一月三十一日

 朝から穏やかな冬晴れだった。
 雪のよく降った去年と違い、今年は暖冬。おととい降ったのは雪ではなく雨だった。それも、今日はもう路面は乾いている。
 そんななか、いつもの家の近くの公衆電話ボックス付近で待ち合わせしていると、聞こえて来た成田くんのバイクの音。血肉沸き立つ重低音。
 ヘルメットを取った成田くんが言った。
「おはよう、梅子。寒いからそんなに早くから待たなくていい」
「おはよう、成田くん。大丈夫、今日はあったかいから」
 そんなやり取りをして、いつものようにバイクに乗ろうとしたら。
「梅子。今日は遠出をしよう」
 珍しい……。
 この間の山での出来事はともかく。成田くんとわたしは逢っている時、めったに外出をしない。成田くんはわたしを外に出したがらない筈なのに。
 今日はどうしたのかな。
「距離があるから、途中で何度か休憩しよう。俺にしっかり掴まって、梅子」
 そうしてわたしはバイクに乗った。

 途中、二度ほど休憩した時も、成田くんは行き先を教えてはくれなかった。それと、ちょっと喉が渇いたかなと思っても、着くまで待ってと言われて、自動販売機で缶ジュースを買うのは止められた。どこに行くのかな。
 朝九時に出て、二時間かかって到着したのは、まずバイク置き場。それから目的地へ。
 着く前に、それが何だか分かった。においがしたからだ。そこは喫茶店──。

 店外からもしたけれど、店内に入ると立ちこめる圧倒的なにおい。珈琲の。いいにおいだ。
 喫茶店といえばたばこを吸っている人がつきもの。それが商売でもあるんだろうけど、そのたばこのにおいも気にならないほど、珈琲のいいにおいで満たされていた。
 店内はカウンター席の他に、向かい合って座るテーブルが十個ほどある。そこに、成田くんに促され座る。こぢんまりとした、というほどではないけれど、気を落ち着かせるには充分のスペースだった。
「たまに来るんだ」
 お店の人は、お盆に載せてではなく、グラスを手に持って水二つを持って来てくれた。
「距離があるから毎日というほどでもないし、毎月でもないがな。思い出した時に来る。注文は俺任せでいいか?」
 どうやら、成田くんにはおススメのメニューがあるらしい。
「ブレンドふたつ」
 なるほど、だから道中自販機の珈琲もお茶も買わなかったんだ。飲むとつまらないもんね。
 どんなのが出て来るかな。わたしは、成田くんとお話しながら、店内を観察した。
 まず、天井が高い。これが気に入った。これでたばこのにおいも篭らない。目線と同じ高さの先には棚があって、そこには本が。厚手の紙のケースも、どれもたばこの煙で、だと思うけど、薄い茶色がかって変色していた。いかにこのお店が昔からあったのか分かる。繁盛、ってわけでもないんだろうけど、お客さんに愛されているのが分かった。
 そしてなんといっても圧倒的な、この珈琲のにおい。もしおなかが一杯の時でも、このにおいに誘われて店に入ってしまいそうな。甘くてにがい珈琲のにおい。
 ちょっと待っていると、珈琲が運ばれて来た。インスタントじゃないのを飲むのは久しぶり。飲んでみる。
 美味しい……
 二人、無言で飲んだ。

「いつからこのお店、知っていたの?」
 道中は成田くんの背中にしがみついていたからあまり分からなかったけど、ここ、多分県境は越えているはず。
「遼のおじさんに連れて来られてな。だから、十歳くらいの時だ」
 そんな小さい時に。だったら珈琲のにがみのよさなんて分からなかったんじゃ?
「今もそうだが当時はさらにガキでな。ついでにプライドも高くて、初めて飲んだ時“ただ単に苦いだけじゃないか”なぞ言わなかった。いいにおいを憶えて、豆を買って帰った。挽く器具を揃えて毎日飲んだ。そうこうしているうちに珈琲の味を憶えた」
 わたしが成田くんのお家にお邪魔しているときはよく紅茶を飲んだ。いつも成田くんが出してくれるから。
「珈琲を淹れられるなら、どうして成田くんのお家では出さないの?」
「斉志。まだここの味を超えたと思えなくてな。それに、いつかここへ連れて来たいと思っていた。だから日本茶と紅茶だけを出していた」
 そうだったんだ……。

 何杯か飲むかな、と思っていたら一杯だけって。少しおしゃべりをして、あとは店を出た。
「梅子。そろそろ昼で空腹だろうが、今日はこれで帰る」
 帰るって、成田くんのお家じゃなくて、わたしの家までだという。
 すごく大切にしているんだ、この味。すぐごはんを食べたら珈琲の味なんて飛んじゃうもんね。
 わたしは、また来たいな、器具とかわたしも揃えてみたいな、と思いながらそのお店、茜屋さんをあとにした。

 道中の休憩所で。
「梅子も珈琲を淹れてみたいか?」
 と訊かれた。
「うん。淹れてみたい」
 紅茶の淹れ方は知っているけど、珈琲なんてインスタントにただお湯を注いでいただけだ。
「じゃあ途中で揃えて行こう」
 そのお店は、管内の、じゃなかった。

 A市西南、いつもの待ち合わせ場所・公衆電話ボックス前に着いて。
「じゃあ梅子。昼飯が遅くなってすまないが家でゆっくり食べてくれ」
「うん」
 そう言って、成田くんはお帰りあそばした。
 ……考えてみれば。
 休みの日に成田くんと二人っきりで逢ってキスもあのその……なこともなしというのは……。
 は、はじめてなのでは!? こ、これはすごいことですよっ。天変地異ですよ!!
 と言ったらわたしは今からA市東南の駅近くで行方不明になると思うので止めといて。おとなしく家に帰ってご飯を食べた。

 それから、成田くんから貰った豆と珈琲作りセットに挑戦することにした。えーっと、この銅のスプーン一杯で豆を挽いて、と。
 ……上手く行くと思います? この、こーーーのわたしが。
 ええ失敗しました。蒸らしも失敗、淹れるも失敗。なんか薄くなっちゃった、豆が膨らまない、不味いーー。
 成田くんもこうして挑戦したのだろうか。
 ……ううん、そんなの有り得ない。挑戦というか、やって難なく成功した、ってかんじだな。珈琲に限らず万事……。
 その後何度か挑戦して、今日はそれでおしまいにした。ああおなかが水っぱら……。

 不味くてもたくさん珈琲を飲んだから、かもしれないけど、午前零時をまわって目が覚めた。それはもうぱっちりと。
 こういう時は、ちょっと庭に出て散歩するといい。なぜなら、それはそれは奇麗だから、満月が。
 ここなら一人旅を敢行したなんて言われない。パジャマにコートを羽織って庭に。
 鮮烈な月光。
 ああ、いまここで、あの天蓋にはオリオン座があるんだ。よくこの時期空を見た、一年前。あの星座が西に傾く時、受験はおわっている。どれだけすっきり出来るだろう。そう思ったものだ。
 今は満月。頭上高々と舞う青い天体。
“おやすみ、梅子”
 声が聞こえたような気がした。その通り、部屋に戻る。今度はわたしからキスしてみようか……。