冬至

 海辺のまちに風が吹かない日はない。冬は厳しく、北から容赦なく吹き付ける。ローカルのテレビニュースで最大瞬間風速を観測する地点はわたしの通学途中にある。学校へたどり着くころには冗談抜きで強風のせいで髪型がかわる。たどり着ければまだいい方で、自転車をどれだけ漕いでもまったく先に進まない日とてある。だから、雨も雪も降らない晴天の日でも、どうしてもバスで行かなければならない日がある。
 そういう朝は、目覚めたときから分かる。おんぼろ我が家の壁、ガラスが鳴動する。そこから見える風景。杉の木が束になって揺れすさぶ。こんな日は、自転車はダメ。だからバスで行く。
 父ちゃんは朝夕うんと忙しい。自営業だから母ちゃんも忙しい。朝起きると家中ががたがた鳴っていて、誰もいない日は、両親は陽も昇らぬ極寒のなか家を出て作業場で火をおこして稼いでいるということ。そんななか、ひとりのうのうとバスで行くのはしのびなくてよく自転車で行った。それでも帰りは追い風になるから。
 成田くんに買ってもらったコートを着た。色は黒に近く、デザインは落ち着いた、おとなっぽいシンプルなもので、余計な飾りは一切ない、実用的なもの。しっかりしたつくりなんだろう、しっくりして、とてもあったかい。着るだけで落ち着いた。これまた貰った生成り色のマフラーを巻く。
 成田くんにもらった定期券を持って、近所のバス亭へ。バスを待つ。
 こうして思うと、学校へ行く前の段階で成田くんに頼りっきりになってしまっている。いまわたしが持っているもので、成田くんが関わっていないものといったら鞄と筆記用具と教科書とノートとお財布だけだもの。あとはぜーーーーんぶ成田くんからのいただきもの。
 ……部活で逢ったら、ちゃんとお礼を言わなきゃ。
 来たバスに乗って学校へ。わたしの住んでいるところはバスの始発。だから、停留所に早くさえ着けば座れる。運転手さんがいるあたりまですすんで行って、出口に近い所に座って、A高前のアナウンスを待った。
 雨の日、雪の日はバスの到着は予定より遅れる。早目の便に乗ったのに、学校へ着くころにはいつもの時間とそう大差ない。急がなきゃ。
 そう思って、バスを降りると停留所に成田くんがいた。
「梅子。おはよう」
 あのときと同じ。求めてやまない、猛々しい瞳でわたしを射抜くひと。
「……梅子?」
 呼ばれても、しばらく返事が出来なかった。あのときのように、声も出せない。
 ずうっとそうして……ただ見惚れた。
 成田くんは、落ち着いた色のコートを着ていた。それがわたしとお揃いだとは、知らぬ間に一緒に歩き出したあとで気付いた。成田くん、肩幅広い。背が高いから、こういうデザインのものがよく似合う。まだ十六歳な筈なのに、そのたたずまい、威圧感、存在感は年齢を遥かに凌駕していた。
 凜とした姿勢で前を見る。その意識。
 隣を歩きながら、ぼけっと、前も見ず成田くんだけ見て歩いていた。
「梅子。鞄」
 あんまりぼけっと歩いていたものだから、この言葉が、“鞄を寄越して”という意味ではなくて、“鞄を持って”という意味であることにようやっと気付いたのは、もう中央階段下まで来ていたと気付いてから。知らぬ間に、わたしの鞄を成田くんに持ってもらっていたようだった。目の前に、それが差し出されている。
「あ、……あの!」
 どうしよう、どうしよう、わたし、ぼけっとしていた、朝、えっと成田くんに逢ったら言おうって思って、
「時間だ」
 え、え、時間、時間、わ、遅刻ギリギリ!?
 わたしはここから教室近いけど、成田くんは遠い、どうしよう、どうしよう、
「梅子。部活で」
「え、あ、うん」
 そう言うと、それだけしか言えないでいると、成田くんは颯爽と、大股で、革靴の音を立てて歩いて行った。コートの裾を翻し、真っ直ぐ歩いて行く。
 強靭な意志で。その背中で。
 ──誰にも止められはしない。
 頭を切り替えて教室へ。朝のおつとめ黒板拭き。貰った気合いを十分発揮、したと思う、席へ戻ると前扉がガラっと開いて熊谷先生のご入場。黒板を一瞥するだけで、すぐに授業は開始される。多分あれでいいんでしょう。お気に召さなかったら遠慮なく、なんだこの黒板汚いなとかぐさっと言ってくるだろうから。
 気合いで授業を集中して聞く。多分、この単語は出るだろう。あたりをつけたものを頭の中で何度も繰り返す。そうこうしていると授業はどんどん進んでいくから、あまりひとつにこだわらないで。熊谷先生はちゃんと筋道立てて授業をすすめる。言い淀むことも、つっかえて言うこともない。声は大きくも小さくもない。間違っても、眠気を誘発したりはしない。
 授業終了十五分前。みんなが一斉に教科書・ノートをしまう。前の人から空の答案用紙が渡され、最初の設問が黒板に書かれる時の、みんなの意識。チョークの先、その一点に集約される集中力。この一瞬が好き。
 記入した答案用紙を無言で隣の人と交換。隣の人は、左手に用紙を持って、わたしとの丁度中間の距離あたりに出す。それを確認してさっと取ってから、わたしも同じ距離のあたりに出す。隣の人は用紙もわたしも見ることなく受け取る。この几帳面な字に、バツを付けることはないだろう。
 添削のおわった答案用紙を前の人へと返す。必ず手を一旦止めて、用紙の後ろを見つめる前の人。生徒全員の用紙を受け取った熊谷先生は、今日はこれでおわりとベルが鳴る前に教室を出て行った。わたしは緊張感が途切れるように机に突っ伏した。反応という名の笑いはもう、ずっと前からない。

斉志

 もし梅子が手を繋いで来たらその場でかっ攫った。
 有り得んと分かってもそうしていた。無防備な梅子。相も変わらずフラフラしている。満員のバスなんぞに乗って来やがって……何故十八歳でなければ車の免許が取れん。
 ずっと俺を見ていた。その表情。自惚れかも知れんが……見惚れていた。
 俺を誘う梅子。小さな声、愛らしい声、少ししか聞けなくて、時間がなくて。昼行きたい、一緒に飯を食って梅子も食いたい。……なんで俺、まだ十八歳じゃない。
 学校なぞ実に下らん、特にこんなクラスなぞ。生徒も教師もおらんでいいが、言うのも面倒で鬱憤晴らし。俺の周りの席はかなり欠けているがそんなものはどうでもいい。
 放課後まで厭々我慢。待って待って、ようやっと部室で逢えても声すら掛けられない。その意識。集中力を僅かづつ上げていっても、梅子の態度は変わらない。相棒の背ではなく、その向こうを見ていると分かっていても、俺を見ないその態度にいつも嫉妬している。
「時間だ」
 相棒の声。バスの到着時刻に余裕で間に合うよう配慮された合図。梅子はすっと立ち上がり、失礼しますと頭を下げる。俺も速攻で机の上の荷物を片付け、梅子が開けた扉を閉めた。
 か細い手首を掴んで左へ、俺の靴がある下駄箱へ。ここから梅子を抱き上げて、中央階段下まで行きたいがそれをやったら梅子照れる、最悪逃げる。厭々我慢。
 日暮れ前の中途半端な時間は万事都合がいい。間違っても奴らとすれ違わん時間帯。さっさと旧校舎へ向かった。
 無言の梅子。梅子は校内では、俺がなにかを言っても短い返事をするだけだ。必要最小限、決して無駄口は叩かない。俺の家ですらそうで、あんまり話し掛けてくれなくて、なにか言って欲しくて唇を貪ると梅子俺の首に両腕回して、体で応えてくれて……。
「あの……成田くん」
 俺を見上げるその表情。……またなにか心配している。
「斉志」
「うん、……あの」
 言い淀む梅子の鞄を持って、中央階段下を出た。
「……あの!」
「……うん?」
 隣を歩く。歩調を合わせて風上へ。梅子、髪が伸びた。梳いてやりたいがそれやったらちゅーで悶絶、即座にかっ攫って俺の家で行方不明は必定。毎度万年そうしたいが、あの親父さんに捜索願いを出されるのだけは却下だ、厭々我慢。
「あの、……コート、どうもありがとう。あったかくて、……お揃い?」
 語尾が完全に照れていた。俯いて、マフラーに唇を埋める。なんで俺、マフラーじゃない。
「ああ。お揃いだ」
「えっと、あの……」
「……うん?」
 俺を見上げて、真っ赤な顔で、うんと照れてて、ちいさな声で、
「……せいじ、うんと似合っている」
 俺はコケもせずバス停まで歩いたらしい。バス停でちゃんとバスが来るのを大人しく待って、梅子をかっ攫いもしなかったらしい。ちゃんと梅子に鞄を渡して、気をつけて梅子、また明日、ときっちり決めたらしい。それから脇目も振らず駅まで歩き、不抜けた面も晒さずきっちり三番駅で降り、真っ直ぐ俺の家まで帰ったらしい。我ながらこの手にヘマはない。

梅子

 最近、成田くんはいつにも増して集中力が凄い。それは目の前の師匠もだけれど。世話しなく動く手、それを一切見ないでひたすらモニターを注視するその意識。ウィンドウに羅列された文字もさることながら、西川の集中力を奪ってわたしのものにしたいくらい。
 西川は一旦集中したら、決して無駄口を叩かない。時間だ、といつも決まった口調まで、その意識はまっすぐだ。多分おそらく、間違いなく。生涯の道へ向かって。
 成田くんもうんとうんと集中していて、それは学校帰りもそう。こういうときは、というかいつもだけど、絶対に邪魔しちゃいけない。と思ったのだけど……。
 誰もいない家へ帰ってようやっと気付いた。わたし、全っっ然感謝の意をあらわしていない!
 集中しているから、だからなにも言わないで。なんて、わたしは貰いっ放しの使いっぱなしのうーんとうーんと礼儀知らずってことじゃないかー。
 いつか言わなくちゃいけないんだったら、どんなに遅くともその日中に。それが最低限の礼儀。あわてて携帯を取り出して、わたしの部屋で電話した。コートも脱がずそのままに。

斉志

 家へ戻って着替えもせず、ソファでボケっと座っていた。すると改造が震えた。このパターン、
「あ」「梅子!」
 梅子、梅子、梅子が掛けて来てくれた、珍しい、うんと珍しい、
「あ、うん、えっと、こんばんは、なり……えっと、斉志」
 いかん、真っ白だ、戻れ俺の理性、毎度俺を置いてどこかへ行くな。
「うん、梅子、俺から掛ける、一旦切る」
「あ、……うん」
 厭々切って速攻で掛けた。電話代なぞ些細なもんはどうでもいいが梅子が納得せん。まさか携帯の請求書を弄くっているなぞポロっと言っちまったら梅子電話に出てくれないだろうな。
「は」「梅子!」
 出てくれた。コールひとつ。たどたどしくボタンを押している姿が目に浮かぶ。
「あ、はい、えっと」
 変更前の苗字なぞ誰が言わすか。なんで俺、まだ十八歳じゃない。民法の馬鹿野郎。
「うん、梅子」
 実に珍しい梅子からの電話。用件は? 俺のこと好きとかアイシテルとかかっ攫いに来てとかヤりたいから夜這いに来てとか俺の想像を遥かに超えることとか。
「えっと、……定期どうもありがとうございます!」
 脱、力。
 ……いつの話だ梅子。そりゃ、……梅子がこんな美味い話を言い出すなんざ……期待持たせるなよ梅子……俺、俺飛んで行こうかな……。
「あの、コートも! えっと、マフラー、あったかいし、制服、あの」
「下着は? 梅子。ちゃんと着けている?」
 電話の向こうが沸騰したのを確かに感じた。真っ赤な茹でタコ一丁上がり。週末剥くのは絶対だが、四日も五日も誰が待つか、今すぐ食いに行ってヤる。
「梅子?」
 女体盛りとか……。
「……すけべ」
 何故分かった。
「そうだと言ったろ。梅子、やっぱりテレビ電話持とう」
 それであーんなとことか、こーんなとことか、防水にして風呂場からとか……。
「駄目」
 そこまで速攻で却下しなくたっていいだろ梅子。
「なんで」
「電話代、勿体無いです」
 そんなものはどうでもいい。
「それと」
「なに」
「電話中、まわりにひとがいて、斉志のハンサムなお顔覗かれるの、イヤ」

梅子

 電話の向こうが静かになったので、今朝思ったことを実行すべく、ありったけ感謝の意をマシンガントークで丁寧に述べまくって、携帯にお辞儀して電話を切った。
 たぶん、きっと、ぜーーーーーーったい。
 お勉強で忙しい成田くんは息抜きにあんなこと言ったんだ。絶対。
 わたしはかしこい判断のもと、成田くんへはもうお電話しないことにした。だってお勉強の邪魔だもん。そんなのぜーーーーーーったいしないもん。

斉志

 俺はまたしても梅子が俺に電話掛けて来てくれないと直感した。何時の間にかぶった切られていた電話を速攻で掛け直し、生理の初めとおわりを報告しなかったらどうなるか分かっているだろうな梅子、と丁寧に探りを入れるてみると、その日になったらいつも朝一番でお電話して来ているでしょう、ちゃんとそのとおり応えています、と言われた。
 ……。

 電話の向こうの声が泣いていた。うめこうめこ電話掛けて、俺うめこが電話掛けて来てくれないと耐えられない、月イチじゃもう忍耐出来ない、逢えない週末は絶対電話して、でないとうめこ今すぐ俺の家で行方不明になるから、俺学校辞めるから。
 と言われました。
 ……。
 どうしてありがとうと言う為のお電話でこういう話になるのー。あのかーーっこいい成田の斉志くんは一体どこへ……。

十二月二十日 冬休み前の雑談大会 部室

 部室へ行くと、西川はマシンに向かっていなかった。
「というワケで俺ァホーローの旅だ」
 休みごとに出るのかな……。
「自主的餞別はいつでも受け付ける」
 ……成田くんとふたり、無言で部室を出ました。