夏休み某日

「あーああ」
 明美は斉志に電話した。海辺で水着で佇む者が何故携帯を、などと思わんでよろしい。
「あんたのオンナを取りに来てくれ。勝手に泣いて寝ちまった」
「……どうした」
「世間話をしていたらあんたと西園寺が並び立ったの見て、実に似合いだあんたらがくっついた方がさっぱりして良かったなんざ話をウメコが喋り出したいいから聞け。誰かに言いたかったんじゃないのかい。王様の耳はロバの耳ってさ、とにかくゲロしたかったんだろ。言うだけでもすっきりする。こんな話はあんたにだけは言えまいと思って聞くだけ聞いたら泣いちまった。あとは全部任せたぜ」
「佐々木。お前が起こして俺の元へ届けろ」
「何故」
「その話を俺がすれば梅子は俺からきっぱり逃げる」
「楽になれると言っていたぜこのバカ」
「俺は下らん噂に下らんケリを付けた。そのせいで梅子がたったひとりで全てを引っ被った。並び立つヘマに到っては二度やらかした。これ以上はなにがあっても関わりを持つわけにはいかん。俺はどうでもいいやつのことなど金輪際どうでもいい」
「ったくややっこしいったらありゃしない……ハイハイ叩き起こしてお届けするよ」
 明美は携帯を切って、パチンと二つ折りにした。
「さてと。起きんかウメコーーーーーーーーー!!」
 明美の大声に、梅子は飛び起きた。
「ぅわあびっくりした!」
「ナニ寝惚けているんだこの野郎、さっさと起きやがれ!!」
「……野郎でないです……」
 梅子は再びうつむいた。
「さっきの質問に答えな」
「……お似合いです……」
「いつまでイジケているんだこのボケナスが」
「……ぼけなす……」
「あたしになんて慰めて貰いたいんだい」
「……」
「あんた言ったよな。自分で考えるって」
「……はい」
「で。学校ではどうなんだい。応えな」
「明美は……?」
「余裕綽々赤点三昧」
「……ソウデスカ……」
「応えたくないのかい」
「退院して学校へ行ったの」
「そりゃそうだわな」
「あんた成田くんに相応しくありません。環の方がいいに決まっているじゃないですか。邪魔だからさっさと別れな、と言われました」
「そうか。F組だったなあんたのクラス……全員ぶっ殺してやるから安心しろ」
「あの、言ったのはF組のひとではありません」
「紛らわしいんだよ!! F組以外の人に言われましたって言えアホ。あんたなあ、あたしよりセーセキいいんだろうが。順序立てて論理的に説明しろ」
「……難しい言い方するのね明美さん」
「それでェ。誰に言われたんだい」
「同じ学校のひと、というのしか分からなかった。それでね、それで……F組のひとがね、わたしのこと助けてくれたの」
「いいやつらじゃないか」
「うん。よく分からないひと達がね、こういうふうに言っているそばからね、ガタって席を立ってわたしを庇おうとしてくれたの」
「おうとした?」
「うん。けどね、こういうのほら、自分でやらなくちゃいけないでしょう。だからね、ちょっとそれを遮って、はい迷惑掛けています、けど嫌いにはなれませんって目を瞑って言ったらね、成田くんがFに来たの」
「ハッハ~ン。聞いたぜその話。教室攻撃ってヤツだな」
「ははは……ソウデス……。ああああのそれで」
「なんだ。ノロケたいかい」
「いやその、そそれで……とととにかく成田くん、その後自分のクラスに帰ったの」
「おう。ノロケは省いてくれるか」
「う、うん。そそそれでね。F組のひとがね。こう言ってくれたの。こいつ自分のこと言ったぜ、あとは向こう……成田くんのことだよ、に訊けって。追い掛けて訊いたら、って。言ってね、庇ってくれたの」
「いい話じゃん」
「うん。いいでしょう。うんといいクラスでしょう」
「随分ヘタな説明だなあ……」
「……悪うごさいました」
「ま、言わんとしていることは分かった。いいやつらだ。安心したぜ」
「うん。だからね、たのしいよ学校。授業と試験以外は……」
「おう同感だ。そうかそうか、なあんだあんたちゃんと自分で考えてんじゃん」
「え?」
「嫌いになれない? それがあんたの嘘偽り楽のない本心なんだな?」
「……うん」
「じゃずっとそう思っていろ。そう思う限りはな」
「……うん」
「自信あるか」
「?」
「嫌いにならない自信。あるか」
「うん」
「断言したな?」
「うん。それはね、断言出来ます」
「ほー。じゃ成田みたいに三千人の前で宣言出来るか」
「……それは、ちょっと恥ずかしい」
「じゃ成田本人に宣言出来るか」
「……」
「出来ないのかい」
「……えっと。出来、ます」
「ならいいさ。いいかウメコ、いいおわるまで聞け。あんたはあたしも含めて他人に死ぬほど侮辱され続けた。だったらもう他人の大嘘妄言なんざ金輪際聞くな、無視しろ、あんたが宣言したいやつに宣言したい通りのことだけ考えろ。他はそうだな……ちったァ勉強しろ」
「さいごのが……ちょっと……」
「じゃそれ以外は納得したな」
「……」
「応えんかいッ!!」
「ハイッ!」
「よし。ところでらぶらぶウメコちゃん」
「……ハイ?」
「さっきからさ。右斜め後方からすごい視線が痛いんだけど」
「え」
 視線の先には斉志がいた。
「なにか……いつまでこの俺様のオンナ占領してやがんだこん畜生さっさとどっかどきやがれ光線、が突き刺さっているような……気がするんだけど?」
「……」
「振り向きたくもないからさ……さっさと行って欲しいんだけど……?」
「……」
「行かんかいッ!!」
「ハイッ!」

夏休み某日 夜 携帯電話にて

 電話を掛けたのが斉志。
「佐々木」
 受けているのが明美。
「イチイチ五月蝿いぜ」
「感謝する」
「ほー。じゃあたしにゃ金輪際ノロケ電話を掛けて来るな。犠牲者なんざ遼だけで充分だろ」
「そう固いことを言うな置いとく大親友。最近遼も知恵を付けてな、さっさと電話を切りやがる」
「そいつぁいい方法のご教示をあんがとよ。じゃな」

夏休み某日

 無精髭が生えていた。夏本番、日焼けも肌に馴染んでいる。
 管内を飛び出てオフロード・バイクで当てもなく走り回る。寝床はテント。橋の下だったり道ばたの陰だったり。宿泊施設は使わない。行った先で短期のバイト。それで金を繋いで。オイル・ガソリンを気にして走る。夏のクソ熱さ、エンジンのクソ熱さ。汗と陽射し。なにが流れているかまったく分からない河川で水浴び。
 喧噪から離れて、ひとり。ありったけの景色を見る。触れる、におい、暑さを感じる。なにひとつ取っても同じものはない。違う風景、色使い、人、言葉、意味、考え。異なる日常。明日の知れぬ毎日、野垂れ死にな毎日。
 けれど笑っていた。きっと穏やかに。そして本心から。
 中学二年の夏の時からの、これは習慣。

 入学前は全く考えていなかったことがある。自分自身のこと。
 騒々しいも楽しいも自分自身で起こしたことではなかった。巻き込まれた結果だった。
 自分のことなど、そんなものはない、そう思っていた。
 けれど足は、愛機はそっちを向いて走っている。旅を続けて初めての……当初とは別の目的地。

 無精髭と汗のにおい。いまある自分のいでだちのまま、目的地、そう呼んでいいのかどうか……そこへ辿り着く。時間は早朝、セミの音はすでに大合唱で、エンジン音とともにもう耳に馴染んでいる。
 場所はとある民宿。とある高校、とある運動部の合宿所となっている。ちょっとした庭があって、そこへ愛機を停めた。
 別に……間違っても約束をしたわけじゃない。向こうは、少なくとも今自分がここにいるかなど全く知らない。確率はない。逢うつもりもなかった。
 ただいつものように……。
 部活帰りはもう夜で、本来互いの顔など判別出来ない時間帯。互いを認識出来る筈のない時間帯。
 それでも互いに、間違いなく一瞬、視線を合わせていた。
 だから今日も。
 時間は夕方でも夜でもなく、早朝。
 その場所で、ただひたすら佇んでいた。

 目を瞑っている。
 ひとり、所在な気に少し、彼に引いた位置で、彼女も佇んだ。声すら掛けられない。
 こんな状況でさえも。
 刻が止まってくれればいいと思った。

 どれだけ時間が経っただろうか……彼から口を開く。
「名は?」
「……え……」
「遼太郎」
「……あの、苗字、は……」
「名は?」
「……西園寺、」
「西園寺だな。遼太郎でいい」
「りょうたろう、さん……」
「長ェよ。……いい、呼びたいように呼べ」
「……あの!」
「A高だな」
「あ……、はい。そうです……」
「俺もだ。一年、E組」
「私は……D組です」
「敬語は使わなくていい」
「あ……はい、……ええ」
 それは他の誰かと奏でたかもしれないラヴ・ソング。

夏休み某日

 彼の高校生活に於いて、怒濤でも、巻き込まれたのでもない時間帯が存在する。
 黄昏れ時、逢魔が刻。それを過ぎ、夕日も見ず、たったひとりで正門への坂を下りる。
 それが彼の唯一の静寂。

夏休み某日

 もう、彼女は行かなければならない時間だった。
「あの」
「遼太郎さん、だろ? それでいい」
「遼太郎さん……、どうして、ここへ……」
「毎日見ていた」
「……」
「俺の周りは少々、……派手だ。飽きはしないが……所詮俺の身の上のことじゃない。俺は結構そういうところがある。突き放してでしか人を見られない。そういう時は、得てして余裕がある」
「余裕……、ないときはありますか」
「今だ」
「え……」
「今がない」
「……」

夏休み某日

 ふたたび静寂が訪れると、左胸のポケットが震えた。最近は振動の種類が増えている。このパターンは昔から、いや最初からのもの。
「おう。なんだ」
「ごめん遼、俺」
「あーいい。なんだ」
「昼だ遼。飯は」
「あー……。そういやそうだな」
「梅子が起きない」
「なにした」
「……寝ている。熟睡だ、多分夕方まで起きない」
「そりゃまた」
「お前に言われて少し謹慎しようと思ったが、……少し、じゃ足りないかも知れない」
「単に安心しているからじゃねェの?」
「……遼」
「ま、勝手にやってろ」
「うん。邪魔した、ごめん」
「おう」
 ポケットにそれを仕舞うと、遼太郎は視線を前へ向けた。そこにはもう誰もいなかった。

夏休み某日

 今度は遼太郎から斉志へ電話を掛けていた。
「おう」
「……? どうした遼」
「いや別に……どうよ」
「まだ寝ている」
「なにをしている」
「まあ、……勉強」
「いつものはどうした」
「理性か? 隣で熟睡されると集中出来るんだ」
「それでか?」
「ああ。俺もよく分からないが、最初からそうだった」
「ふーん」
「やっぱり体力ないんだな。俺、……余裕ないな」
「別に……まあ、……なんじゃねェの?」
「梅子は俺の勉強の邪魔をしたくないと思っているからな。それでかもしれない」
「ヨユーたぁ言わねェが……実際、どうよ」
「まさか勉強か? 誰に言っている。こんなもので少しでも心配させるとしたら俺はそれまでの男だ。そうだろ」
「ああ」
「だから欲しいんだ。もう失いたくない。無くしたら、全部無くなる」
「もうそうなっちまったか?」
「とっくの昔にだ。俺は破滅するか自滅出来ないかのどっちかだった」
「俺もだ」
「やっと手に入れた。もう離さない。放って置かれない。置いて行かれない。俺はひとりじゃない」
「ああ」
「遼は?」
「さてね……」
 彼は朝の場所からすでに百キロメートルは離れた、山深い砂利道の上を、蝉の音と共にいた。

八月十四日

 朝靄の残る午前六時。母ちゃんに叩き起こされた寝ぼけ眼のわたしがパジャマ姿のまま自宅居間で見たものは、腕を組んで胡座姿の父ちゃんと、その前で、
「申し訳ありませんでした」
 その前で額を畳にこすりつける女の人。森下和子そのひとだった。
「和君や。まず頭を上げてくれ」
 微動だにしない和子。
「梅子。座れ」
 父ちゃんに言われて初めて気が付いた。わたしは動けもせずただ突っ立っていた。崩れ落ちるようにただ座った。
「まず頭を上げてくれ。そうでなければ話は聞かねえ」
「……」
 静かに、額をほんの僅かのみ浮かせる和子。眼鏡はしていなかった。
「私はこちらのお嬢様を公衆の面前で侮蔑しま」
「梅子!」
 和子の身を起こそうとした。一喝、だった。ここまで大きな父ちゃんの声を聞いたのは生まれて初めてだ。
「お前はここまで礼を尽くす人の言葉を遮るのか」
 中途半端な体勢のまま微動だに出来なかった。
「最後まで聞け。それが礼儀だ」
「……はい」
「ありがとうございます」
 和子はわたしが元の場所に座り直すのを確認したのか、その後で、ほんの少し頭を浮かせた姿勢そのままで言った。海でみんながああ言ったのを止めなかった。理由は自分もそう思ったから。自分の盟友に謝罪を委ね電話一本で済ませた。
 わたしにも言わずここへ朝一番で押し掛け迷惑まで掛けた。だから父ちゃんへも謝っているのだと。
「よし分かった。和君は悪い」
「はい。申し訳ありませんでした」
 父ちゃんの言葉を遮れなかった。諌められる。あの視線で。だからわたしはなにも出来ない。言えない。

 たっぷり、何分も。三人ともその姿勢のまま無言だった。重い沈黙を破ったのは父ちゃんだった。
「それで、おれが和君の手も上げさせる為にはなにをすればいいのだー」
 いつもの口調だった。すると和子はゆっくり顔を上げた。手はついたままだったけど、いつもの、あの艶然とした笑みが戻っていた。
「お嬢様は失礼ながら体力がまるでありません」
 ……目が点になりました。
「入院したあの時期にお通いの学校で身体測定があったともご存知ないようですわ」
 ……初めて知りました。
「なんとなんと、そうなのかー」
「はい。そこで私の責任で、全て私持ちでたった今より五日間、健康診断をみっっっちり取り行います。その間は私のみが付き添い医療関係者以外の者は一切シャットアウト、六日後午前十時きっかりにお嬢様をここへ無事お届けしますわ。許可を願います」
「分かったー、よろしくなー」
 いやあのわかったって五日間ってあのあの父ちゃんいいんですかー。
「はい。お任せを」
 合いの手も入れられないわたしの真ん前で和子は手も上げて単に正座姿勢になった。その表情のままわたしに向き直り、
「さあ……一緒に来て頂戴?」
 わたしの二の腕をがっしと掴んでます和子さん。あのー、どうしてそんなに艶然と……お歳はひとつしか違わない筈じゃあ……。
 わたしはまたまた問答無用で車へ押し込められた、しかもこの姿のままで。ひーえーとか言っていたら白い車に、っておっきいです。リムジンとか言う型らしいけどわたしは詳しくありません、とにかく室内がうんと広くて、乗ったら同時に窓ガラスのレースのカーテンが引かれて、前の席とは境? みたいなのがすすっと上がって外からは見えないようになって、それはいいんだけど、あのあの、いっっっくらなんで強引といいますか、あのーわたしそういうひとあんまりこれ以上増やしたくないんですけどーーー。
「ふふ……驚いた?」
「ハイ」
 素直に言いました。悠然過ぎます和子さん。
「そう……なら、成功ね」
 あのー……。
「さあ……着替えて頂戴? この通り外からは一切見えないわ……狭くてごめんなさいね?」
「イイエ」
 うんと広いです。どうして後部の座席が四つもあるんですか。
 服と靴と靴下をお借りした。それはありがたいのだけど、あのわたし……。
「どうしたの……別に恥ずかしくはないわ?」
 ……恥ずかしい理由があるのでその通り言った。せ、生理中です。今日一日目です。
「なら……丁度いいわ。それも診て貰いましょう」
 ……。

 じゃあ向こうを向いているわね、というありがたいお言葉中にもそもそ着替えた。一旦和子の家に寄って、そこでおトイレ(……)とシャワーをお借りしまして、華麗なブレイクファースト(もはや朝食ではありません)をご馳走になる。なーんておっきくて煌びやかな邸宅でしょう。玄関先に立った時、思わずかっぽーんと口を開けて見てしまいました。
 ふたたび車へ向かう。運転手さんと思しきひとが後部座席の扉を開けて待ち構えています、ひーえー。
 わたしが先に乗ると、和子が後に続かず言った。
「車の中で……成田に電話なさい?」
「え」
「運転手も私も離れた場所で待っているわ……電話がおわったら一旦ドアを開けて頂戴?」
「……はい」
 ばたんと重い音がして、ドアが閉められた。
 言われて初めて気付いたけど、そういえばわたし、一人旅を敢行しているのでは……。和子がいるし、父ちゃんお墨付き(?)があるとは言え、そうだ、成田くんになにも言わないで出て来てしまった。いけない、言わなくちゃ。
 相も変わらずへたな操作で携帯のボタンを押して掛けると、成田くんはすぐに出た。
「梅子」
「あ、はい。斉藤、です。あの、あの成田くん……」
「斉志」
「あ、うん。あの、あの」
「森下に連れ出された、そうだな」
「え」
「俺から掛け直す。一旦電話切る」
 それからすぐに成田くんから掛かって来た。
 事情を説明するつもりだったわたしを遮って、成田くんは先に話を切り出した。最初、和子が成田くんへ連絡して、わたしを連れ出していいか訊いたという。おわびしたいからって。
「ワビは俺も聞いていたが、森下は大層反省したらしくそれでは気が済まん、自分の家は大層金持ちだからあぶく銭で梅子を医者に診せたいと言って来た。俺はそういう傲慢な物言いなど梅子のおやじさんには通じんぞと忠告はしておいたがな。そうか、連れ出せたか」
 あのー……。
「梅子。行って来て」
「あの……」
「身体測定があったの、知らなかっただろ」
 ハイ……。
「梅子。俺も今、家にいないんだ」
「……え?」
 想像もしていなかったことを言われて、返事が出来ないでいるわたしに、成田くんは順序立てて説明してくれた。
 今、成田くんは県外の眼科病院にいて、視力を矯正して貰うという。プロスポーツ選手でもこういうのを受けたひとはいて、成田くんもそういうのを申し込んでいて順番待ちだったという。
 和子からそういう話を聞いて、だったらわたしが生理の日に(……)しようって。一週間くらいで帰れるって。
「だから梅子もきっちり診て貰って。俺もそうする」
「……」
「大丈夫だ梅子、安心していい。今回は俺と森下で梅子を嵌めた。事前に連絡しなかったからと言って梅子が俺に黙って勝手に一人でどこかへ行って浮気したなど思わん」
 ぶつっと電話を切りました。これから病院です、成田くんもそうです、だから電源も切りました。ドアを開けたら和子が言いました。
「計画……成功」
 悠然と微笑まれてのお言葉に、文句を言ってやろうと思ったけど。そう、わざわざ今日を指定していたけれど……生理の開始日だったのね? と切り返されて……。
 車の中で真っ赤になって黙りました。ぅぅ……。

 わたしが行く病院はもちろん成田くんがいるところじゃない。和子のお父さんのお知り合いが院長さんをやっている病院で、場所は東京のなんとか区にあるそう。
「中野さんの姿が見えなかったけれど……どうしているのか知りたい。そうね?」
 あ。
 そういえば和子のところにいるって言っていた。そういえばと言えば、最初に行った海で会って以来姿を見掛けていない。となるとずっと和子のところにいたんだろうけど、確かに今朝いなかった。
 和子が言うには、森下家以外のひとでお客さんの前に出られるひとは相当長い勤務年数がある場合に限られ、さっきの運転手さんは免許を取った十八のころからお勤めで丁度今年で三十年目だそう。
「中野さんがこれからどういう道を選択するのか……それは本人の意思。けれどいまは私が預かっているのだから、森下家の家風に則ってみっちりしごいているわ」
 そのほうが本人の為だって。マコは以前住んでいたところでも下宿代のことを気にしていた。そういう気持ちは今でもあるだろうから、ちゃんと働いて、ちゃんと勉強する。それがいわば下宿代だって。
 そうかぁ。マコ、最初だけ海に来ていたけど、大変なんだ、いろいろ。
「とにかく元気よ……以前住んでいたところではかなり居辛い思いをしたようだけれど、私のところでそんなことはないわ」
 ……うん、うん。そうだと思う。きっとそう。

 ところで生理はいつおわるのかと訊かれ、後でばれるので今言った。五日間です、って。そうしたらそうしたら、そう……わざわざ五日間と期間指定までしていたけれど、そういうことだったのね? って……。
 あのー……。
 再び真っ赤っ赤になったわたしに和子は、別に五日間みっちり地獄の猛特訓を課すわけじゃなし、のんびり大都会見物すると思ってのんびりして、そう言った。緊張しまくったり遠慮しまくったら正常な検査結果は出ないからって。リラックスしていつもの通りに。ふたりで色々なところへお買い物に行きましょうって。見てまわるだけでも面白いって。
 おっきな車から降りて新幹線に乗る。中学校以来。あのときはぽつんとひとり、みんなと離れたところにいたな。別にどうでもよかったから、ずっと寝ていた。
 今回はひとりじゃない。窓の外を見る余裕もあって、よく見るととんでもなく速く景色が動く。近いところは早く流れて遠いお山はゆっくり動いて。わー、田んぼだ。田舎だー。
「まあ……そんなに楽しい?」
 楽しいと言うか、まともに見たのはこれが初めてだから。今日は一番痛みの酷い日だけど、だから随分気が紛れた。

 新幹線のなかでも和子とお喋り。いろんなことを話した。
「今回のワビは海の件だけではないの。用があるならこちらから出向くのがスジ……なのに春先、A高の生徒会室へ呼び付けさせたわ、明美に貴女の案内を委ねて。明美を怒らないでやって? 私が悪いのよ」
 ……知らなかった。