四月一日

 こういう事は前にもあった。──二年前。
 いいよね/もうラクしちゃえるもんね/こっちはこれから入試/就職だっていうのに/あんなふうに/目の前でいちゃつかれて/ケッコン?/永久就職?/わー/ラク/なにも考えなくていいもんね/羨ましいったら/こっちはこれから人生賭かっているのに/幸せ一杯で登校して来るんじゃない?/いいよね相手/あれだけ凄けりゃ/毎度毎度見せつけられて/こっちの身にもなってよね/またあんなの見なくちゃいけないの?/そんなの/だったら/
 もう/
 学校/
 来て欲しく/
 無い
 もう、もう二度と縛り付けたりしないから。そう決心した二年前。環はキラキラ、キラキラ輝いていた、それを穢し続けた一年間。なのにわたしは更に二年、成田くんすらも穢し続けた。重い足枷を付け振り回した。だからこれはわたしの咎。
 なにか罰が欲しいか──それクリアしたら許されると思っているのか──
 警告を全て無視して守られ続けた三年間。わたしがしたことと言えば一体なに? 何様? それはわたしが一番問われなくてはならなかったこと。
 わたしがすべきこと、出来る全てはなに? 二年前はこう思った。恩なんか返せない、だから離れることだけがわたしの出来る全て。なのに結局今でも変わらない。変わらない。わたしに相応しい人生、それはなに?
 下らぬ思考に似つかわしい人生。
 それでよかったのに高望みした。決してしてはならなかった。二度の重罪。わたし自身の、これは咎。
 わたしのすべきこと、出来る全てはなに? そんなのは決まっていた。最初から決まっていた。
 罪作りだね
 警告を無視して貰われた。血は、更なる警鐘に過ぎなかった。あの時離れるべきだった。嫌われたくなくて絡め盗った。絶対に関わるべきではなかったひとの、貴重な貴重な人生を。
 だからもう。
 だから、もう。

四月一日

 斉藤父は早朝、とある人物に電話した。その人物は呼び出し音などまるで聞こえぬタイミングで電話に出た。だが一言も発しなかった。
「斉君や。娘に二年間、なにをしたのかおれは知っている。
 だからもう梅子の好きなようにさせてくれ」
 それで会話は切れた。

四月一日

 斉藤梅子は自宅で、朝食をとる前に、父親から今日は用事があるから一緒に来るように、と言われた。
「大事な話だ」
 彼女はこの言い方に覚えがあった。中三までの、いや、受験日が近付けば近付く程、そういう口調になって行った父、その眼光に。だからなにも言わず食事を済ませた。味はしなかった。誰にも電話をしなかった。
 春休み中だというのにオーダーメイドの制服に身を包むこととなった彼女は、父の運転する車の助手席に乗った。携帯電話を家に置いて。お互い会話も無かった。その表情は、お互い中二の時のようだった。
 車は二番駅駐車場で停まった。
 父は娘を伴い、地図を片手に狭い路地を少々迷いながら、年代物のカビくさい四階建ての建物へと入った。父はエレベーターが一階へ下りてくるのを待たず階段を上がって行った。娘は黙ってついて行った。あとで、エレベーターを使うより階段を使った方が早いと分かった。
 四階建ての一番上、一番奥の部屋のノブを父が開ける。娘はその背後で無言。そこはなにかの事務所だった。部屋扉には会社名があったが、彼女はそれを覚えなかった。
 入室すると、右奥が社長の座る椅子らしかった。応接間はあったが、間仕切りのないワンフロアの事務所。その真ん中に机が六・七あり、壁の間に僅かばかりの通路があった。机の上は書類で溢れていた。
 親娘が右奥へ入ると、そこには二人の人物が待っていた。親娘は下座へ座った。
「ようこそ、斉藤さん」
 二人の人物のうち、年配の者が口を開いた。
「ありがとうございますー、社長さんー。雇って貰えるとは思っていませんでしたー」
「倅が帰って来たのでね、これで私の仕事も楽になります」
 そんな話、斉藤父は初耳だった。だから気を取り直して挨拶した。
「……そうですかー。いや、初めましてー、斉藤ですー。これが娘ですー」
 社長と呼ばれた人物の隣には、せがれ、らしき三十歳前と分かる男性がいた。
「お父さん、これ僕の専属秘書か?」
「……いやー、社長さんー?」
 斉藤父の言葉は、少し剣呑としたものとなった。
「ああ、斉藤さん。倅と初対面でしたね、東京で修業を積んで来たんですよ。向こうに住み続けたいと言っていましたが、戻しましてね」
「……そうですかー?」
 斉藤父は、社長の言葉には納得しなかった。
「遊佐、これ、は無いぞ。礼儀をわきまえろ」
 ゆさと呼ばれた男性──社長の息子──は、その言葉を聞かなかった。
「おいジーサン、その女の」
「社長さんー? 娘はねー、自分の名前嫌いなんですわー」
 斉藤父は、自分をジーサン呼ばわりした男を嫌いになった。
「遊佐」
 社長は息子を諌めた。今度は息子も言葉を聞いた。
「……はい、お父さん」
「生返事癖は取れていないな、遊佐」
「……社長さんー?」
 斉藤父のイントネーションが、疑惑を生むものとなっている。
「遊佐。私の顔に泥を塗る言動は慎むように。斉藤さんのお嬢さんは単に斉藤、そう呼びなさい。間違っても“相手の意に反した性的な性質の言動を行い、それに対する対応によって仕事をする上で一定の不利益を与えたり、又はそれを繰り返すことによって就業環境を著しく悪化させること”とお上で定義されているような行為はしないように。もしそれをしたらクビだ」
 話は長いが要するに、セクハラをするなということだ。
「……はい、お父さん」
「そうやっていつも生返事だ。遊佐の作った借金二千四百万円は父さんが立て替えたぞ、真面目に稼いで返しなさい」
 それを他人がいる所でバラさられるとは思っていなかった社長の息子は抗議する。
「お父さん!」
 事務所内に失笑が漏れた。
「……社長さんー?」
「ああ、申し訳ありませんね斉藤さん、勘弁してやって下さい。甘やかして育てましたが、この通り手元に置いて厳しく躾ますので。私に今度見捨てられたら、倅の命はありませんから。遊佐、こんな狭い田舎では話などすぐに伝わる。また暴力団事務所で下足番をしたくなければ言う通りにしなさい。いいね」
「……はい、お父さん」
 事務所内の失笑は苦笑に変わった。
「斉藤さんのお嬢さん、この会社は、……早い話がソフトウェアの開発をしている会社でしてね。あなたがそういった事に興味をお持ちだと斉藤さんから伺ったのでお呼びしたんですよ。こんな倅で申し訳ないが、これでも腕は磨いて来ていましてね。如何ですか、この会社に就職されては」
「是非お願いします」
 梅子に躊躇いはなかった。だから遊佐が噛み付いた。
「即答か、随分生意気」
 社長がその言葉を切った。
「遊佐。今度若造口を叩いたら、そうだな。土間で寝置きして貰おう」
「……はい、お父さん」
 彼は父の言にうつむき、しかし直後に梅子に向かって言った。
「斉藤、毎日来い。遅刻早退は厳禁だ。携帯を買え、どうせ持っているだろうが捨てろ。番号はガキに教えるな。口答えしたら、クビだ」
「業務内容を知りたいので、目の前でお仕事ぶりを見せて下さいませんか」
 梅子は平坦な声で言った。
「おお、やる気がおありのようですな」
「はい」
 梅子のこの言葉に、遊佐はむかついた。口を差し挟む。
「もし一度でもミスしたらクビだ」
「はい」
「申し訳ないが、会社とはこういうものでね。一年間それが出来たら正式採用しますので」
 社長は視線を斉藤父に向け直して言った。
「これでよろしいでしょうか、斉藤さん?」
「ええ、社長さんー」
 斉藤父は、ちゃんと仕事しろよー、と彼女に言った。娘ははい、と応えた。
 遊佐と言う名の男性は早速、室内で作業中の他従業員をどかせて席に座り、おもむろにキーを叩いた。
「倅の事は主任、と呼んで下さい。斉藤さんのお嬢さん」
「お父さん、僕社長じゃないの」
「遊佐」
 社長の眼光は、まだ息子に通じていた。
「……はい、お父さん」
「社長さん。わたしのことは単に斉藤とお呼び下さい」
 梅子は、自分を雇ってくれるというこの親子の、無言の対話など興味もないかのように言った。
「そうか。斉藤、私は社長とのみ呼ぶように」
「はい」
「遊佐よりも礼儀正しいぞ。社内でお父さんとはなんだ、遊佐も社長と呼びなさい」
「……はい、社長」
「……社長さーん?」
 斉藤父は、梅子の就職先をここにしたことを全く後悔していなかった。条件にかなったからだ。だが、この親子関係だけは誤算だった。
「いやあ……。全く困った者ですが、……腕だけは確かですので……」

四月一日

 斉志は夜半、もう一度同じ番号に別人物から電話が入った時、静かに出た。躊躇い無く静かに。
「就職のことだけど」
 梅子の言葉も、それはそれは静かだった。
「これから一年間、休み遅刻早退無しでミスせず勤めれば正式採用になる、そういう会社があったの。わたし高卒で、しかも女子。こんな田舎で求人票なんか回って来ない。職種はプログラマー、だからこれにする。公務員試験も受けない。これ一本に決めた。
 だからもう」
「分かった。梅子の自由に……」

四月一日

 全ての契約は破棄された。以降、A市西南の朝に重低音は鳴り響かず、成田斉志は永久に、斉藤梅子からの電話を受けなかった。

四月三日

 斉藤梅子が自宅へ戻った時には午前様だった。それでも梅子はすぐに黒電話のダイヤルを回していた。一対の、中学三年時常に浴び続けた視線を背に。
 相手はワンコールもせずに出た。
「西川」
「? おう、どうしたテメェ」
 何も知らない遼太郎は、夏休みや冬休み、そして現在の春休みのような長期休暇に、梅子が自分へ電話を入れるとは思っていなかった。しかも時間が時間。すぐに異常事態だと分かる。
「卒業までの約束、破ります」
「……どうした」
「退部します。就職活動をします。職種はプログラマーです。わたしにはこれしかありません」
「おう、ならテメェは退部だクソして寝ろ」
「はい」
 以降、西川遼太郎も永久に、斉藤梅子からの電話を受けなかった。