四月九日 火曜日

 二年生になって初めての授業、英語が開始される。爆風ではないけれど心地よい風を受けて、わたしはずっと授業に集中する。風の力を借りて。あのときのように。
 英語の先生は日本人ではなかった。英語の発音がとても英語っぽい、まさにネイティブアメリカン。当たり前か。
 そんなことを思っていると、成田くんが突然立ち上がり、質問を言い当てられたわけでもないのに英語でなにやら言っていた。先生に向かって。
 どういう意味か全然分からなかった。分かったことは、これぞまさしくイングリッシュ? ってだけ。英語の先生よりも英語っぽく言っていた。どういう意味だったんだろう。
 まさかわたしの脳味噌構造で、今成田くんが言った日本語訳が“俺の右隣の生徒に質問したければ俺を指名しろ”と言っていたなんて分かるわけがない。増してこれが分かるひとはこの場ではあと二人、隣の人、師匠だけだったなんて知りもせず、ただぼけっと、今のってなに? と思っただけだった。
 授業中は手は繋ぎませんでした。アリガトウゴザイマス……。でも、英語の授業、ちんぷんかんぷん。こりゃ駄目だァ~~。
 その英語の授業がおわりまして。起立、礼、着席、という週番・リーダー君の声の後、思わず机に突っ伏してしまったわたし。はあ、一限目から疲れたあ……。
 しばらく突っ伏して、顔を上げると、生徒は誰一人として席を立ってはいなかった。
 びっくりした。
 普通、こんなのってない。休憩時間中は授業じゃない、誰か席を立っても別にどうってことない、当然なのに。けど誰も、席を立とうとはしていなかった。そして今気付いた。
 この静寂。ひょっとして……隣のクラスも?
 もの凄く、静かだった。二学年は旧校舎三階にズラっと並ぶ、ひょっとしたらその全てがこういう静寂なのかもしれない、と思えるほど、静かだった。
 けれど実際は、全学年、そう、A高生全ての生徒が着席していた。これは、実はD高でもそうだったという。
 二限目が始まるまで、誰も席を立たないその空気に、わたしは思った。
 ──ああ、これはわたしの為にだ。
 一年前、教室を出て行ったわたしの為に。

四月九日 火曜日 二限目

 二限目は生物だった。なんだか因縁あるこの時間割、けど担当は熊谷先生じゃなかった。ちょっとほっとする。だってわたしの汚い字の解答用紙を成田くんと交換するなんて、それはちょっとその……。
 ほっと一安心したのは、熊谷先生じゃないひとが教壇に立ったその時までだった。起立、礼、着席というリーダー君の言葉の後。
 右隣から爆発的に風が吹いた。突然だった。成田くんの、その集中力。
 ──なんという爆風だろう!
 それを受け止める圧倒的な背中。マイペースな背中。それを除くわたし達は、ただ爆圧を受け止めていた。
 なんて、凄い。
 それは三限目も、四限目もそうだった。

四月九日 火曜日 昼休み

 一年生の時とは違い、応援団がいきなりやって来るなんてことはなかった。
 なかったけれど、来ると言えば成田くん。
 わたしはなにもしないのにですよ。かばんから大きなお弁当箱をひとつ出して、お箸を一膳だけ出して、わたしを上に乗せ、
「はい・あ~ん」
 なんて言うとですね?
 さっきの雰囲気はどこへやら。クラスのひと全員が、どこかへ行ってしまったァー。
 わたしは、というと……もぐもぐ……オイシイデス……成田くんも食べて下さーい……。

四月九日 火曜日 部室

 置いとく大親友同士の、携帯での会話だった。
「予想通りだったぜアケ!」
 電話を掛けたのが部室にいる遼太郎。
「なんだよさっさと言えよ遼!」
 受ける明美はD高生徒会室へ閉じこもっていた。今日この時ばかりは会長以外を立ち入り禁止として。
「くーっくっくっく、ヤだなアケちゃん、そんなんオトコの俺様に訊いちゃうの?」
「なにせこれでもあたしは女でねえ。で、ゲス野郎どうだった」
「決まってんじゃん勃ちっ放しよがーっはっはっは!」
「なにも考えていないんだもんな成田のやつ! と、隣の席……くっくっく、さぞパラダイスだろうなぁぎゃーっはっはっはっはザマーミロ!」
「一年間席替えをする気は当然無し! 天国と地獄が一緒に来ているぜ斉のやつ!」
「くーっくっくっく……今日の放課後はさぞ堅物硬派ヅラしに来るんだろうなあ! いや見ものだぜ!」
「今年はお互い楽出来るなアケ」
「あたしは今年も丁稚続行なヤツらアゴでコキ使いまくるだけさ、全く楽でいいことだ」
「なんだよ、今年ァなにもやらねェぞ俺ァ」
「そう固いことを言うなよ置いとく大親友。本年度第一回運営会議は当然そっちの部室でだ、セーゼー掃除でもしていろ」
「へーへー、ンななァ暇な部員にでもさせたらァ」
「ほーお。ソージを? ウメコに?」
 去年この時期に、なにも悪くない梅子は生徒指導室の掃除をさせられた。大元は斉志のせいであるが、それを知ったがどうにも出来なかった遼太郎も同罪である。
「いい度胸じゃないか遼」
「茶菓子もご準備致します」
 遼太郎は電話の先にきっぱり頭を下げた。
「酒もってワケにゃいかねえな、なにせ運転手は和子だ」
 きっぱり頭を上げた遼太郎、耳カスなんぞをほじくり出す。
「ったく暇だよなァお前達、春休みまでブイブイ遊ぶたァ。そんなに惚気た背中を追い回したいかね」
 いつもの連中は年越し大パーティーのように、春休みも遊びほうけていたのである。
「がーっはっはっは! 西川遼太郎語るに落ちた!」
「アァ!?」
「なんでバカップル込みの特定多数出会いの場にホイホイ行くかって? 相手がいないからだよ!」
 相手がいないのではないということは? 遼太郎には想い人がいるということである。明美はかなり早くからそれに気付いていたという意味だ。
「ゴメン、アケちゃん許してチョーダイ!」
 これ以上ゲロされるのは許して頂戴、と遼太郎は言っている。
「おう、クソして寝ろ」
 明美は思った。
 ──まーったく。そーやって人のことばっか気にしているとォ? 足元すくわれるぜ遼。

四月九日 火曜日 昼休み

 ここ、A高二年B組の廊下では、黒山のひとだかりが出来ていた。全員、さきほど避難した、2Bの生徒であった。除く遼太郎、斉志、梅子。
 そんななか、彼ら・彼女らの間では、こんな会話が交わされていた。
「あれが成田か」
「……凄えな」
 バカ志曰くの鬱憤晴らし、人呼んで爆発的大集中を喰らった2Bの皆様方は、一様に頭を垂れた。
「バカップルなんて言葉で変な話忘れていたが……とんでもねえ秀才なんだよな」
「全国で何位?」
「次はヒトケタあたりだって」
 誰もが誰かの顔を見渡し、ため息をつく。
「私、授業なんて聞けないかも……」
「言いたかないが、俺もかも」
 その場の一同は皆、暗い声だった。
「去年成田と同じクラスのやつが言っていたけど、そうだってよ」
「むっちゃ異様だったって」
 去年の1Cで繰り広げられた、闇の噴出のごとき斉志の集中力。純粋に勉学に対してのものではないと、1Cの生徒なら誰でも分からされていた。それは勿論あの田上にも。斉志はそれでも手加減したので、結局1Cから奴を追い出せはしなかったが。
「なあ」
 八方塞がりと思われたその場に、打開策を持ち出した生徒がいる。その名は、
「なんだ坂崎」
 梅子命名・隣の人だった。
「あれに慣れようぜ」
『え』
 慣れるなんて出来るわけがない。一同は咄嗟にそう考え、坂崎に“出来ない”視線を送る。だが彼は、そんな一同の視線に怯まなかった。
「多分あれでもまだ抑えている。慣れれば来年いいことあるんじゃない?」
 来年は大学入試。もはや他人がどうこうなどではない。今は二年になったばかりだが、三年生による壮絶な神経消耗戦の雰囲気は感じ取っていた。それを知る一同は皆押し黙った。その通りと思ったからだ。
「よし。あ、俺荻原な。同じクラスになっちまったが運の尽き、坂崎の言うとおりだ。昼以外はせいぜいなんとか堪えよう」
「リーダー君だっけ荻原」
「あんたクラス委員だよな」
「いやあのその」
「まーいいじゃん。よし、仕切り任せた。どーせ生徒会チョらクラスのなんかなにもやらないだろ」
『あんたに決まりィ!』
 一同がさっきと違って明るい顔で荻原を見る。
「俺っていつもこのパターンなんだよな……」
 彼はへんなところで諦めていた。
「まあそれはいいとしてさ。昼どうするんだ。俺達、全員毎日脱出か」
「相棒はそうみたいだな」
「俺だってそうするぞ。昼練は絶対欠かさねえ」
 井上くぅンは気合いを込めて言った。
「坂崎はどうするよ」
「大丈夫なんじゃない」
「へ、なにが」
「会チョーの隣の人がなんとかするって」
「なんとかって。カノジョだろ」
「コンヤクだろ。なんとかどころかもっとじゃねえの」
「教室攻撃って知っているか?」
 坂崎が言う。
「ああ、有名だ。1Fのだろ。バカップルって語源の発祥にしてそこまでやるかの代名詞。フツーの一般生徒にゃ理解不能な」
「それを止めたのが隣の人。あとずっと来なかった」
 坂崎は、わりとにこやかな顔をしていた。
「って今年はどうよ。来る来ないの問題かよ」
「少なくとも椅子二つは使うようになるんじゃない?」
 坂崎のこの言葉に、今度は一同、頷けるわけがなかった。
「なんでそう断言出来るんだ」
「俺達がこうして廊下で飯も食わずに討論しているから」
 一同は顔を見合わせた。
「斉藤、そういうの気にするからな」
 サッカー部くんの言葉に、一同はふぅんと反応した。
「へー、詳しいじゃん」
「俺達去年同じクラスだったんだ。1Fの」
「イベント毎に早朝、放課後みんなして集まったもんなー、トモ」
 言われたトモこと井上知治くんはこう答えた。
「……ああ、そうだったなテツ。いかに教室攻撃を喰わずに済むか討論し合ったもんだ」
 呼ばれたテツこと坂崎哲也くんは、あまり出席率は高くなかったものの、元F会議の感想をこう述べた。
「ケッコ悪くなかった」
『へー……』
「早朝?」
「そ。なにか知んないけど隣の人、学校に来るの万年遅刻ギリギリ」
「それでも一応立ち番立てたりしてさ。な」
 トモとテツは向き合って面白そうに言った。
『へー……』
「それはそれで結構、面白そう」
「まあな」
 ここまで書けば、教室へ早朝に集まるよう、たった一晩のうちに一年F組三十数名全員に電話を掛けまくったのは誰か、分かろうというものだ。
「今年の犠牲の小羊はめでたくトモが買って出てくれたことだし?」
 テツが楽しそうにトモを見る。
「売らされたんだ」
 トモはつまらなそうに言い捨てた。
「もう席替えする気ないよな」
 テツが周りに向かって言う。
『おう!』
「俺あるぞ……」
 トモは文句アリアリ。
「イチイチびびんの止めねえ? 面倒クセーよ」
「……テツにしちゃ結構喋ったな、今日」
「同じクラスは予想外」
「へー……」
 テツの言葉に、トモは意外そうな顔をした。
 そのテツは、具体的な策を皆に述べる。
「五限目が始まるまでここにいてさ、全員ハラ減らしたツラで教室入ろうぜ」
「つーことは、今年は俺達が教室攻撃か」
 トモの声が、ここでようやっと元に戻った。
 こうすれば、“俺達がハラを空かせられたのは一体誰のせいだと思っているんだ”と思わせられるのだ。勿論、思うのは梅子ではない。バカ斉志の方だ。
「そ。ちっとはやり返そう」
「……さすがだぜテツ」
 トモの声も、態度もさっきよりうんと軽くなった。

四月九日 火曜日 昼休みのおわり

 西川遼太郎は時間を見計らい、部室から教室へと向かっていた。誰だって伝説の教室攻撃現場に足など踏み入れたくもないが現実は厳しい。ちょっと肩を落として廊下を歩いていると眼前に、どうもクラスメイトらしき物体がごちゃっと固まっていた。場所は2B前廊下。カンもアタマもいい遼太郎、こりゃメシも食わずに話し合っていたな、と一目で瞭然した。中心にいるのは坂崎哲也。ちょっとした知り合いとは名ばかりのマイペース男が去年今時期自分にどういう視線を送ったのかは分かっている。それを今年は彼曰く隣の人の隣に座る一見以下略男へ投げ付ける気であろうことも。

四月九日 火曜日 昼休み

 こんな経緯があるとはつゆ知らず。
 西川以下二年B組のひと達は五限目もギリギリになって教室へどやどやと入って来た。なにか去年もそういうことがあったような……。あのときはそうそう、隣の人が柊子ちゃんの次にさくっと入ったな、と思ったら今年もそんな順だった。西川が最初に、すぐ次に隣の人。
 実はその次が二年連続サッカー部くんだったなんて、わたしは気付かない。
 西川はわたしの後方、つまり成田くんをなにやら曰くありげな表情で見た。次の隣の人も。あの視線は覚えている、入学式のとき授業をさぼって、その後教室へ戻ったときのものだ。けど今回はその視線は、今度はわたしの後方へ、だった。