立冬

 西園寺環は恋する乙女である。

 彼女は学校がこよなく好きだ。彼に逢えるから。
 ちょっと前までは嫌いだった。そう、中学二年までは。学校をはじめて好きになったのは友情だった。そして恋。
 彼女は好きな彼のクラスが分かってから、旧校舎へ行く用事のある時を楽しみにしていた。例えば、第一体育館で行われる、体育の時間。
 この時間があるから、一年E組の前を通れる。普通、新校舎の人間が第一体育館方向に行く時は、右階段を下って三年の教室を通って行くものだが、彼女だけは違っていた。渡り廊下を通り、そのまま右階段へは行かず右に曲がり、1E、1Fのある廊下を通る。その時に。
 もし後ろ扉が開いていたら、こんなに嬉しいことはない。そこからよく見える真ん中の列、真ん中の席。体格がいいから、頭ひとつとび出ている彼の、背を見ることが出来る。
 そして帰りも。体育がおわったら、彼女は一階を突っ切って右階段を上がりはしない。職員室前を通ったら中央階段を上がり、1F、1Eのある廊下へ。そこから、1Eの前扉が開いていたらしめたもの。今度は、彼の真正面を見ることが出来る。座っていたら。
 けれど彼は、まるではかったかのように、彼女のクラスで体育がある時は座っているのだ、自席に、まるではかったかのように。
 彼女はそれが嬉しくて……

 彼女はクラスに友達も、知り合いもいない。
 合同で、斉志のバカが宣言した後。彼女はまたしても周囲に囁かれた。彼氏にハデに振られちゃってェ、と。
 もう、彼女はただ黙ってなどいなかった。颯爽と教壇に登り、そんな声を一喝した。以来、彼女に話しかける者も、これみよがしに囁く者もいない。
 彼女は斉志のような眼力はないので、睨みつけてその者を他校へ転校させることなど出来なかった。だが、1Dからは、1Cほどではなくとも転校者は出た。B高に行った者もいたが、その者は相馬あたりのエジキになっている。
 そんなわけなので、二学期になってまたしても窓側の席を確保出来なくても、窓側へ用もなく行って1Eを眺めることは出来なかった。彼女が彼に逢うには、彼女から行動しなくてはならない。
 昼に、彼が1D向かいのあの部屋に来てくれるなら、その時間に合わせて教室を出、昼練に行くことも考えた。だが、彼はそうではないらしい。残念、と思いながら部活に勤しんでいる。
 放課後は問題のある時間帯である。1Cに斉志がいるのだ。
 自分と斉志はその場に居合わせただけで誤解される。1Cと1Dの下駄箱は一緒。鉢合わせしてはまずい。だから彼女は当初、一番に教室を飛び出て靴を交換していた。
 しかしある日の放課後、廊下で、ついに斉志とすれ違ってしまう日が来た。同じ校舎内、隣のクラス、当然あるシチュエーションだ、避けられはしない。周囲の好奇な視線に目を瞑り、通り過ぎると、すぐに扉を開ける音がした。
 ──この音は……
 振り返ると、あの部屋の扉の音だった。
 どうして勝負にならない人まで? そうは思ったものの確認することは出来ない。次の日を待った。
 翌日、放課後。今度は授業がおわるとすぐに窓側に寄ってみた。彼が、そして梅子が渡り廊下を渡り新校舎へとやって来る。すぐに廊下に出てみた。すると斉志があの部屋へ間違いなく入って行く。
 ──三人、なのね……二人っきりではなく……
 このとき、彼女は自分がただ恋に恋しているわけではないと悟った。

 そして待ちに待った夜。
 段々と昼は短く、夜は長くなる。彼の姿など、その時間には見えていないようなものだ。だがこの時間だけは、彼は自分を見てくれた。
 分かるのだ、恋する乙女には、彼女には。彼女だけには。
 この時間の為に自分はいる。そう、彼女には思えた。

 彼女の朝は早い。すっぱり起床して、歯を磨いて顔を洗いその他イロイロ。台所に立つ。彼女の料理の腕前は素晴らしいものだった。元々彼女には欠点が少ない。梅子のアホに言わせれば、ない。将来彼女の手料理を振る舞われる彼女の夫となる者は、三国一の幸せ者だろう。
 手製の弁当を持ち、学校へ。しかし、どんなに早く来ても、正門の扉は開いていた。彼女もいちスポーツマンとして、この学校の伝統を知っている。曰く、正門の鍵を貸与されている者は、この学校で最も部活に熱心な者、と。
 その者はこの物語にすでに登場済みで、名前も通称もちゃんとあるのだが、それはひとまず置いておく。
 彼女は、自分がそうなれなかったことに少しだけ残念に思い。部活へは、朝一番に出る。
 その朝に、彼の姿を見ない。
 彼は梅子とのバッティングを避けるため、遅刻ギリギリには来ない。しかし、その五分前、といってもいいくらい遅めに学校に来る。この時間帯だと、環にとっては朝練の片付けの時間なので、正門に至る坂に視線をやることは出来ない。
 ──どうして陽のある時間、姿形がはっきり分かる、見えると分かっている時間に登校して来てくれないのだろう……。
 彼女は、マコと話をしながら、言えなかったことがある。決めていたのだ。朝、彼が自分に視線を向けてさえくれたなら、告白しようと。
 もし朝に、あの人が来てくれたなら……