入り口方向を見ていた。自分へコーヒーを後に出すホテルマンを怒鳴り、支配人を呼び付けて、いつもの部屋はいつもキープして置け、胸のでかい女はゴムが嫌いだ、そう言った。支配人は慇懃に頭を下げると持ち場へすぐ引き返し、見えない所で苦情の電話をとある老人──その男性の父親──へ入れた。主任は誰が応対しても見つめ続け得ない表情をその人物へ向けると、すぐに立ち上がってホテルを出た後は、仕立屋へ向かった。
 仕立屋の主人は、一度でいいから支払いを滞らせないで下さいと懇願した。主任はその店へは二度と行かなかったが、仕立屋の主人は事の顛末を同業者へ教えまくった。同業者は支払いの悪い客には同じ応対をした。
 その人物に会うと主任は部下に携帯の番号を変えろと必ず言った。部下たる梅子はもう馴染みになった携帯電話取り扱い店へ行き、少しばかり外の空気を吸った。