六月八日 金曜日

 久々に朝から授業。こういう感覚で学校に来るなんて実に生徒らしくないというか、それが首の涼しい原因だと思うんだけど、とにかく朝から授業を受ける。昨日はぼーっと五・六時限目を受けてしまったし、放課後は、……。
 と、とにかく真面目に授業受けなくちゃ。確かに中間試験の成績は上がったけどそれは師匠の西川のお陰だし。そういえば西川昨日どこへ行っていたんだろう。部室に西川がいない放課後って初めてのような。
 ……。
 駄目、授業に集中しよう。全然ついて行けません。一週間以上まともに高校生やっていなかったわたし。入院ボケは引かないし、一ヶ月以内に期末試験はやって来る。いくら処分が明けたと言っても成績で首が涼しいのに変わりはない。
 そんなことを考えているからさっぱり身が入らない一限目がおわって。体力も全然戻っていなくて、さあ机に突っ伏そうとすると机に陰が落ちた。なんだか久々の感覚。
 頭を上げると、知らない女の子ふたりが間違いだろうけどわたしの机を囲んでいた。
「あんたが」
「斉藤梅子?」
 そうですけど、という顔をしてふたりに向き合う。さすがにD高の制服とかじゃなかったけど、組章はF組でも一年でもなかった。
「こんなやつがあんな秀才の?」
「全っ然似合わない」
「どこで誑し込んだんだか」
「あの大美人の方がよっぽどいいじゃん」
「さっさと別れろよ」
「向こうもいい迷惑って分かっているんだろ?」
 隣の人も前の人も前扉付近の二人もガタンと立ち上がった。それでもわたしが言う。こういうのは、絶対自分でしなくちゃいけない。でなければここにいられない。こんないいひと達に、こんないいクラスのひと達に。
 だからふたりは見ないで言った。
「はい、迷惑を掛けていると思います」
「なら今直ぐ別れな!!」
「わたし、自分のことだけ言う。好きなのは止められない。嫌いになんてなれない。直接嫌いって言われるまで。それまで止めない」
 そう言った直後に後ろ扉がガラリと開け放たれた。来たひとは、長身眼鏡、長めの髪のひと。
 そのひとに、あっという間に抱きかかえられた。そのひとはわたしの椅子に座って、わたしはそのひとに乗っているような格好になった。
 体温、におい。成田くん。
 躯ごと、全部触れている。抱き締められている。強く、強く。毀れないように。
 請われ、乞われ、こわれもののように。成田くんはわたしを抱き締める。だから目を瞑って、いろっぽい首元に顔を埋めた。そのまま、ずっと……。

 眠っていたわけじゃないから、休憩時間があと少しというのは分かっている。もぞもぞと左手首を出そうとすると、成田くんもそれに気付いて手首を出し易いようにしてくれた。
「もう時間だよ」
「うん」
 わたしがのその左手首を成田くんの目の前へ出すと、それを攫んで時間を確認して、薬指を弄んだ。
 本当にもう行かなくちゃいけない時間だったから、成田くんはわたしを抱きかかえ直して立ち上がって、わたしを椅子へ座らせて。
 あんな瞳をわたしに置いて。
 それから教室を出て行った。

 そのまま、授業開始まで目を瞑る。誰かはまだわたしの机を囲んでいたと思う。
「こいつ自分のことを言ったぜ。あとは向こうに訊けば」
「そうそう、追い掛けたら?」
 誰かがどこかへ行った雰囲気だけは伝わった。後ろ扉が開け閉めされた音がする。だから目を開けて、もう一度、今度はゆっくり立ち上がって、頭を少し下げて言った。
「ありがと」
『どういたしまして』
 ありがと、隣の人、前の人。

 気分よく晴れやかに、ちょっと涙が出た。そんな二限目おわりの休憩時間。さっきと同じ音がして後ろ扉が開け放たれると隣の人、前の人、よく見れば前扉付近の二人もダッシュして前扉からどこかへ行った。
 間もなく、わたしはふたたび成田くんに乗るひと、となった。
「……」
「……」
 そのまま、たっぷり休憩時間ぎりぎりまでそうしていて。
 今度は成田くんがわたしの左手首を取り出した。腕時計を確認して、薬指を、
 薬指を、……舐めるようにチュー、して……。
 ……。
 それから、厭々と書いてあるような表情を一瞬見せて。抱き締めたまま立ち上がって、わたしを椅子に座らせて、後ろ扉から出て行った。

 今度は目を瞑らなかったから分かる。わたしの席は一番後ろ。今は前の人がいないし、このクラス全員がいまどういう状態にあるか一望出来るのだけど。
 固まっていました、ハイ。いまF組にいるひと全員です。
 そうじゃないのは時間ギリギリに戻って来たサッカー部くんと阿っちゃんと柊子ちゃんと隣の人だけです。あとはこっちを見て、とか、横目で、とか、前を見て座りながら、とか。
 とにかく全員固まっていました。ええ、気持ちは分かります。

 次の休憩時間もこうだった。だからだと思うけど、C組から成田くんがF組へ来るまでの所要時間はまさか一秒とかじゃないから、今度F組の教室を脱出するひとは四人だけじゃなかった。半分くらいはいたと思う。
 F組へ来た成田くんは。なにも言わないんだけど、背中は触れないであげる、って言っているのは分かりました。ええ、なにも言われなくてもわたしには分かる。きっと思っている、俺厭々我慢してC組へ戻っているって……。なんだか、なんだかもう、チューしたり。その、……なのをしそう……。来る、うー、うー、どうしよう。ゆっくり撫で廻されていますわたし。いつ来てもおかしくないというか、成田くんのお家ならもう、す、すっぽんぽんになっているかも……。
 確かに成田くんは高校生離れしています。ううん、なんだかそういうのをとんでもなく飛び越しちゃっているような……いつも、なんでも、だけど。

 あの、成田くん。……学生さんは確かに、休憩時間お弁当なんて食べません。でもね。
 お昼の時間もF組へ来て? はい・あ~ん? なんて。
 そそそ、そーんなよく徹る低いお声の持ち主さんがですね、そんな、そーーーんな甘い声で教室で、わたしを成田くんに乗せて、そーんな瞳で見つめた挙げ句お箸が一膳しかないとか、机も椅子もひとつだけとか、でもお弁当箱はふたつとか、そんな、そーんな展開だと……。
 成田くんがわたしを抱き締めてわたしを乗せて、そーんなことを言った瞬間に、先に脱出した四人もそうだけど、とにかくF組のみなさん全員、あーーーんなとんでもない速さで教室を脱出するのをですね。
 口をぽかんと開けて見ていた隙にですね。
 そんな、そーんなおいしいお弁当を食べさせて、戴けまして、……。
 ……アリガトウゴザイマス、おいしいです……。

 一年F組に日中だーれもいなくなったのを見たのはこれが二度目。けどあれは体育館帰りでわたしがひとり先に来ちゃったからそうなっただけ。だからもぐもぐもぐもぐ食べました。一心不乱に食べました。おいしいお昼を食べているんです、なにかを言える筈がありません!
 けど。
「あの、な」
「斉志」
「……うん、あのね斉志、あの……斉志も、食べて……」
 さっきからずっとわたしばっかり食べている。な、斉志はずっとわたしに食べさせてくれているけど自分は食べていない。こんな体勢で、躯触れあってて体温も息遣いも全部分かる。斉志のお家でだって隣でだったのに……。
「梅子が先だ。随分体重落ちた。軽くなったぞ」
 そそそれでいいんです……。
「健康的じゃない。俺が元に戻す」
 確かに健康的じゃないけど……けどもう元に戻りたくないって、戻すって……。
「あ、あの、わたしちゃんと体力つけるから、心配しないで。朝ジョギングとか……」
「朝っぱらから浮気する気? 梅子」
「し、しません。絶対」
「梅子。俺のこと信じて」
「……」
「……厭?」
「ううん……信じる。斉志」
「好きだ、梅子」
「……うん、好き……斉志、信じる」
 信じることは信じるし、好き。でも。
 でもでもでも、こんなこと、教室に誰かひとりでもいたら言えません。わたし顔、真っ赤です。見えなくても分かる。ぅぅ……。
 それからずーっとわたしだけ食べてて。ようやっと、なんとかお願いして、さいごの方だけ食べて貰った。
 お昼の時間は休憩時間より長い。けど、はい・あ~んというのは食べおわるまでちょっと時間が掛かります。ちょっと。それでも食べおわったらさあ五限目、ということにはならない。ずっと、ずーっとこの体勢のまま。だから誰も、……だーれもこの教室へ入って来ません。
 えっと。えっと、えっと……。
 このままではわたし、こんないいクラスのみなさんに、庇ってくれたひと達に多大なるご迷惑を……。
 ……。

 もうすぐ五限目になると、顔に厭々と書いてあるような成田くんはわたしを椅子へ座らせて、C組へとお帰りあそばしました。次は体育なんです。わたしは休むけど、みんなは着替えが必要です。早目に行かなくちゃいけません。だから成田くんはそういう時間にF組を出た。F組の時間割りなんて知っているでしょう、当然……。
 F組のみなさんはお昼となって教室をすっ飛んで脱出する際全員仲良くお弁当箱と体育着の入ったかばんを引っ攫んで出て行っていました。このクラスってなーんて素敵なんだろう……。
 這々の態で教室を出て、職員室斜め向かいの更衣室へ向った。着替えはしないけど。
 体育の授業は女子だけ。A組・B組、C組・D組、E組・F組、G組・H組、という組になる。だからF組はE組と一緒になるけど、男女別だから師匠の西川とは授業は一緒にならない。選択教科は美術と音楽で別のようだし。
 着替えはしないけど更衣室へは行ったらば。
「もうもう、見ちゃいらんないよ! らぶらぶ過ぎ! さっきなんかお昼はい・あ~んだよー!」
 阿っちゃんです。……。
『えーーーーっっっ!!』
「すごい!」
「ほんとに!?」
「うっわー……高校生それ!?」
「相手、成田君だしねえ……」
「噂ぜーんぶ嘘だってのは分かったけど、なんか大どんでん返しっていうかー」
「うん、あのスピーチの時はさすがに意外だったけど、もう凄いよ? 成田君、休憩時間全部来て。もう、ぎゅーーーーっと斉藤さんを抱き締めて」
『ひえーーーーーーっっ!』
「マジで!?」
「えー……」
「み、見てみたい」
「止めた方がいいって、こっちのクラス、昼には全員避難したもん。危険回避」
「そ、それは……すっごーい……」
 ぅぅ、ぅぅ……。
「あああのそのあの……」
「ウメコちゃん、詮索されるの嫌いだもんね、ねえみんな、あんまり突っ込まないでやって」
 柊子ちゃんです。ぅぅ、ありがとう……。
「まあ詮索は勿論しないけどもう。でもさ、ちょっとさ、やり過ぎっていうか高校生離れしすぎって言うか……」
 ハイ、わたしだってそうだと思います……。
「ねー……」
「う、うん。ごめんなさい。あの、なんとかするから」
 いちおう言ってみた。ほんとに一応だけど、言うだけは言わなくちゃ……ぅぅ。
「ホントにぃ~~? 言いたくないけど相手はあの成田君だよ。でも、……すっごい硬派な人だと思っていたけどなあ……」
「あれはもうとんでもない愛妻家だよ」
「もう、見ちゃいらんない」
「大丈夫~? ウメコさん」
「う、うん。頑張る。でないとわたし、もう教室にいられない」
 ほんとにそうです。
「それはこっちだって。でも、ちょーっと強敵過ぎると思うけど?」
「そ、そこをなんとか」
「すっごい亭主関白っぽそう」
 ええそうです。絶対そうです。

 E組のみなさんもいいひと達です。でもわたし茹ダコ状態。入院明けだから制服のまま、体育は見学。実技をしてもこの通りの運動神経。思えば合同って運動会とか体育祭とかを大きくしたもの。うんと楽しみにしていたけど、ひょっとしたらわたしのあんな運動音痴っぷりを、サッカー部くんや明美だってあきれたあんな姿を成田くんの目の前で晒しちゃう、なんてことになっていたかも。
 ……。
 確かわたしは入院前、あーんな躯を、み、見られるなんてもんじゃない程誰かに見せていたような。
 ひょっとしたら入院してよかったかも。
 なんて言ったら目の前にいる、五限目おわりの休憩時間もやっぱり来ました成田くんになにされるか分からない。
 けど。女子のみんなも、口に出していないけどF組の男子のみんなも、本当に止められるのか、というより、これからもずーっとそんなの見なくちゃいけないですか? な視線を頂戴しましたからには。
 とにかく来ました成田くん。あんな瞳でわたしを見て、腰を引き寄せて抱き締め体勢を取る前の成田くんへ、わたしは腰に手をやって言った。
「違反」
「……梅子」
「もしわたしが、自分のことだけ考えて周りが見えなくなって、またどこかへ乗り込むとしたら、どうする?」
 このときも隣の人は隣の席にいなかった。後ろ扉からわたしの席の間にいるから、今日一番忙しくて、一番先にすっ飛んで教室出て行かせてしまっている。いまはこの教室内にいて、このやりとりの一部始終を見ていると思う。多分、間違いなくF組の全員も。
「……止める」
 一瞬、苦笑を浮かべた成田くんはわたしを抱き締めることはせず、後ろ扉から帰って行った。