七月八日 月曜日

 翌朝。
 オンナの支度は時間が掛かるものよ、と誰かが言った。
 現実は全くその通りで、化粧台とかドライヤーとか姿見とかおトイレとかの使用権を奪い合うとってもかわゆいオンナ模様が所狭しと展開されていた。
 野郎の支度なんざ簡単よ、と誰かが言った。
 やつらは別に鏡を何十分も睨むなどという趣味はない。適当に、さっさとツラァ洗って歯ァ磨いて髪梳かしてヒゲを剃ってその他諸々一丁上がりと手早いもんである。当然その前の、朝起きたときの生理現象がどうのなぞ誰がイチイチ詳細に書くか。
 さっさと準備をおえ、しかしてまだ朝飯の時間じゃないという中途半端な時間帯。夜のようにモロ出しの野郎模様なぞ展開されちゃあいないが、とにかくこの部屋の窓際に、ひとり佇む男がいた。その男、西川遼太郎は畳に座り窓にもたれ、ただ外を眺めていた。

七月八日 月曜日

 実質的に今日が修学旅行の初日である。男女完全別行動の宿舎暮らしから抜け、日中は完全自由行動。皆、青春を謳歌すべくそれぞれ散った。サッカー部くんは出来たばかりのカノジョと、坂崎は柊子ちゃんと、斉志は梅子と。2Bの諸姉はそれぞれのカレシと。相手のいない智吉は相手が他校の祥子と。
 かようにそれぞれ決まった相手がいる者達はいいが、今でも相手が決まっていない者達がいた。そのうちの一人の名は西園寺環。
 彼女は意中の男性はいたが、想いを告げずにいた。だから約束なぞはしていなかったし、友達はA高では梅子ひとりだったので、さあ自由行動ですよと言われても、約束を取り付けるべく男宿舎に行けるでなし、たったひとりで立ちすくむしかなかった。
 その彼女に。ピンでいると見られた彼女に、男子生徒が何重にも人垣を作った。その人数、多数。
 だが誰も、彼女とは一定の距離を保ち、はっきりとはそばに寄らない。誰もが一歩下がって彼女を取り囲む。なにも言わず。いや、言いたいが、誰か口火を切ってくれ、と言わんばかりに。そうこうするうち、垣根はさらに厚くなった。
 このまま行けば環はとんでもないことになるのではないかと、大丈夫かと、この集団を見る周りの者もいた。そのうち誰かは、生徒会へ連絡した方がいいんじゃないのかと思う者もいた。
 こんな垣根に、割って入った者がいた。──犠牲の子羊?
 そんなものではない。
 彼の名は西川遼太郎。ぽつんと一人、誰からも助けられないで取り囲まれていた環へめがけて人垣をかき分け、彼女の前に出たかと思うとすぐさま環の細い腰に手を回し、周囲を睨みつける。その先の人根が自然と割れ、野郎共を置き去りにし、そこから二人でどこへと問わず去って行った。

 二人は周りの注目を浴びながら、同校生のいない所まで歩き続けると、環が足を止めた。
「私、行けません」
 鋭い声だった。
「何故」
 答える声も鋭かった。
「最低だからです。私が」
「俺ほどじゃない」
「え」
「誓いを破っている」
「え……」
「触れてる」

七月八日 月曜日

 彼はもう左利きに近付いていた。中学二年の夏、鷹揚な父から一度だけ殴られたことが原因だった。息子はそれを甘受した。殴られなければならなかった。彼が傷つけた、ある人のために。その人は彼を殴るだけの力が無かった。ただ泣いて、そして胎ろし、去って行った。
 暗闇を見せ、自分はその縁に立つことしか許されなかった。傍にいたのは相棒、そして父。
 彼らにも言わず、ひとり己にありったけの罰を下す。
 ──もう二度と触れはしない
 幼少の頃から相棒と共に武芸十八般のうち幾つかの門を叩いた。教えは素晴らしかった。それを活かすことが出来なかった。体格だけが先行していたのならまだよかった。アンバランスになるには彼も相棒も聡過ぎた。
 本当の暗闇を知ったなら、人は光しか求めない。暗闇を抱えた相棒は雪の中にそれを見た。
 人は琴線に触れる出逢いを恐れ渇望する。
 乗り越えた相棒。触れて来た弟子。
 父親になる筈だった自分。その手にかき抱く筈だった存在。
 父性愛だった、数限りなく、大切な人達へ。

七月八日 月曜日

「軽蔑して貰って結構だ」
「私ほどじゃありません」
「何故」
「親友に嫉妬しました」
「……」
「虐められて可哀相な他人を見捨てたことも、真っ赤な他人を試したことも、大嘘の噂を流して親友を傷つけたことも、親友の大切な告白を勝手に喋ったこともあります」
「……」
「打ち明ければ悩みを渡すだけ。そう勝手に考えて、親友へは弁明も謝罪もしていません。だからこうして貰う資格はありません」
「資格?」
「ええ」
「証明するか?」
「え?」

七月八日 月曜日

 都路のどこかで誰かの声が聞こえた。こんな内容だった。
「へ~え。大っぴらに謝ったんだ」
「そう! 最初にさ、あの人の隣の席のコがでっかい声でやって、あと全員ノリってカンジだったけど? 結構気持ちよかった」
「あたしも! ……まあ、グジグジ言ったって始まらないしさ、すっきりしたっていうかせいせいした」
「ちゃんと言ってごめんって言えて、それで許してもらうと気分いいんだなーって」
「思ったよね」
「天気もいいし!」
「気分は爽快!」

 都路のどこかで誰かの声が聞こえた。こんな内容だった。
「へ~え。そんなことがあったんだ」
「そうみたい」
「確かに、他の学校と試合する時、なんだA高生って冷酷揃いかって目で見るやついたからな」
「そうそう。ほら、会長さんでさえ踏み込めないなら、ここぞとばかりに詰め寄られ~、なんてのもアリかもしれない、と思ったんだけどね」
「あの成田がそんなの聞きつけたらタダじゃ置かないだろ」
「そうだよね。それどころか、ちゃんと言いづらい事当人の前でおっきな声で言ったなんて、大したものだと思う」
「そうだなあ」
 声が聞こえた場所は場所柄神社仏閣その他モロモロ、ただし言っている人間は全員さばさばとした、晴れがましい表情だった。
 いつぞやと違って。

七月八日 月曜日

 日中完全自由行動というお題目をいいことに、A高二年生どもは全員それぞれの青春を謳歌していた。
 その中で、こんな二人がいた。彼女と──井上くぅン。

 彼は毎朝、誰より早く学校へ来る。彼がサッカー部に入部したのはラジオで合格通知されたその日からだった。その日から誰よりも早く学校へ来た。そして三ヶ月も経たないうちに、彼は用務員のおじさんから正門の鍵を貸与された。
 彼は高一の春、桜の木の下にいた女の子に恋をした。だがそれは、淡いというにはあまりにも怒濤としたものだった。女の子には彼、というか婚約者がいて、自分は失恋した。
 いい加減吹っ切ればいいものの、残念なことに同じクラスだった。毎日女の子を視界に入れてしまう。そうでなければこの心もおさまってくれるかと思ったのに、毎日声を聞けて、毎日見られて。文化祭でまた惚れて、褒められて。そんな一年。高校一年という青春時代はあっという間に通り過ぎた。
 二年になって。それでもまだ諦められない彼の前に。
 ある朝、とある女子高校生がいた。あの女の子とは違う彼女だった。
 彼は先客が正門前で待っているなんて初めてだった。そして悔しがった。このままだと鍵を取り返されるかもな、と焦った。
 だが彼女は、正門が開くことが目的ではなく、彼を待っていた。
「これ、読んで下さい」
 突きつけられた手紙は、どう見てもラヴ・レターだった。彼はその場に立ちすくんだ。
「開けないんですか。鍵」
 そう言われて彼はようやっと正気に戻った。急いで鍵を開ける。
 その間、彼女はその作業ではなく、正門から続く坂道を見ていた。それはそれは、強い目で。

 彼はその日、トイレの個室にこもってそれを読んだ。内容は予想通り。好きですと。あと電話番号と名前が書いてあった。斉藤でも梅子でもなかった。
“合同祭、ラス前の競技に、一緒に出て下さい”
 それがラヴ・レターの〆だった。

 合同祭三日目。彼はぼーっとしながら陣地にいた。先日まで競技に出ていたが、今日はすることがない。本来は。
 彼はテント下を一瞥した。
 ──いちゃいちゃ……見せつけてくれやがって……
 そして、携帯を取り出した。
「俺、井上……この間の件、いいぜ。ただし……あの競技には出ない」
 彼は言うだけ言うと電話を切った。その日はもう帰りたかった。
 だが電話はすぐに鳴った。待ち受け画面を見ると、彼女の電話番号だった。何度か着信音を聴いて、出た。
「だったら、修学旅行では一緒に行動して下さい」
 ああ、なるほどと彼は思った。彼は修学旅行、誰とも約束していない。友達と回ってもいいが、野郎だらけなど嫌に決まっている。
「……ああ、いいぜ」
 そして彼は彼女とここ、京の地にいる。

 目力が強いのが印象的だった。そんな女の子を、彼は一人知っている。だから、悪くなかった。容姿は合格点。それも、悪くなかった。
 問題があるとすれば、そうそれは──彼の方。
「あたし、三十三間堂に行きたいです。井上君はどこか回りたいとこありますか」
「いや、特に考えていねえ」
 好きですと告白して、それに応えたんだから、二人は彼氏彼女であるはずだが、言葉遣いは固かった。
「せっかく京都に来たのに、何か調べるとかして来なかったんですか」
「……ん、まあ……テキトーに、教科書に出て来るようなところに行けりゃいいかな、と。タクシーで知ってるとこ言えば着くだろとか……」
「じゃあ行きましょう」
 彼の言った通り、タクシーに乗って目的地まで行った。
 それからも彼女主導で二人は京を回った。

 時間となり、宿舎へと着くと、彼女はブンと頭を下げてから言った。
「今日は一日付き合ってくれて、ありがとう。井上君」
「いや別に……」
 そしたらビンタが飛んで来た。彼は空手二段、簡単に避けられる。だがしなかった。回りには同校生で溢れていた。
「話は上の空。あたしどころか誰も見ていない。やる気なし。あたしだけ勘違いで恋してた。
 サヨナラ」
 彼は彼女の後ろ姿を、去って行った地点をずっと見続けた。そして張られた頬に手を添えた。
 ──痛がっちゃ、いけねえんだよな……
 そう、それは彼の咎。いつまで経っても諦められない彼の咎。
 彼は宿舎に戻ると一人飯を食い、風呂につかった。首までどころか頭のてっぺんまでじゃぶんとつかって。
 ──振られちまったあ……
 自分はもう、振られているというのに。
 ──いつになったら、新しい恋が出来るんだろう……