年が改まる八日前

 この日は雪が少々散らつき、車持ちはタイヤ交換に追われた。未だ新入社員扱いの梅子は午前中の内にそれを済ませていた。午後出勤だったからだ。だから二泊分の着替えを後部座席へ積み込み、友人と共に購入した一張羅で直属の上司たる主任に言われるまま、二番駅付近のホテル最上階の、今度はスカイ・バーに黙って座っていた。時刻は夜。月は雲で見えなかった。
 リザーブされたその席にはぽっかり空いた椅子があった。一番奥に主任、その左隣に彼女。彼女は一時間、微動だにせずクライアントを待ったが、主任は十分と経たずネクタイを緩ませた。
「それなりの格好で来いと言ったんだが?」
「以前も着ました」
「それしか持っていないのか?」
「はい」
「その時計は外せとも言ったんだが?」
「仕事に関係ないとも言いました」
 主任は絹に似せたテーブルクロスの上に一輪のバラを置いた。色は紅。
「クライアントが来ない。持って行け」
「要りません」
「なぜだ」
「嫌いな色です」
「なら何が好きな色だ」
「……」
「口答えする気か」
「特に好きな色はありません。帰っていいですか」
「口答えか」
「クライアントが来ません。今日の仕事はこれで終わりと聞きました」
 結局クライアントは来なかった。彼女は来た時と同じ表情でその場を出た。その帰り際、業務一覧表を元に大量に仕事を言い付けられる。メモひとつ取らず直帰せず、親友の家へ車で向かった。
 呼び鈴を押すまではその表情のままだったが、玄関先に見知った人物、佐々木明美を見て取ると、彼女は口元を緩めて言った。
「こんばんは。斉藤、です。宅の明美さんはいらっしゃいますか、夜分遅くに済みません」
「なーんて言っているヒマがあったらさっさと来やがれ! 雪入んだろが!」
「うん」
 梅子は大荷物用のバッグを抱え持ち明美の部屋へと向かった。
「ウメコー、メシにするかー、フロにするかー」
「ごめんね明美、突然お邪魔しちゃって。あの、」
「どっちだって言ってんだろうが」
「じゃ、遠慮なくメシで。着替えて来る、洗面所借りるよ」
「おう」
 梅子は勝手知ったるなんとかで、明美の部屋に散らかるゴミその他を手で避けて荷物を置くと、さっさと気楽な普段着姿となった。なにせ彼女は一点もののシルクの白しか下着を持っていないので、普段着とも、一張羅ともちぐはぐだった。
 洗面所で化粧を落とし、友人のすすめ通りの化粧水、友人のアドバイス通りのお肌のお手入れを済ますとさっそく居間へと乗り込み、いい友人のコロコロ共と明美、明美の両親とともにメシを囲った。
「こんばんは、お邪魔しています。斉藤梅子です、宅のお嬢さまにはいつも本当に毎度お世話になって」
「アホーな口上を述べる暇があったら食え! 飯は戦いだ!!」
 梅子の膝元にウロウロするコロコロ共は会った時よりは全員成長していたが、なにせ面構えが似通っているので誰が何太かの判別は付かなかった。皆一斉に早食い競争を開始する。
「あのさ、明美」
「ホレここに座って! 三太どけ!」
「思うんだけどさ……」
「なにチンタラやってんだよ、場所ないぞ!」
「そうだねえ……」
 明美の家のちゃぶ台は四角。一角に明美の両親、隣の一角に明美と梅子。残りの二辺にコロ太共が座るが、座りきれるものではない。
「こいつらはなあ、こうやってメシの有り難さのなんたるかを日々学ぶのよ。うんうん」
「そ・そう」
 ひとりっ子な梅子の家では有り得ない。コロ太共は常にぎゃーぎゃー喚きたてて、どう考えても人数分より少ない皿の食事にハシを突っ込み合っていた。その声は実に楽しそうだった。
 梅子の分の食事はちゃんと一太くんがよそって上げていた。
「まったく軟弱者め。自分のメシは自分で確保! これは世界の常識だ!」
「明美だって一太くんによそってもらっている癖に……」
「あたしは当たり前。父ちゃん母ちゃんも当然。いいんだよ子供はこうで」
 そうかなあ、と梅子はハラでツッコミを入れておいたが、なにせ客分、文句は言わずにおいた。
「父ちゃん、一番風呂あたしが戴くぜ!」
 夕食後、明美は父に向かってそう言うと、返事も待たず梅子の右手首を掴む。
「明美ー、わたしまだ食べおわっていないー」
「ハヨ食わんかい!」
 梅子は小食で、皿に盛った分をまだ消化し切れていなかった。
「ウメコ、後つかえてっからな、あたしの背中流せ」
「ハイ、ワカリマシタ……」
 梅子は食事もそこそこに、しかし佐々木夫妻への礼は忘れずして明美に引っ張られ、大家族用とハンが押されたようなでかい浴室へ二人で入った。
「まったくもって……羨ましいぞこんちくしょう、あたしにもよこせ!」
 明美はじーっと梅子のチチを見つめて言った。
「そんなこと言われたって……」
「メシ代だ、ちょっと観察させろ。ほれ背中、流してやるよ」
「うん。って観察って……あー明美、強いよもうちょっと力抜いて」
「こんなもんかー。小っちゃいなああんたのおセナ」
「ぅぅ……。明美ありがと。はい、次」
「おう」
「明美背中でかいね……」
「何だとー。それじゃまるであたしが胴長短足に聞こえるじゃないか」
「ううん、そんなことない。明美、実は脚長いよね……」
「実はとはなんだよ」
「うん、実はほら、合同で明美リレーに出たでしょう。なんとなくね、そう思った。いいなあ」
「そりゃ鈍足のあんたが脚長けりゃ世の中おかしいぞ」
「そこまで言わなくっても……」
「ウメコはー、……計るか脚の長さ!」
「やー、やーめてー!」
 この間、所謂女の子同士の裸の付き合いがあったらしいが明美の性分通りサッパリしたものだった。らしい、割愛。
「うー、明美ー……そんなジロジロ全部見たってどうにもならないって! わたしだって欲しいよ脚の長さ!」
「バーカ、誰がやるか! 物々交換するな!」
「……けど脚長いのいいなー。速いのもいいなー」
「アホ言ってないでさっさと上がって髪を乾かせ! 次つかえてると言ったろ、寒いんだ、とっとと部屋へ行くぞ!」
「うん」
 二人は、明美の適当に乱雑な部屋へ向かった。
 それから、ぽつぽつと会話を交わすものの、梅子はすぐにうとうとし出した。明美はしゃーないなー、などと言いながら自分のベッドを明け渡した。梅子はすぐに眠った。
 明美は押し入れの中のブツを間違っても落っことさないよう気を遣って布団をずり落とし、確保した一畳分の上にそれを敷く。そのまま、来客用の布団にくるまって電話しようと思ったが、なにせ梅子は熟睡タイプの割に寝息が全く聞こえない。起きているかも知れない、そう思って、部屋を出て一階へ下りた。
 まだフロ待ちのコロコロ共が騒ぐ茶の間で電話した。この家で教わった番号へ。
「来てるぜこっちに。あたし一緒にフロ入ったよ。安心しな、なんの痕もねえ。綺麗な躯だったさ……見て悪かったな」
「感謝する」
「バーカ」
 翌朝早々、梅子は大荷物の中から普通のスーツに着替えて直接出社した。そういう時期ではあるが、当然給料泥棒にボーナスは出ない。
 梅子は携帯の番号を何度も変更した。正確に言うと、変更させられた。仕事用にと使っているので、掛かって来るのは仕事関係の人間ばかり。だからむしろ、そう簡単に変更などするものではない。
 それでも主任は彼女の携帯番号をその都度変えさせた。主任の携帯の待ち受け画面に“斉藤梅子”と出る度に。なにせ彼女は主任へ電話を掛けない。彼女は基本的に内勤で、だから彼女は主任へ携帯で電話を掛ける必要がない。外へ出たのは夏の終わりと年が改まる前のみだった。そんな時にも掛けはしない。
 それでも主任は電話へ出た。最初はすぐに。二度目からはしばらく待ち受け画面を見つめてから。出れば自分が望んでも得られない、腹式呼吸のよく徹る低い声が聞こえるだけだった。
 主任は本来外勤で、立場上営業も兼ねるべきであるが、未だその役は社長たる父親が兼務していた。主任は実務をしない。彼女を背に一度だけ、マシンへ向きキーボードを叩いた。彼女はその音を一瞬だけ聞くと二度とその背へ興味を向けなかった。それ以来、主任は狭い事務所の一番奥、本来社長の席たるひじ付きの椅子へ座って昼前に出勤した。すぐ芸能欄の多い新聞数種を読む。後は先代の社長の時から勤務し続ける常務が完備済みの書類へ判を追加で捺すのが日課だった。その判はいつも所定の欄からはみ出ていた。

二月なかば

 斉藤梅子は前日より朝一番に出社しろと厳命されていた主任へ、朝一番にこぶ茶を湯飲み茶碗ギリギリ一杯いれて出すと仕事に集中した。帰りは、事務所の鍵は彼女が掛けた。主任はその日の内は帰らなかった。