入梅

 ある雨の日。
 遼太郎は、コンビニ傘を片手に家の近所へふらっと出ていた。
 すると、斉志もやって来た。
「でェー……」
 この二人。二年と数ヶ月前までは、なんの無駄口もなかった。ああ、も、そうか、もなかった。だから、こんな会話は有り得なかった。
「お前の愛しの梅子ちゃんは、紫陽花はお好きなのかね?」
 二人ともふらりとやって来た。目的は同じ。この辺に群生する、この時期ならではの花を見に来たのだ。
 勿論斉志は答えられない。
 斉志は前、梅子に、バカ正直に“梅の木は好きか”とは訊いた。だが、ただそれだけ。他の、道ゆく木々は、花は好きかと訊ねる、そんな応用すら利かない。
「俺がァー……」
 斉志の傘は一点ものの黒。
「頂いちゃってもいいんだぜ? 梅子ちゃんを、よ」
 お前達のその程度の仲ならな、と遼太郎は続けた。
「ちょっと来い」
 会ってから一度も発言のない斉志を、遼太郎は自宅へと伴った。
 だから斉志は、梅子に関しての説教が続くものとばかり思っていた。西川家には西川父もいた。
「まず茶を汲め」
 斉志は無言で台所へ行った。三人分を。遼太郎は居間でばりばりと煎餅を食う。
 三人揃った所で、遼太郎が出された茶をすぐひとすすりしてから言った。
「聞いた話によるとォー……あの坂崎ちゃん。生徒会長に立候補してみる気はねェか、って言われているみてェだなァ」
 西川父もばりばりと煎餅を食う。海苔巻き煎餅。二人の好物だ。西川家には常備してある。
「お祭りのご様子から察するに、お前と競い合わせたら面白そうだ、どうなるかな。ってェー。思われているみてェだぜ」
 外はしとしと、梅雨。
「けしかけている筆頭は相馬あたりだとさ。どーする?」
「ない」
 斉志が今日初めて声を出した。いつもの、無駄のない言葉。つまりは、斉志は“坂崎が生徒会長に立候補することは有り得ない”と言ったのだ。
「言い切れる根拠は」
「……“中途半端な情報は役に立たない”」
「またそれか」
 つまり、斉志は遼太郎に言っていないことがある、という意味だ。
「で」
 遼太郎、取り敢えず続きを促す。
「一年前、六月九日、坂崎旅館で。一字一句。
“そういえば生徒会長に立候補するってか?”
 打ち上げ中。皆固まっていて、意識があるのは俺、慶、お前、坂崎しかいなかった時だ」
 ああ、あの時か。遼太郎は思った。
「答えた。
“そういうことを騒いでいる奴もいる”
 やる気は? と問われた。
“うるさい奴の中で、梅子はどうだというのがいた”
“へー”
“なかなか破天荒な生徒会になると思った”
“支離滅裂になると思うな”
“だから俺程度が丁度いいのかもしれない”
“やるのか”
“俺は梅子をコキ使う趣味はない”
 出馬したければこんな会話はない」
 遼太郎は茶を一気飲みした。機嫌が悪い証拠だ。また黙っていやがってこの野郎、といったところ。
「もう一杯」
 遼太郎は淹れたての熱いのが好きなのである。
 斉志が居間に戻って来てから言った。
「確かに、当人に出る気は無ェようだな」
 出馬する気があるなら、誰も聞いていない所などではなく、衆人環視のさなか斉志に向かって言うだろう、坂崎は。そういう男だ。
「だが……」
 遼太郎は野性味溢れた食いっぷりで煎餅をいただく。
「……なーんか気に食わねェ。っつーかァ……第三者の介入の気配がするな」
「ああ」
 つまりは、坂崎がなぜ出る気もない、すなわち、つまらないと思っている、歯牙にもかけていない田舎高校の生徒会長戦のことなどを、誰も聞いていないところを狙って斉志に問うたのは、誰かに言われてのことかも知れない、という意味だ。
「だが、坂崎は第三者に動かされて行動するようなタマじゃ無ェ。……どーも気に食わねェな」
「そうは思ったが、もし坂崎がその事態を重く見たならあの台詞はない。気軽に世間話を切り出した、かのようだった。だから」
「俺に言わなかった、ってか」
「……ごめん」
 本来、斉志の辞書に“ごめん”なんざ文字はなかった。全ては斉志が梅子に惚れてから。
「まあいい。
 ところで話を元に戻すが。ナニ、お前達ってヤっているだけ?」
 斉志は、またしても答えられない。
「誰でも奪れるぜ。お前から梅の字を、なんて」
 そうされたくなくて斉志は常日頃から、梅子に浮気するな浮気するなと口酸っぱくして言っているのだが、肝心のバカ志がこうでは話にならない。
「覚悟しておくことだな。お前は、たとえ梅の字を結婚と同時に閉じ込められたとしても、一生浮気されるかも知れない疑念に駆られるだろう。
 お前と梅の字なんて、所詮合っていないんだよ」
 だったら、誰と梅子が合う?
「せいぜいその誰かを探すことだな。島国中。いや、世界中。どっかにいるぜ。梅の字と合うやつが、必ず」
 勿論、斉志も分かっている。だから斉志はネットの海でたゆたうのだ。
「もう行け」
 斉志は無言で出て行った。

 遼太郎は、さっきの“第三者”が誰だか、ある程度予測をつけられていた。
 ──横島。
 生徒会、と言ったら奴だ。横島はこういう“名誉欲”を好む。中学の時も生徒会長をやっていたのだ。そして誰一人、いや、自分達を除けば、横島の本性に気付きもせず、生徒達は横島に票を入れた。
 ──坂崎が横島に何かを言われた? それで坂崎は斉に確認した?
 だが、これも全て憶測だ。奴らのことなど考えることさえ手のひらの上。思う壷。だから斉志は、遼太郎に言わなかった。
 ──横島……田上。
“僕の知り合いだよ”
 現実は、横島は卒業して県外の大学へ。学業もスポーツも飛び抜けているわけではない田上は二年になって、クラスも別になったこともあって完全沈黙中。
 ──それもいつまでのことやら。
 奴らは必ず動く。それは確信していた。だから、斉志には梅子と結婚・身柄を確保して貰わなくてはならない。それも可及的速やかに。
 だが、それにしては好みの一つも知らないなんて、あまりにも弟子が哀れ過ぎた。
 ──いつまでこんなエセ説教、しなくちゃならないのかねェ。
 自分のこともあるのに。
 遼太郎は、今度の夏は地元・管内にいるつもりだ。やらねばならないことがあるから。
 それは勉強。課題だの、の為ではない。大学入試の為。
 彼は、坂崎と相馬に糾弾されてから決心した。無謀としか思われない、最高峰への挑戦を。
 目的の為に、彼は部屋へ向かった。もし落ちたら、彼はこの地には戻らない。誰とも永遠に別れ、放浪し続ける。
 誰にも言わない。いつものこと。
 本来は、もう間に合わない。いくら彼が頭がいいと言ったって、それはこの近辺だけのこと。血反吐血便血尿が出るまで机に齧り付いても、無理だ。だから決めた。
 ──だから、これで赦して……。