三月三十一日

 斉志は梅子と逢えない日、自宅でなにをやっているのかというと、ネットの海を漂っていた。
 対象者は島国に留まらない、様々な言語でかわされる会話。その中で最も多い内容は、
“そんな狭い地域にいつまでも留まっていないでこっちへ来い”
だった。
 彼は梅子と逢ったあの日まで、学業がない長期休みは管内になどいなかった。遼太郎が島国放浪の旅なら、斉志の場合は地球放浪の旅。斉志は、高校まで管内に留まるかどうかすら迷っていた。こんな、噂だけが支配するような地域など心底辟易していた。
 だが梅子を見つけてからというもの、彼はいままでずっとこの地にいる。

 斉志と遼太郎、ふたりの近所には、淡くほのかな春色の花を咲かせる梅の木がある。
 この地方には雪が降るから、この梅の木は、年によっては雪積もるなか咲くこともある。今年は暖冬だが、もう四月になるというのに寒の戻りで一面、雪だ。だから、今年もまたこの木は雪のなかで咲く。
「お。来たか」
 斉志がその木の元へ行くと、先客がいた。──遼太郎。彼はもうすぐ学校が始まるので、旅から戻っていた。
 その木は樹齢二十歳でしかない。わずかな小振りの木だ。立ち止まって見る人も少ない場所にある。この木は子供の頃から二人の憩いの場。今よりもっと思考の似通っていた子供の頃は、偶然同じ場所に来るなど日常茶飯事。
「ヨケーなことだろうがよ」
 遼太郎が、こつぶの花弁を愛でながら。
「連れて行けばいいじゃねェか、桜の名所とか。そりゃ人混みの所に行けとは言わねェが。こんなところでもいいからよ」
 いつも逢えば早急に、梅子を求める斉志。外に出したがらない斉志。
「……この間、茜屋に連れて行った」
「そりゃまた珍しいこって」
 この木とともに二人は育った。同じようにすくすくと育った。
「お前のの趣味、訊いたことあるのか。確か日の丸弁当は食えねェと聞いたから、梅の木は嫌いとか」
「……いや」
「どっちだよ」
 ただ、梅子が欲しいだけ。
「訊いたこともない。梅の木が嫌いかどうかも知らない」
「ぶゎーか」
 ただ、梅子が欲しいだけ。
「お前は訊くのか」
「その質問は無しと前に言った」
 返り討ちする権利を、斉志は今もって与えられないらしい。
「いつまでそんなふうにしているつもりだ」
「無しだ。二度言わせるな斉」
 それでも彼は言いたかった。
「俺がお祭りであんな競技を思いついたのは、なにも」
 すると遼太郎は、フラリとその場を立ち去った。

 梅は見ごろの時期が短い。今度梅子がここに来たときは、すでに散っているだろう。斉志としては、散り際など見せたくない。
 別に、よくあるデートコースを辿ってもいい。この間のように喫茶店で茶をしばき、映画を観て、ショッピングして……
 だがここには周囲の目という面倒なものがある。斉志は知っている、自分達が一緒にいる姿を見た者達の、口性ない物言いを梅子は心底嫌っているということを。だから外に出さないのだ。斉志だってこれでも一応考えている。
 だが、そんな口実につけこんで、あまりに梅子のなんたるかを知らなさすぎるのではなかろうか。
 梅子は自分から自らのことを声高に吹聴するタイプではない。室内で一回目だの二回目だのの間に、多少の会話はかわすが、それは全て斉志から話を振ったもの。それに梅子は言葉少なく答えるだけだ。目の前の木が好きかどうか、こんな些細なことすら自分は知らない。

 明日は嘘をおおっぴらに吐いてもいい日。それにかこつけて、いつものメンツがいつもの場所に集まってバカ騒ぎをするの日。勿論梅子と一緒に行く、だが結果は梅子を抱き締め外界を遮断するだけ。
 ──訊いてみるか……直接。
 斉志は、実はあまり梅子に電話を掛けない。梅子が着信を気にするあまり神経質になられては困るからだ。その割には正月のようなことを都度するのだが、それは置いといて。
 梅子は直接行動を好む、それは知っている。焦らなくてもいつでも逢える。
 ──ゆっくり訊こう。なにも焦ることはない。

 これを知っているのは西川親子だけだ。斉志は写真嫌いである。理由、父親が母親の写る全てのそれを、自分が生まれ、そして自分が父の妻を殺したあの日に全て廃棄したから。
 だから、よくあるパターンとして、ケータイカメラで撮ってメル添で送って見あう、ということはしない。浮気防止のため、梅子はメールアドレスすら保持していない。
 だったら……

 斉志は電話した。
「梅子。今いいか」
 うん、どうしたのと、斉志の耳に聞こえる声。彼はいつも、なぜか、梅子の声を聞くと安心する。そこにいるからだろうか。確かにいてくれるからだろうか。
「来ないかこっちに。見せたいものがあるんだ。良ければ、今から迎えに行く。ああ、大丈夫だ梅子、安心していい。服は着たままでいい」
 するとケータイからはぶっつりという音がした。切られたらしい。
 苦笑して、斉志はタクシーに乗った。きっと待っている。こんな日はいつあったっていい。