十九歳 四月一日

 斉藤母は緑色の文字のとある届出用紙へすらすら自分の氏名を書いていた。
 不肖の娘がこの二年間、常に変わらぬ表情のまま、自分の作った弁当をひっつかみ、朝飯もそこそこにヘタな運転で早朝から出掛けるのを見送りもせず、出掛けたのだけは確認して、不肖の亭主へ向って言った。
「これに署名しな」
 書いた書類、離婚届を亭主にかざす。
 しかし亭主はなにも答えない。だから斉藤母は滔々と続けた。どうせ返事などない。
「早くしろよクソ亭主。ゲス亭主の方がよかったかい。ああ、もう亭主じゃなくなるか。
 二年だ。いつ梅子が笑顔で帰って来た。いつ梅子が笑顔で家出た。帰るの何時だよ。二年、毎日だ。あたしゃもう待たないよ。
 なんとか言えよ。さっさと書きな。安心していいよまだ亭主。別に若いツバメがいるわけじゃない、まだ亭主と違ってあたしにはお友達が多いしね、近所付き合いも真面目にやっている。この辺はみんな親戚みたいなもんだって結婚するとき言ったよなまだ亭主。嫁いでから何十年とゆっくりひとつづつ築いて来たさ人間関係。お陰さまでこの辺の親戚連中全員に同情されているからねあたしは。雁首揃えて言われているよ、あのいい男に梅子ちゃん逃げられたのかって。恥ずかしくて斉藤なんて苗字名乗っちゃいられないよ。さあ書け台所にも立たない役立たず。洗濯の仕方も知らないだろ。掃除なんざガキの頃学校でやっただけだろもうすぐ還暦。そうやって、無表情で頑固一徹下らぬ意地張ってこの辺鄙な町でくたばりな」
 斉藤母は書類を引っ込めて、自分で空欄も署名し始める。
「この星で一番みっともないのが何か知っているかい。舅姑根性さ。自分がハナ垂れ小僧の時どれだけおイタしたのか棚に上げて、若ぇモンをさんざいびるのが生き甲斐なゲスのことだよ人間以下。
 あたしら年寄り、何十年生きているんだ。どんだけ自分をやりつくして来た。死ぬ前やることが娘の幸せ潰すことか。見損なったを通り越したよ。二年前の二年間、梅子がどんな顔だったかまさか忘れたなんて言うんじゃないだろうね」
 嫉妬する顔だった。
「そうかい。そんなに書くのが面倒臭いかい。それでもいいさ負けてやるよ。ただしこれから来るいい男へ頭下げたらな」
 斉藤父は初めて顔を上げた。
「出来なきゃあたしの息子と死ぬまでアバンチュールしてやるよ。こんなもん、別にあんたが書かなくたっていい、あんたの字を真似するなんざ何十年もやっているからね。確定申告なんて白でもやったことないだろその歳でもうすぐ独り身。
 さああたしの息子のお出ましだ。その白髪で玄関で土下座しろ。あんたが出来たらあたしも一緒に下げてやるよ」
 品のいいスーツに身を固めた美丈夫はこの家へもう何度も来ていた。来るタイミングは決まっていて、帰るタイミングも決まっていた。来るのは十時。帰るのは三時。必ず日中に来て日暮れ前に帰る。
 その日十時三十分、斉藤母は未来の息子と二人で斉藤家の居間の掘り炬燵に座っていた。春、寒さと暖かさが同居する日。未来の息子は未来の母に煎れて貰った茶をしばいていた。
「うちのくされ亭主はなんとか許してやってね」
「……おふくろさん、私は」
「勿論あたしを許せとは言わないよ」
「おふくろさん!」
「長くなるけど、斉君に聞いて欲しい事があるんだ。いつか言わなきゃいけないと思っていた。とてもバカだなんて言えない、ある娘の話を」

 斉藤梅子は夏生まれだった。
 斉藤家の生業は近海漁業。力仕事だ、男手が欲しい。しかし生まれたのは彼女ひとりだった。斉藤父は失望の色を隠さなかった。娘も母もその空気を敏感に察知していた。娘は生業の手伝いを子供の頃からしてはいても、まあはっきり言ってグズでノロマなカメ。腕力があるわけでもない、未来のある仕事でもない。いつしか娘へは仕事の手伝いをあまりさせなくなった。娘は子供の頃から無表情だった。
 小学校へはいつも同じ時間に行って同じ時間に帰って来た。常に無表情。なんの面白味もない人生を送っていますと書いてある表情で、休みは常に家にいた。何をすることもなく、ただぼーっとしていた。娘に家の手伝いをさせても役立たずを実感するだけだった。娘はなんの趣味もなかった。外へ出て遊ぶ性分でもなかった。
 小学校の時、何を思い付いたのか冬の季節に休みの日、雪の降り積もる学校の校庭へ行ったことがあった。雪で遊んで来たのか、足をしもやけにして、靴一足駄目にして来たことがあった。それで風邪を引いた。とはいえ大きな病気と言えば夏、誕生日あたりに引いた風邪の方が酷かった。
 友達は誰もおらず、黒電話は娘の為には鳴らなかった。学校の連絡網からすら飛ばされていた。部屋でただ寝ている娘に、腕力とは別の手伝いをさせようと母は通り一遍の家事手伝いを、父は自分の苦手分野を少々手伝わせた。
 中学へ上がって、制服を初めて着た時娘の表情が初めて綻んだのを母は見てとった。だが結果は同じ、以降は無表情無感動、休みは家にいる。電話を自分の為には一切使用せず、外へ出掛けもしない。ただ無表情だった。
 斉藤家の近所は親戚みたいなものだが、そういった連中だからこそ、誰もお宅の娘さんは小さな頃からいじめられていますなどと斉藤夫妻へは言わなかった。田舎の近所付き合いなどそういうもの。冠婚葬祭時に金をたらい回しにしつつ女どもは台所の隅で床に直座りで適当にメシを喰らい、男どもは座敷きで畳の上で正座して立派なメシを喰う。それは隣の部屋に死体がある行事でも、新婚夫婦がいる行事でも変わらなかった。
 父母の血を受け継いだ娘はこれと言って外的特徴無し、成績運動神経全滅。体育は常に一。五段階評価でその他の科目は一と二が占め、三はまれ。どの教科も満遍なく苦手だった。運動会の時、娘は常に天候を気にし、降雨だけを祈っていた。
 身体も小さかったが、これだけは固執していた毎朝の牛乳一気飲みが功を奏したか中学二年の夏成長期を迎える。海育ちなのに海で溺れたことのある娘は、丁度そのあたりでようやっと泳げるようになった。このタイミングも功を奏し、娘は近所の海水浴場へ入り浸るようになる。もっとも、ぷかぷか遊びであったので体力造りにはなんの功も奏さなかった。
 そういう時期であったのと、季節が冬に向かっていることもあって彼女の食欲は増していった。
「梅子はこの頃が一番太っていただろうね」
「……」
 娘はまたしても奇行を見せる。今度は中学で雪遊びをして来たらしく、この時も風邪を引いた。今回は単なる風邪で済み寝込みはしなかった。
 いずれこの時期まで、斉藤家では笑顔で食卓、などという微笑ましい場面はただの一度もなかった。両親は娘をなんのとりえも特徴もない、などと思っていたが、裏を返せばそれは両親にも当てはまった。娘が笑顔を見せない、のではなく両親も笑顔を見せていなかった。ただ朝起きて、飯を食べた。その繰り返しだった。
 確かに娘の体はぐんと成長して行った。母と娘は、このあたりから一緒に買い物をし出す。これだけはと、母はずっと思っていた。それまでは全く気にしていなかった身体的──胸の成長。母の姉妹にそういう人物がいた。その人物は自分の胸の成長を甘く見て失敗し、型くずれさせてしまった。母は我が娘にだけは、と、無駄遣いも出来ない娘と共によく買い物へ出掛けるようになった。
 そして中学三年生。
 娘はともかく、父母にとっては昨日の続きのはずだった、その日。
 娘が電話をしているではないか。隣近所へ何も見ず電話を掛けはしても、その後すぐに父へ取次いでいた、その娘が。初めての出来事であったので父母は自然耳をそばだてる。
“どうしてわたしと友達になんて”
 娘は確かにそう言った。
 娘は小さな頃から自分を“わたし”と言った。こんな田舎では子供の頃は自分を名前で言うものだ。けれど娘はそんなことは言わなかった。言う機会もなかった。もしかしたら、自分を“わたし”と両親や学校の先生以外へ言ったのはこれが初めてだったかもしれない。
 そして来たその友達は、あまりに素晴らしく、あまりに美しい少女だった。まるで天女、そう両親は思った。単純に喜んだ。ああこれが単純に、そして喜ぶ、という感情なのか、と。両親も笑顔を浮かべたのはいつ以来だったか覚えていない。ひょっとしたら斉藤母が“子供が出来たの”と言ってそれが女児であったこと、そしてそれ以降誰も生まれなかった時以来かもしれない。
 天女はその全てが素晴らしく、最初こそただ嬉々としてその来訪を喜んでいた両親も、天女の成績を知り出してから、そして天女が友達は娘だけ、と言い出したあたりから地に足が付いた。
 ──おかしい。
 娘は中三ともなると真面目に勉強をした。夏休みなど一日一食取るか取らないか。もうその時期は天女を家へ呼びつけるなどという愚行は犯さなかった。ずっと机へかじり付き、娘の誕生日を祝うこともせず。夏をおえたあたりは、母には分かった。まず五kgは体重が落ちていた。真っ白な顔で、一年前海へ入り浸っていたのが嘘のようだった。しかし、そのくらいしてもらわないと家計に響く事態となった。絶対に近所の、しかも特殊カリキュラムのない学校へ入ってくれないと困る。それは親子共々分かっていた。口に出さないだけだった。その為には天女の力が必要だった。しかしあまりに頼り過ぎた。娘は成績表をきちんと両親へ差し出したが、どう考えてもおかしな上昇カーブだった。娘の今までの行状を見ればこれはおかしすぎた。天女は家へ来て娘に勉強を教えるとき、自分の勉強などしてはいなかった。いつも付きっきりで娘に教えるだけ。そんな娘に、両親はもう今までとは違う目線を送っていた。諌める視線。
 ──駄目なんじゃないのかい?
 中三の冬、ようやっと目的校の偏差値レベルまで辿り着く。娘は“これから受験まで自分一人でやるから”と天女に電話で言った。諌めの視線、二対の瞳を背に浴びて。
 そして受験日。希望校、A高から帰って来た娘を見た時母は再び思った。ああ、また痩せたな、と。力を出し尽くし、今までで一番の無表情だった。その娘が涙したのは合格発表のラジオを聞いたとき。このとき斉藤家には一番の歓声が上がった。しかしそれが止まったのは一本の電話。天女からの電話だった。
 ──もう駄目だ。
 親子三人、それをよく分かっていた。一年間天女を地に這いずり廻した業。詫びて詫び尽くせるものではない。中学を卒業し、中途半端な春休みを迎えても娘はまだ天女に纏わり付いている。両親の視線は諌めるものから、失望と少々の軽蔑すら混じるようになる。
 ──何をやっている。その子はお前に相応しくない。すぐに解放しろ。
 その視線を一身に浴びて迎えた入学式の夜。またも天女から電話が入る。その時の斉藤夫妻の表情は、余人に見せられたものではなかった。なにせ軽蔑し切っていたから、我が娘を。まだ纏わり付いているのか、と。
 その視線を娘が、天女と知り合ってから常に、周囲の学生一人残らず全員から浴び続けていたなど両親は知りもしない。
 もしも娘が電話口でまだ纏わり付くような発言をしていたら父は小突き、母は家から追い出していたかもしれない。あの時期、斉藤家はそういう雰囲気にあった。娘もそれを察知していた。学校へ行っても家に帰ってもこうだった。自室へ戻ってぼーっとして眠る、それだけが彼女のオアシスだったなど誰も知らない。
 入学式翌日、またしても電話は鳴る。この時の斉藤夫妻の表情は昨日にも増して酷かった。娘は躊躇いもせず電話を取った。もしも相手が天女ならば、そう思った斉藤夫妻は娘の背後に詰め寄った。
 天女ではなかった。一本目の電話からそうだった。次から次へと掛かって来る電話、電話。先程までの表情はどこへやら。話を聞いて総合するに、ともかく友達。間違いなく友達。そして相手は天女ではなかった。娘すらびっくりしているらしかった。夕食など両親共に喉を通らない。ただ驚いていた。
 そして単純に喜んだ。念押しすると、やはり天女ではないという。携帯を買いたいと言って来た。おねだりはこれが初めてだった。母は喜び、天女を還せるならばと札を差し出す。娘はそれを拒んだ。思えばこのあたりから父譲りの頑固さが出ていた。
 翌日以降も電話は鳴り続ける。あまりの事態に空いた口が塞がらなかった。両親に金銭的負担を決して掛けまいとする娘は黒電話を受けはしても掛ける事を好まない。よく近場の電話ボックスへ行っていた。
 その週、天女以外の友人が我が家を訪れる。娘は感涙していたようだった。一晩中話をしていたようだった。天女とですらこんなことはなかったのに。翌朝さらに友人がしかも複数やって来た。明るく朗らかな女の子達。娘は土日の休みを連日で出掛けた。カラオケをして来たと娘は言った。天女はいなかったと言う。娘は、もう天女は解放した、そう言った。日曜日はなにやら制服で出掛けたがそんなことはどうでもよかった。休みに連日で娘が家にいない。初めてだった。斉藤夫妻に笑顔が戻った事を、しかし当人同士は分からなかった。自分の表情になど気が向かない程喜んでいたのだ。
 模試があるから勉強する、そう言ったのが翌週。その時またあの視線を娘へ向ける。絶対天女の力を借りるな、と。その週は誰からも電話は掛かって来なかった。天女は我が東屋へ来なかった。
 代わりに来たのは誰が見てもいい男。これも斉藤家史上初。浮かれた母は冗談まじりに彼氏かと言った。父も浮かれ、友達かと問うと返答は無かった。母はこれで、いや、家へ来た時の表情から確信した。あの娘を意中に想う異性が出来たとは。成り行きで家業を手伝って貰ったがその作業の速いこと速いこと。さっさぱっぱとやってしまって、両親共に将来への淡い期待すら抱いていた。その日も娘は出掛けていたが、いい男は携帯なども詳しいようだった。なにせ親子共々そんな機器など分からない。安くなるならと、いい男へ頼んで買いに行かせた。携帯の通話料金はかさみはしなかった。
 しかし浮かれた両親に、娘が釘を刺して来た。
 ──天女より凄い。
 ……何も言えなかった。一年間、両親は娘に何を言い続けて来たのか。口先で言っただけならまだ取り消せた。奪えぬもの言いで、しかも軽蔑すらして娘を天女から引き剥がした自分達。
 ……何も言えなかった。たとえ携帯を買って帰って来た娘の表情が、女親なら、いや男親でもすぐに分かった表情をしていたとしても。また娘は無表情に戻り、翌日は遅くに帰って来た。天女もいい男も全く関係ない友達に携帯の番号を教えて来たから遅くなった、もう黒電話が鳴る事は無い。そう無表情で言った。真っ赤な顔をしたあの日。いい男の来訪の日。その表情を消し潰した自分達。
 ……何も言えなかった。
 その後一日だけ遅くに帰って来た。真っ赤な顔をしていた。
 連休、連日出掛けた娘。使い込まれた男物の腕時計をして、そんな顔をして帰って来た。歩き方が少しおかしかった。以降娘の左腕からそれが外される事は無かった。
 両親は、相手は誰かと思った。気の早い母などは、あのいい男以下なら厭だとまで思った。
 谷間を挟んだ連休も娘は出掛けた。そういう顔で帰って来た。母はもう娘が、赤飯を炊くべきであると分かっていた。
 連休最後は高校へ上がって一番最初に家へ来た友達の所に泊まるという。母には分かっていた。そうか、と。あとはいつはっきりと紹介してくれるのだろう。そう思っていた。……少しばかりの罪悪感と共に。
 だが娘は真っ青な顔をして戻って来た。母は思い出す。ああ、また痩せたな、と。娘は頑固であったので、そうなった理由を一切言わなかった。……訊けはしなかった。詮索もしなかった。学校を休んで早退した娘。
 その娘が、尋常ならざる状態の娘が、今までで一番真っ赤な顔で、見た事も無いような大きな白い花束を抱えて言った。
“このあいだ来たひと……あの手伝って貰ったひとが、……八月三十一日に来るから、その、父ちゃん母ちゃんに家にいてもらうように言って、って”
 それがどういう意味か、果たしてここまで真っ赤な茹でダコになった娘はどこまで自覚していたのやら。父母は心の底から喜んだ。あんな真似をしてしまった自分達。好きな男から引き剥がす、それがどれほど下劣な行為かなど知っていたのに。申し訳なさで一杯だった。その相手はあのいい男。文句は無かった。それ以外だったら反対すらしていた。なにせあそこまでいい男を見ると、他が全くののっぺらぼうに見えた。浮かれて浮かれて地に足が付かない程だった。
 娘はしばらくして入院した。退院後、母は娘と共に買い物へ出かける。今度の痩せ方は尋常では無かった。これまでもなだらかに痩せてはいた。それが一気に噴出した。母は、もうこんなに痩せはすまいとも思った。だから財布がどれだけ軽くなっても惜しみ……まあ少々は惜しんだが、なく買い物をした。
 以降娘は日暮れ前という実に健全な時間で帰って来る。学校がある日は引き締まった表情で、週末はあの顔で。幸せ、娘の全身がそう言っていた。夏、大人数と遊び去年と違って適度に日焼けし、そして結納の日を迎えた。久々に見るいい男はあの時よりさらに成長し、美丈夫となって我が家へ降り立った。本当に結納をして行った。これは男親にこそ分かっていたが、はっきりと美丈夫は娘を溺愛していた。
 ──だから──この時すでに嫉妬は始っていた──
 美丈夫はたんまりと引き出物を置いて行った。舅心を起こしていた父は美丈夫からの贈り物のうち一番重要なアイテムを断った。このままだと家から連れ出されそうにすらなった。それも止めた。仲人も無し、結納をしたと周囲に言いもしなかった。ただし周囲は、重低音を響かせ週末朝にやって来ては娘を颯爽と連れて行く美丈夫の姿を見て知っていた。
 娘からあの表情が消える事はなかった。ただの一日たりとも。あの不格好な時計と共に。
 それから時間が経って──高校三年のあの日──舅ははっきりと嫉妬して──誕生日などいつかは知らぬが確実に美丈夫が十八歳になる前に──
 娘をまたしても引き剥がす。あまりにも掛け離れた存在だ、そう言って。誰にも奪えぬ、否定も出来ぬ視線に込めて。口に出しもせず娘を諌め、軽蔑すら滲ませて睨みつけると娘はその言に従った。
 あの日から、親娘共々“休み”なる概念を失っていた。
 そんなある日。世間は連休と称すらしい日、とある人物が東屋にやって来る。美丈夫でもなければ天女でもない、朗らかな友人達でもない。ここへ来るのは初めての、しかし近所に住む人物。彼女は娘が小学校、中学校の時の同級生だった。
 彼女の口から初めて語られる、娘の学校生活。名前で、成績で、運動神経で、何の特徴も無い外見でどれだけ虐められて来たのかを。それだけではない、最悪だったのは中三の一年間であろうと。天女の見えない所で繰り返される一対多人数による口汚い罵声、誹謗、中傷。それをたった独りで受け続けていた。先生も生徒も誰も助けなかった。天女と二人でいる時は誰も手出しはしない。娘は中三以降朝必ず遅刻ギリギリに行っていた、それは虐められない為にだった。天女と娘は通学の行き来は全く別、よって放課後は餌食の時間帯だった。時たま見ていたが、娘は両親へ決して心配させぬ為、虐めからほうほうのていで逃げ出した後帰る途中で時間を調整し必ず同じ時間に帰っていた。
 近所に住む彼女がこれを言って来たのには理由があった。懺悔の為だった。
 高校へ入学したてのその日放課後、学生達が店と呼ぶ場所で娘と会った時少々会話を交わした。あんな状況でさえ管内で最もレベルの高い高校へ入れたのは、ひとえに天女のお陰であるとは誰でも知っていたが、だからこそ嫉妬した。娘はギリギリで入学出来たとは言うものの、その制服姿はA高生ではない自分達には眩し過ぎた。クラスも言っていた。Fだと。自分達の学校のクラス数は四つしかない。六番目のクラスなどありはしない。あれだけの虐めを受けながらそれでも合格したその姿に嫉妬した。
 だから──店の他の場所で娘が話題にのぼった時──
 先程聞いたばかりの情報を横流しする。娘のクラスはFだと。天女にどれだけ纏わりついていたかを。その場では、天女がいい男に振られたと直接その耳で聞いた人物達、つまり自分と同じ中学出身の者が大勢いて、なのにその日、いい男が誰とも付き合っていないと言い放ったなる情報が駆け巡って混乱していた。
 それが直接の切っ掛けで翌日の事件が起きた。何かあっても責任をなすり付けられる、家庭環境のおかしい鉄砲玉を単身他校へ向かわせた、その会話に参加しながら止めもしなかった。
 本来あれで、他校へ行った女生徒も娘も退学処分になる筈だった。その危機を自ら打開したから、あれだけの友人が一度に大量に出来た。おそらくあの事件で美丈夫が娘を見初めた。その後、結局娘は入院してしまったあの行事で、美丈夫が学生三千弱もの前で娘に惚れていると宣言した時、心の底から安堵した。これで自分の罪も帳消しになったと思ったから。
 だが娘と美丈夫は現在に至るも離れ離れ。もう見てはいられない。だから懺悔の為にここへ来た。
 近所の娘は帰り際にこう言った。
“成田君は本当にもてて人気があって、みんな憧れていました。でもあの二人が別れたと聞いた時、誰も、じゃあ自分が成田君へ告白するとか、付き合いたいなんて言い出さなかった。考えもしなかった。
 あの二人は、みんなの前ではいつもぴったりくっつき合っていました。誰もがその姿を嫉みました。なのに、離れ離れの姿を初めて見た時みんな泣いたんです。あの二人は一緒にいるのがいいんだって。なんだよ、見せつけるなよって言いいたくなるくらいが一番いいんだって。失って初めて、ようやっと分かったんです”
 無言で聞き、無言で立ち去らせた両親。その日も娘はその日中に帰って来なかった。
 分かっていた。娘がいかに自分に自信が無いかを。こんな事態は有り得ないと、ほんの少しでも自分に幸せが訪れただけでそれを疑い否定していたと。そうしたのは、そうするようし向け続けたのは誰あろう自分達だった。思春期の、一番揺れの激しい多感な中学三年の一年間、娘にはっきりと諭し続けたのは自分達だったのだから。
 お前に相応しく無い人物になど関わるな。
 何様だ。
 そういう視線で育て続けたのだから。娘を信じもせず、そこまで卑下して育て続けたのだから。

斉藤桜子

「あの子が親の愛情を感じたのはいつか、なんて質問、あたしはあの子に出来ない。ふた親揃ってこの通りだもの。
 梅子がやりたいように、そうは思っていた。けどなにも言えなくて……。こんな育て方しちゃって、本当は父ちゃんのこと言えた義理じゃない。けど梅子は自分の意志で就職したって言う。元々手の掛かる子じゃなかった。もう学費を払わなくて済んだ去年から、もっと手が掛からなくなった。
 やっと、バカな子程可愛いって言葉が分かった。手が掛かるからこそ可愛いんだって。今じゃ家賃は入れて来るは金は掛からないは……。毎日疲れ切った顔して、ねえ。
 ホントに、何様なんだろう、あたしは……」
 斉藤母は未来の息子へ深々と頭を下げた。美丈夫はそれも止めた。
 今度は美丈夫が勝手知ったる台所で茶を煎れて、未来の義母と共に再び茶をしばく。すると左胸ポケットが震えた。このパターンは高校からのもの。
 彼は一旦、目の前の女性に失礼しますという視線を送った後、電話に出た。
「あたしだ」
 電話の先は管内一の佳い女、佐々木明美である。
「どうした」
「あんたにひとつご教示戴きたくてね」
「どこから掛けている」
「ゲロ大会場からさ」
「そうか。なら今からそちらへ行く。連れも一緒だ」
「おお、相棒もいたか」
「いや。俺のVIPだ」
「ほぉ。あたしは斉藤父に信用があるが、あんたはさしずめ斉藤母か?」
「そうだ」
「よし。ならこっちも掻き集める。いいな」
「ああ」
 彼は斉藤母へ事の次第を説明すると、斉藤母はよっしゃと腰を上げ、今時の若いお兄ちゃんの前にどう出たらいいか分からないよとか言いながら、そのままでいいですよと言う未来の息子に、そうはいかないよと言って暫く時間を取らせた。その間未来の息子は湯呑み茶碗を勝手知ったる台所で片付け、念の為と夕飯を作り置きし、ゆっくりタクシーを呼びながら、支度のようやっと整った彼のVIPと共に斉藤家を出た。
「斉君。あたしを許してくれる?」
「許すも許さないもありません、おふくろさん。私は」
「なら斉君、あたしのことはかあちゃんと呼んでよ」
「……」
「駄目かな」
「いいえ、分かりました。……義母、ちゃん。ですね」
「いい若いもんがそんなに礼儀正しくてどうするの。斉君は最初からそうだったね。いいかい斉君。あたしの息子は生涯ただ一人、斉君だけだ。あたしに遠慮はしないように」
「はい」
「うん」
「……うん」

四月一日 金曜日

 佐々木明美は盟友、森下和子を自宅へ迎え入れると、すぐさま久々に、同胞メールをタムロの連中へ送った。タイトルは“マル秘”、文面は、“朗報だ。聞きたきゃあたしの家に今すぐ来な”これだけだった。
 一番に反応したのは自称スチャラカ営業マン、竹宮孝。自称営業先、一般的にはどう見ても一般喫茶店で携帯片手にヒマ潰しをしていた彼は、自称営業先をA市北端へ定めると、会社へ明るい営業トークさながらに“直帰します!”とお電話してから明美へ掛けた。
「どういうこっちゃーーーー!!」
「どうもこうも、ひとりひとりに喋らせるな。一気に言うからとっとと来い!」
「応!」
 二番目は片瀬十兵衛、しかし残念にも現在管外現場でおシゴト中な彼に、明美はニベもなくこう言った。
「残念だったなあ……仲間ハズレにしてやるから安心しな」
 残念にもその現場は今日のものにはならなかった。
 三番目は藤谷明紀。彼はスカして花束はいかほど必要ですかと問うたが、あたしゃ野郎に花代払う気はないね、と意味深に返されたので商売道具は持って行かなかった。
 トリオを組むあすみとタカコは逐一電話で明美へ事前確認などしなかった。平松は工場のシャッターを降ろして現場へ直行。木村は親友と同じ職業だったがこちらは真面目に営業中のところ急ぎの用が入ったとこれまた営業トークをかましてA市北端へ。朝子さんは職場の連中にはっきりと、ダチの件で悪巧みに行って来ますと啖呵を切って了承された。千代子は明美に電話した時、ウェディングケーキはあたしが仕切る、とちょっと気の早い宣言をした。
 これに渡辺とりう、A市役所から気弱に早退して来た前野を加えたメンツを前に、今回も御輿役の佐々木明美はこう言った。
「今からここに成田と斉藤母が来る」
 その言葉は、さすがに全員事前予測など出来なかった。しかもその二名が来るとは。
「お楽しみはそれからさ」
 自宅一階居間とその隣をぶち抜いた部屋でにたっと笑った。

四月一日 金曜日

 夜八時、斉志と桜子の乗ったタクシーはゲロ大会場へ辿り着く。そこにはコロコロ共と佐々木夫妻が一階にいた。会場は常の二階ではなく、一階居間、プラス隣の畳の部屋ぶち抜きでとなった。なにせ佐々木夫妻は明美が高校へ入った時から娘の親友の話をよく聞いている。是非参加させてくれとたっての願いでここにいた。放任主義の佐々木夫妻にしては極めて珍しいことであったが、この場に集った連中はそこまで意識になかった。
 明美の号令一下集まった管内初代の連中は、自然地元就職した者が中心となる。つまりA・B・E高卒業者はほとんどいない。
「ようこそおいで下さいました斉藤母! 久し振りっスねー! わざわざども!」
 明美がキッパリ挨拶をすると、
「お邪魔します佐々木さん。いつも宅のバカ娘が御迷惑をお掛けして」
 答えは佐々木夫妻が返した。
「いやいやとんでもないこちらこそ宅のバカ娘が」
『おーっほっほっほ』
 明美は長たらしい前口上など嫌いなので、途中で遮る。
「ハイハイ近所付き合いはいいスから。本題入りまっせ皆の衆」
 すると桜子が名乗った。
「みんなさん、佐々木さんもあたしの事は桜子と呼んで下さいな。斉藤じゃ梅子と区別付きませんからねえ」
『え』
 初代連中の目がテンになった。
「え、斉藤母……いやさ桜子さんって桜子さんって言うんスか?」
 明美がそろそろと訊く。
「あー……。ひょっとして斉藤の名前って、……おふくろさん関連なんで?」
 竹宮がない頭を巡らして言う。
「そう、あたしの名前がこうだから、それにちなんでうちのバカな亭主が付けたのよ」
 皆、お互いを見渡す。
「なんか今更聞く衝撃の新事実って感じだな」
 木村がぼそっと呟いた。桜子が、それを聞いているかいないか、とにかく先を促した。
「明美ちゃん、お話って? さあどうぞ」
「……いいスけど……なんかちと驚いたな。まあいいや。というわけでここに集まって貰った連中には全員問答無用で協力してもらう。要件は、来年一月十一日の成人式だ」
「なにをなさるおつもりで?」
 藤谷が明美の案を訊く。ただの提案ではないな、そう思って。
「ほれ、よく聞くだろ? 成人を迎えた連中による自主的成人式。新聞誌上を賑わすおイタはこの際置いとくぞ。その話がな、市からあたしに来たんだよ」
「さっすが明美。市から直?」
 朝子さん。
「まあね。お陰さんであのハゲ面たぁおトモダチだからな。ま・この手の自主的行事でお呼びが掛かるったらあたししかいないけど」
「まったく明美だと自惚れに聞こえないんだよな」
 あすみ。
「そこで秀才君にひとつご教示を戴こうと言うわけなのさ」
 明美の瞳はらんらんと輝いていた。いつものことだ。
「なんだ」
「いつぞやのと違って、こんなんはやり方がもうマニュアル化されてある。あたしは通りいっぺんのハコにする気はない。ひとつふたつメインイベント増やさないと祭り好きの初代連中を飽きさせちまうからな。
 それまであと九ヶ月。成田、まさか極められない、なんざ言わないだろうな」
「誰に言っている」
「よし。後ぁ万事任せな。和子」
 明美は隣の和子に悪巧みを伝える。
「まーかせて? 私がやるからには……当然B市も、……ね?」
「当然。そっちのハゲ面との交渉も任したぜ」
「ええ……明美」
 二人タッグを組んだ所で、明美は桜子と斉志をはったと見据えた。
「というわけで桜子さん、面倒臭ぇから管内の一挙にやっちまいます。大船に乗った気でドンと任せておくんなせえ、ド派手にかましてやりますから」
「……ありがとう」
 桜子は気が早いことに涙ぐんだ。
「みんなもいいな。仕事の合間でもなんでも縫え、頼むぜ」
『おう!』
 二年前、明美から厳命された“非介入”。これがやっと解除されるのだ。連中の表情はようやっと明るくなった。
 桜子は立ち上がって、深々と頭を下げた。
「……みんなさん、ありがとう」