四月 始業式の翌々日 放課後 管内

 その日の放課後は管内の全高校生が着席する日となっている。この内、初代と呼ばれる世代は全員、違和感をもって校内放送を聞いていた。
「管内、全高校生徒三千十一名全員に告ぐ」
 管内高校生全二学年の生徒は、今年は自分達が主役、そう思っていた。お祭り好き、噂好き、各分野で突出した才能の持ち主が揃う、初代と呼ばれる者達を羨望の眼差しで見ていた。
 管内高校生全新入生の中には、この為に隣接第四管区の高校へ入学した、と公言する者はかなりいた。入試倍率も去年より高くなっていた。
 第二回合同祭までを経験した全員が、この日まで、必ず目にする光景があると知っていた。またあんなふうに惚気られるんだろうな、と。中には、管内でも最中心人物の誕生日を知っている者──初代に多し──もいて、入籍宣言でもあるんじゃないのか? と、言い合っている者もいた。
 もっとも、初代の連中はもう全員余裕が無かった。
 人生が懸かっていた。せいぜい一人を除き。だからこの時間までは。
 この時間までは数名を除き全員が心の奥底でこう思っていた。
 こんな時期に/こんな切羽詰まった心境であんなの見させられんのかよ/止めてくれよ/いくら余裕だからって/こっちはそんなもん無えよ/
 少しは/
 遠慮しろよな
 初代の連中は数名を除き全員が、二年二日前の心境に戻っていると未だ気付いていない。

四月 始業式の翌々日 放課後 A高3A

 斉藤梅子はこの日の校内放送で、そういえばそういう行事があると思い出した。
 今日まで彼女は一日も休まず二番駅付近のカビ臭い四階建て四階奥の事務所に通い詰めている。それは3Aの主担、早坂には伝えてある。
 3Aのひとりを除く全員は、自分達に教室攻撃が掛けられるかどうかなど考えてはいなかった。なぜならその時が来たならば、いくら成績の悪い自分達でも当事者の片方へ確実に苦情を寄せよう、そう思っていたからだ。掛けられるか、ではなく、むしろ来て欲しいとさえ思っていた。そうすればこの鬱蒼とした気分が晴れるから。数枚しか届かぬ、ボロボロになり過ぎてようやっとクリアケースに収められ、もう何通コピーを取られたか分からぬ求人票を何度も恨めしそうに見つめていたから。
 クラスメイトは全員敵だ。求人票を取り合う敵、公務員試験の蹴落とすべき敵。
 敵対視する標的の最高峰は、いつ楽な就職先におさまるのか。全員がそう思っていた。揶揄と共に。軽蔑と共に。
 3Aのひとりを除く全員は知らない。クラスメイト全員から敵対視されたその人物が中学三年の一年間、理由は違ったが同じ感情のこもった視線を一身に浴び続けていた過去を。
 標的者、斉藤梅子は授業がおわるとすぐに学校を飛び出した。

四月 始業式の翌々日

 斉藤梅子は会社に初めて行ったその日の内に業務内容をメモを取る暇も無く聞き続けた。
 次の日その事務所内にいる内勤の七名全員が、昨日入ったばかりのアルバイトが言われた通りの業務内容を全て暗記していたと知る。確かにまだまだ他にも業務はあった。そう思い直して、彼女にさらに指示を出し続ける未来の同僚達。彼女は、メモは一切取らなかった。
 取引先の住所電話番号も既に覚えきったらしい彼女に、主任と呼ばれる男性は舌打ちした。取引先帳を適当に開き、適当に指をあててその先にあるクライアント名を言い、ここの住所電話を言え、そう彼女に言った。何度も。全部即答された。社長は、そんな暇があるなら営業に出ろ、そう主任へ言った。主任は癖のようにお父さん、と口走ったが、なにやら相当諌められたらしくすぐに口を噤み、しかし社外へは出なかった。社長はため息を付いて、直属の部下である常務を伴い外回りをして来ると言って会社を出た。主任は空いた事務所右奥のひじ付きの、ビニール皮の椅子へ座って、斉藤、茶。そう言って手持ちの芸能欄の方が多いスポーツ新聞を読みはじめた。呼ばれたアルバイトは茶をなみなみと注いでその机の上にドンと置き、すでに同僚として認められている室内他七名の指示を訊きに行った。
 主任がモニター画面の前に座ったのは、四月一日だけだった。
 主任が、今日はどこの女をいわせてやろうか、そう声高に言いながら重役退勤した後の事務所内の空気は、かなり明るいものに変わっていた。七名のうち一人は彼女に、あの人業務の指示なんて出せるわけがないから安心してね斉藤、そう言った。自分達も休み無しだけど、お互い給料の取りっぱぐれだけはないようにしようね、そう言った。
 疲れ切った表情で。

 斉藤梅子はその日夜半、自転車で自宅へ戻っていた。
 四月以降、黒電話に向かう時、彼女はその背に必ず一対の、骨の髄まで叩き込まれていた視線を浴びている。たとえ何時であろうとも。
 電話先の相手はすぐに出た。
「明美? 斉藤梅子、です」
「おー、随分挨拶だなーウメコ。なんだよ」
「わたし、今年の合同出られないんだ、就職活動しているから」
「へーえ……ったってオイ、あたしもう生徒会長でもなんでもないんだけど?」
 D高の生徒会役員選挙は行われる時期が早い。
「……あ、そうか」
「まあ、あたしも就職活動中だ、気持ちは分かるぜ。よっしゃみんなにはあたしから、あんたが忙しいって伝えとく」
「うん、そうしてくれると嬉しいな」
「おう、じゃーなー」
 斉藤梅子の知人友人との連絡は黒電話だけの生活に戻った。
 佐々木明美は待ち受け画面に出た氏名の次にカッコ書きで黒電話、と記されたそれを受け取った後、とある特殊な携帯へと電話した。
「ゲロ大会だ。いますぐ来い」

四月 始業式の翌々日 深夜

 明美は十二桁以上の電話番号との通話をおえた後、そのままの姿勢で待ち構えた。部屋の乱雑さもそのままに、家族に誰かが来るとも言わずただ待った。
 二十分後、重低音二つが佐々木家の庭で止まった。
 常ならガサゴソという音もする。今回はただ重い足音が二つしただけだった。部屋の引き戸が開け閉めされ、足で場をつくり、二人同時に──意識せず鏡写しの仕草で──座った。
 呼び付けられた二人は、両名置いとく大親友からは目線を外していた。
 お互い、自然座る場所は決まっていた。
 まず明美が口を開く。
「あんたらを呼んだ理由。さっきウメコの黒電話から連絡が入った。一字一句。“わたし、今年の合同出られないんだ、就職活動しているから”。時間は二十一分前、午後十一時四分だ。
 成田。言え」
「四月一日、午後十一時二分。梅子の黒電話から連絡が入った。
“就職のことだけど。これから一年間、休み遅刻早退無しでミスせず勤めれば正式採用になる、そういう会社があったの。わたし高卒で、しかも女子。求人票なんか回って来ない。職種はプログラマー、だからこれにする。公務員試験も受けない。これ一本に決めた。だからもう”
 次が聞きたくなくて遮った。“分かった。梅子の自由に”」
 遼太郎は無言だった。
 たっぷり三分はそのままだった。明美は一旦天を仰ぐような仕草を見せた後、静かにため息をついて言った。
「……もう分かっていたことさ。そうだろう、成田」
 明美も遼太郎も、こいつはもう口を開くまい、そう思っていた。
「もう、あんたらと成績がどうとか面がどうとか言わないよ。だがな、実際あたしらはあんたらに先んじて社会へ出る。もう余裕はない。あたしも就職活動中だ。分かっていると思うがウメコにゃ特に余裕はない。
 成田。あんたが真剣なのは分かっている。待ちな」
 明美は、いや遼太郎も、斉志の返答は期待していなかった。
「……もう逢えない」
「……は?」
 斉志は下を向いている。誰かを見て喋っているのではない。こういう会話内容だからそれは当然だった。
「あたしは待ちなと言ったんだぜ。何故そう結論を出す。先読みったってし過ぎるぜ、慎重に行動し……」
 なにかに気付いたようにぐっと乗り出して、疑念の目を向けた。
「おい。そう断言する理由が他にあるな。言え、誰になにを言われた」
 斉志は表情を変えず無言だった。
「言え成田、今後の為のゲロ大会だ、部屋ん中でウジウジ悩む為じゃない!」
「……四月一日、午前六時十三分。梅子の黒電話から連絡が入った」
 ならそれを先に言え、そう明美は言い掛かった。だが黒電話? 梅子の黒電話とは斉藤家の電話をも指す。自分はそれを受けた直後にこの二人を呼んだ。掛かって来た時間が時間だったからだ。時間? 早朝と呼べるその時間。
「“斉君や。娘に二年間、なにをしたのかおれは知っている。だからもう梅子の好きなようにさせてくれ”」
 明美も遼太郎も同じように目を見開いて絶句した。
「……もう逢えない」
「あたしは……」
 明美は必死に言葉を紡ごうとした。その言葉を誰が言ったのか、それがなにを意味するのか分からぬ明美ではない。
 とどめの一言だった。
 二年? なにをしたのか? この言い回し。
 いつから知っていた? ……梅子が学校を休んだ、休まざるを得なかった高一の五月、斉志が梅子を強姦したあの日に決まっている。それに気付いていたのか。それでも結納を交わさせたのか? 分かっていながら、二年間。
 まさか準備万端で?
 引き剥がすつもりだったのか、最初から!? しかも、……期待を持たせて!
「あたし、は……もう逢えないという理由を言えと言ったんだ……その言い様で、なぜ、……そう断言する。ウメコが、好きなようにする、ということは、あんたがそう言う理由にはならないぜ……」
 それでも明美は食い下がる。ここでなにかを言わなければ、その言葉にお墨付きを与えたようなものだ。諦めたらお終いだ。
「ウメコが自分の……自由にあんたに逢えると、そう思えないのは何故だ? 成田、誰あろうウメコがあんたを許したんだ、そうだろう! 言え、まだあるな、誰になにを言われた!?」
 嫌な予感がした。こうやって言うべきを言わず置き、事件に直結した二年前。
「“なぜ一年間、君は逢わなかった?”」
 この一年間とは梅子の中学三年生時代を指す。
「……は?」
「“彼女を放って置いてもいいと思ったのか。彼女は一見、あの通り。男好きする体型でもなかった”」
 もはや絶句もとどめも通り越した。
 なぜなら明美こそこの疑念を抱いていた。ただそうはっきりとは問わなかっただけだ。だがはっきりと口にした事はある。
“宣言前の梅の字は……”
“外見わざわざ褒める余地はない”
 誰あろう明美が言った。その婚約者の目の前でここまではっきりと、誰あろう明美が正面切って言った、
“そんなえー体してんなら──”
 誰あろう明美が問いたかった。あの騒動を直近で、その目で見、その耳で聞いた明美、その耳にはこう届いた。
“成田と/西園寺の/仲を/邪魔する/それが/斉藤/梅子”
「“だから放って置いても構わない、と”」
 明美はもはや知っている。あの噂の蔓延度を。どこまで言われ尽くしていたのかを。それに梅子がどれだけ振り回されていたのかを。
 斉志は言った。中三の一年間、一度も逢わなかったと。ただ成績を調べていただけだったと。その成績が三百番台という足切りの順位であったとは当人がその通り言っている。ならばそれも斉志は知っていた。どれだけギリギリであったか他ならぬ斉志が知っていた。
 それでも放って置いたのか?
 外見を褒める余地も無く、そんなええ体でもなかった。それを見知っている成田斉志は一年間、斉藤梅子に逢わなかった。
 外見が不味いので周囲の者に目をつけられずに済むから、その間は逢わなくても構わないと、そう思って放って置いたのか? 成績があの通りだったのに? その間彼女の身になにが起こっていたのか、考えもせず?
「“君は彼女に逢う資格など無い。これからもずっと”」
 その言葉は、斉志が梅子に惚れた時期を知った者なら誰でも言うだろう、いや、叫んだだろう。明美には分かっていた。斉志の高校一年生の合同でのあの宣言は脅しだと。
 惚れた時期を気付かせない、勘ぐられない為の脅しだと。
 なぜ斉藤梅子は一年間、惚れられた人間とたった一人の親友の仲を邪魔しているなどと非難を浴び続けたのか。挙げ句誰の目にもはっきり分かる程に爆発したのか。その間、事件を解決すべき人間はなにをやっていたのか。──なーにもしませんでした、だと?
 ふざけるな。
 それを知られたら? 勘付かれたら?
 大分前から勝手に、調べ上げていた奴ら──
「誰に言われた、成田!」
「……後ろの席。3H、窓際、最後尾……。田上真木」
 聞き終わった瞬間、この場で口を開いていなかった人物が怒鳴った。
「また俺達は奴に踊らされるのか!」

西川遼太郎

 何故惚れた時逢いに行かなかった? 西園寺と一緒にいた、だから誤解されたくなかった!
 何故一年間逢いに行かなかった? 梅の字の受験勉強を邪魔したくなかったからだろうが!
 何故最初に触れた時放り投げた? お前自身がやつらをぶん殴って守ってやってもよかった、だが最初からそんなことをすれば梅の字はお前を頼るだけの存在になる、勿論梅の字はそんなやつじゃない、誰かに助けられようなんざ思っちゃいない! 誰かを待ったこともない!! 西園寺の教室で手放したんだ。唯一の友人だ、だから梅の字を西園寺へ預けた!
 何故あの大宣言で惚れた時期を言わなかった? お前は噂を知らなかった、騒動の内容も聞こえなかった、惚れた時期なんざいくらだって言えた、だがしなかった! 言えば俺が梅の字を試し見捨てたと分かられるからだ! 嘘の噂をそのまま流し、それが周囲に曲解されていると知っても撤回しなかった西園寺が、お前を出向く必要も無い五中へ呼び付け試したと分かられるからだ! お前はあの時期既に俺達の名誉を守ったんだ! だからお前は梅の字を部活に遅刻させたんだ、あの場で梅の字に自分を糾弾させる為に! それだけの為に待ったんだ!
 梅の字は誰かを糾弾する性分じゃない! すれば相手と、誰より自分の立場を悪くすると分かっているからだ! あいつはそうやって、ずっと前から全てを見通し行動出来、関わった全員の立場を考慮し続けているんだ! 言い訳一つせず!
 資格? んなもん当人の口から直接聞いたのか。ワタシあなたが来てくれなかったからアナタに逢わないんですよ、とでも?
 梅の字が、お前にンなふざけたこと言うとでも思ってんのか!!
 お前が長かろうが短かろうが自重に耐えたのは、梅の字に余裕が無かった時だけだ! 今がそうだ、そうだろう!!
 梅の字はひとりで歩いて行ける! だからと言って放って置けば、ずっとひとりだ! お前と同じ、ずっとひとりだ!!
 泣かせてでも、傷つけても嫌われても、そう言ったな。
 ニンゲンやってりゃそんなもん、ありまくりなんだよ。
 惚れたんだろ、ひとめで。

四月 始業式の翌々日 深夜

 明美はアゴをしゃくって部屋の外を指し、眼前の大の男二人を帰らせた。帰り際、これだけは言った。
「連絡は全部あたしが取る。あんたらは動くな、いいな!!」
 言いおわった直後、いつものメンツへ、明日放課後店に来い。それだけメールで連絡して就寝した。